竹富島の外に竹富島を作る! キョーユーカイ!

竹富島の出身、縁故者で組織された東京竹富郷友会の創立の話。
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たけとみ @tktaketomi

毎月第一土曜日は東京竹富郷友会の役員会です。いつも役員会を行う港区の施設が震災の影響で補修中とのことで、今回は急きょ会長宅で行うようになりました。 この郷友会(キョーユーカイ)は沖縄の島、村の出身者がふるさとを離れて組織した「ふるさと友の会」です。ミニ県人会のようなものです。

2011-04-02 04:04:39
たけとみ @tktaketomi

数ある郷友会の中でも、東京竹富郷友会は今年で創立86年を迎えます。これは他に類がありません。竹富島の公民館と密に連絡を取りながら、種子取祭には、100名からの奉納団で竹富に帰り盛り上げます。

2011-04-02 04:10:54
たけとみ @tktaketomi

私の所属する東京竹富郷友会発足は、大正一四年に「嘉利勇士会(かりゆしかい)」としてスタートしました。昭和四年、「竹富郷友クラブ」と改称、そして、昭和四三年、「東京竹富郷友会」と改称して現在に至ります。  http://tk.taketomi.org/

2011-04-02 12:50:37
たけとみ @tktaketomi

竹富島の大先輩、故与那国真智翁は、東京竹富郷友会創立六十周年記念誌の中に創立時のことを詳しく書いています。東京に出てきた当時の竹富の人の様子がリアルにとてもよくわかりますので、紹介します。

2011-04-02 12:52:16
たけとみ @tktaketomi

竹富島の諸先輩は関東大震災(大正12年)前の大正10年頃から東京に上京し始めたようです。先輩方は殆どが大志をいだいて東京へきたものの、不況とあっては中々就職口がなく、後続者も震災後の焼け野原とあっては思うように就職することもできませんでした。

2011-04-02 12:56:32
たけとみ @tktaketomi

東京には頼る人も少なく、ほとんとの方が自力で職を探さなければなりません。独学で警察官になったり、通信局に採用された方は非常に幸運でした。女性の多くは、与那国静先生が東洋モスリン合資会社で礼儀作法や生花の師匠として女工達を指導しておられた関係もあり、紡績工場で働くのが大半でした。

2011-04-02 12:57:48
たけとみ @tktaketomi

男性達にとって一番収入がよく歓迎されていたのが自力発動車(人力車)の仕事で体力に自信のある方は好んでこの職についたようです。その職場が京橋区(中央区)にある木挽町の田中屋で、ここには、竹富島出身者、6,7名の諸氏が勤務し、新富芸者や新橋芸者の華やかな美人を相手に活躍したようです。

2011-04-02 13:03:14
たけとみ @tktaketomi

しかし、先輩達はいかに憧れの東京で活躍しているとはいえ、生り島のことが忘れられるものではなく、幼少から青少年になるまで親兄弟、親戚、友人、村人全体が一体となって生活してきた環境と島への望郷の念が常に脳裏にから離れません。

2011-04-02 13:08:45
たけとみ @tktaketomi

特に、島の特殊性、つまり、情味溢れる人情感、祭事、特に種子取祭の雰囲気、人なつっこい言葉、紺碧の海、透き通った夜空、数々の民謡、無数の芸能、温暖な気候、強烈な台風等々が毎日のように思い出され、一度は必ずと云ってよいほど強いホームシックにかかったそうです。

2011-04-02 13:10:02
たけとみ @tktaketomi

現在は、朝一番の羽田から石垣直行便の飛行機にのれば、10時ごろには石垣に着けます。石垣から竹富島までは、船で10分です。しかし、この大正時代は、船で何日もかかり、思い立ってすぐ帰るわけにはいかず、強いホームシックにかかることもしばしばだったのでしょう。

2011-04-02 13:11:50
たけとみ @tktaketomi

その強い望郷の念、遠く離れるほどふる里に心が惹かれる度合いが強く、その引力がいつかは炎となり燃えさかってお互いが結びつき心の拠りどころを求めました。この結晶が「かりゆし会(嘉利勇士会)」となって現れたということです。

2011-04-02 13:13:58
たけとみ @tktaketomi

そして、大正十四年十月に京橋区(現在の中央区)木挽町そば屋の長寿庵(現在は昭和通りに営業中)で創立総会を開き「かりゆし会」が発足しました。当日は雨の為、出席者は7名程と少なかったようですが、これが今年創立86年を迎える東京竹富郷友会のスタートとなりました。

