中ザワヒデキ文献研究2017年度第01回「このあきらかに駄目な時代に(彷書月刊2009)」 2017年05月17日(水)[実況] #文献研究
- nakaZAWAHIDEKI
- 1992
- 8
- 2
- 4
中ザワ「見開きで全4ページの文章。これを精読します。特集美学校のあれから十年とあります。「美学校」のロゴは独特な書体ですよね。
2017-05-17 19:46:21中ザワ「さて、今は駄目な時代ですかね?そうではないですよね。「美学校」ではなく「美學校」、これは赤瀬川原平がどっぷりとした墨で書いたもの(で、彼が作った文章)
2017-05-17 19:47:29中ザワ「で、次の檄文と続くのだが、その文章は赤瀬川のものではない。今泉省彦だろう。「檄文明らかな駄目な時代に生い育った私達はそれぞれに手慣れの技量を武器として芸術は可能かにビームを合わせるしか無い。」
2017-05-17 19:49:19中ザワ「1980年代初頭、中ザワは自身はおいしい生活の享楽肯定な時代の大学生だったが、美術手帖やガロに掲載されたおろそしい書体と硬派な文体が場違いな閉塞感を醸し出していた。
2017-05-17 19:52:01中ザワ「おいしい生活や享楽肯定な時代については、中ザワヒデキ「現代美術史日本篇」に記述してあります。ところでセゾン文化と言うけれどもそれは90年代から自ら名付けただけで、80年代当時は「西部文化」であろう。
2017-05-17 19:53:11中ザワ「1981年に大学一年生だったのが私。このころが「西部(西部文化)」で今で言うセゾン文化。この特徴は享楽的で楽しい時代です。
2017-05-17 19:54:06中ザワ「ではその前はどうだったか、つまり享楽ではない。頭でっかちで難しい時代。美術ではもの派やポストもの派だった。これが80年代になるとニューウェーブやニューペインティング、表現主義の時代となる。
2017-05-17 19:54:59中ザワ「ガロや美術手帖は80年代以前のもっと小難しい時代から出てるが、時代の変遷で内容は享楽的になってきた。そこで昔のままの場違いの文章があった。それが美学校の広告だった。
2017-05-17 19:55:56中ザワ「ウッディ・アレンが重要で、彼に着物を着せ、おいしいという言葉が食べ物にしか使われてなかったがそれを生活につけてしまった。其の言葉は日本語としておかしい、しかしウッティアレンに着物を着させ習字をさせることでそれを回避した
2017-05-17 19:58:28中ザワ「おいしいを通じて享楽肯定のコピーが出てきたにも関わらず、美学校だけがこのあきらかに駄目な時代にという檄文をとばし、その広告は場違いであった。
2017-05-17 19:59:15中ザワ「怖いながらも美学校の広告は楽しんでいた。しかしそれでも僕は美学校の門戸を叩かなかった。それはなぜか。時代との乖離を恐れたからではない。つまり時代遅れだからではない。
2017-05-17 20:00:01中ザワ「「知識」は教えたり教わったりできるが、「学問」はできない。学問は自分で学びにいくものだからだ。また「技術」は教わったり教えたりできるが「芸術」はできない。
2017-05-17 20:01:39中ザワ「で、技術=アート=芸術という語源論は昔の話。つまり古くはアルスなのだが。技術と芸術はともにアートでアルス。 中ザワ「美しい技術=アルスなのだが、それが今日の芸術に転じた。技術が芸術の意味で使われたのはなぜか。神を称えるからだ
2017-05-17 20:03:11中ザワ「それが民主主義となり、神や王から美しい技術が美しい技術そのものとしてあるようになった。では神でも王でもなく残ったとすれば、技術としての芸術はもう役目は終えた。それでもなお生き残るなら芸術のための芸術である。
2017-05-17 20:04:34中ザワ「写真技術が登場して純粋美術が発生して以降は芸術と技術は別物だ、といううんちくは大学生の自分は知らなかったが、美大に行かなかった理由も自分にとって同様だ。
2017-05-17 20:06:09中ザワ「写真技術が登場すると、絵画の死が言われ筆を折った人も多い。しかし写真にお株を奪われても絵画は生き延びた。それは純粋美術、例えば抽象美術つまり芸術のための芸術で生き残った。写真の登場と民主主義がシンクロしながら芸術のための芸術が登場した。
2017-05-17 20:07:17中ザワ「と、いうことは今の自分は言えるが大学生の自分は分かっていたが言わず、だからこそ美大にも行かなかった。当時は医大へ通っていたがアクリル絵の具で感覚的な絵ばかり描いてパルコの日本グラフィック展へ出していた。
2017-05-17 20:08:14中ザワ「当時は享楽的なセゾン文化の時代であり、そのグラフィック展へ当時の自分は出展していた。それは現代美術史日本篇などに詳しく記述しているし、近代美術史テキストでも記述してる
2017-05-17 20:09:06中ザワ「時代は少し進み、1990年美学校出身と称する人に私ははじめてであった。それがデザイナーの佐藤直樹だ。イラストレーターとして駆け出したばかりの私へ仕事を発注してきた。
2017-05-17 20:10:33中ザワ「当時の私はまだ珍しかったパソコンへ画材を変えてバカCGとして面白がられていた。つまり当時のCGはまさに泣く子も黙る美しいと思われていたにも関わらずバカとつけていた。
2017-05-17 20:11:36