2011-04-02 13:14:47
たけとみ @tktaketomi

竹富島の本年度の祭事・行事予定の一覧をアップしました。 東京竹富郷友会のHPをご参照ください。 http://tk.taketomi.org/info ショーロ、種子取祭には、是非竹富島へいらしてください。

2011-04-21 00:58:17
たけとみ @tktaketomi

現在、東京竹富郷友会は、竹富島にどんな支援、かかわりが持てるかということを考え、島と一体となって活動することを目指しています。創立時の会員相互扶助の活動から、この竹富島と一体となる活動の原点、転機となったのは、国立劇場における竹富島種子取祭芸能公演について話します。

2011-04-21 01:01:11
たけとみ @tktaketomi

沖縄の日本復帰四年後の昭和51年の6月、東京の国立劇場で行われた、竹富島種子取祭の芸能公演は、国立劇場の主催公演とあって、まずは竹富島の芸能の調査から始まりました。

2011-04-21 01:02:27
たけとみ @tktaketomi

東京からは郡司正勝先生・西角井正大先生、沖縄県文化課からは宜保栄次郎先生・當間一郎先生などが数回来島され、竹富公民館は狩俣正三郎氏を委員長とする種子取祭国立劇場公演実行委員会を組織します。

2011-04-21 01:03:24
たけとみ @tktaketomi

国立劇場公演に当たっては、大きな課題が二つありました。一つは演目の編成及び出演者の問題であり、二つ目は旅費の工面でした。 演目の編成及び出演者については、竹富島内における玻座間村と仲筋村の問題だけでなく、石垣竹富郷友会も深くかかわっていました。

2011-04-21 01:04:07
たけとみ @tktaketomi

種子取祭の芸能は、玻座間狂言部・玻座間東踊り部・玻座間西踊り部・仲筋狂言部・仲筋踊り部の五つの団体で奉納されますが、それらの五つの団体すべてに石垣竹富郷友会の会員が参加していたからです。そんなわけで、石垣竹富郷友会にとっても、国立劇場公演は最大の関心事となりました。

2011-04-21 01:04:44
たけとみ @tktaketomi

二つ目の旅費問題は、国立劇場側が出演者25人で予算を組んだのに対し、竹富公民館は70名の出演者を予定していたので、とても折り合える状態ではありませんでした。

2011-04-21 01:08:03
たけとみ @tktaketomi

交通宿泊費等の旅費については、国立劇場と沖縄県が折半することになっていましたが、県は予算の関係上、結局当初予定していた25人を30人に増やすのが精一杯でした。

2011-04-21 01:08:46
たけとみ @tktaketomi

団長として上京した狩俣正三郎公民館長の経費記録によると、旅費及び出演料(32名分)1,636,400円、竹富町からの補助50万円、竹富公民館の負担3万円、三郷友会・竹富からの寄付762,000円、祝儀等154,080円、非出演者からの旅費徴収384,000円、となってます。

2011-04-21 01:12:35
たけとみ @tktaketomi

結局、収入合計は、3,736,480円でした。その結果、収支決算では50万円の黒字となり、その残額は、玻座間と仲筋の芸能保存会で二五万円ずつ折半したとのことでした。

2011-04-21 01:16:21
たけとみ @tktaketomi

狩俣正三郎氏によると、石垣・東京の郷友会はもちろんのこと、沖縄では県庁に影響力のある山城(与那国)善三先生が陣頭指揮を執ると同時に、沖縄竹富郷友会も寄付集めに奔走したとのことでした。

2011-04-21 01:16:55
たけとみ @tktaketomi

この公演は、単に国立劇場からの出演依頼で種子取祭公演を行ったというだけのことではなく、出演希望者が多く予定の予算を大きく上回ったために、竹富島・石垣島・沖縄本島・本土の竹富島出身者が総力を挙げて旅費を工面し、その中心となったのが、竹富公民館と石垣・沖縄・東京の三郷友会でした。

2011-04-21 01:17:56
たけとみ @tktaketomi

つまり、昭和51年の国立劇場公演は、竹富公民館が培ってきた自助努力と自治の精神が、結果として石垣・沖縄・東京の三郷友会にしっかりと押し広められ、竹富公民館を中心に三郷友会が提携して島の伝統文化を継承する足掛かりを築いたと言えます。

2011-04-21 01:18:24