野中広務氏、92歳で逝去~その反響
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野中広務①自分が部落出身者だと初めて知ったのは、ふとしたきっかけからだった。中学二年生の時、下校途中に後ろから歩いてくる連中に「あいつは部落の人間だよ」と言われたのを聞いたのだ。(辛淑玉氏との対談『差別と日本人』より)
2018-01-26 18:45:37野中広務②それ以降、自分を意識し始めた。そして「なにくそ」と思った。「部落出身者」であることをハンディにしたってしょうがないんだ。それをバネにして頑張りゃいいんだ」と。(辛淑玉氏との対談『差別と日本人』より)
2018-01-26 18:45:57大阪鉄道管理局で出世頭だった野中広務氏は、同僚からこんな陰口を叩かれたのを偶然耳にしてしまう。「野中さんは大阪におったら飛ぶ鳥落とす勢いだけど、地元に帰ったら部落の人だ」。氏は七転八倒の末に職場を辞する。そして政治への道を歩み始めた。(辛淑玉氏との対談『差別と日本人』の記述より)
2018-01-26 18:47:31野中広務③僕には子どもが一人いて、娘なんだ。婿をもらったんだけども、婿には「おまえの姓を名乗れ」と言った。「そうでなかったら、おまえが小学校の時から積み上げてきたことがすべてゼロになるぞ。だからこれまで使ってきた自分の姓を名乗れ」と。僕には苦い経験があるからね。(辛淑玉対談より)
2018-01-26 18:50:43野中広務④娘もシャンソンのディナーショーやってみたり児童劇団をつくってみたりしていろいろと活動をしている。しかしそこへは僕は行けないの。僕と娘をくっつけられたくないの。孫も中学のころに耐えられない差別を受けたんですよね。(辛淑玉氏との対談『差別と日本人』より)
2018-01-26 18:52:32野中広務⑤〈孫は絶対地元の高校へ行くって言わなかった。自分で努力して京都の進学校へ行った。そして大学も関西の学校は一切受けずに東京へ行った。でも僕は孫の入学式にも卒業式にも行けなかった。はじめから数に入っていないんだ。というのは目立ちすぎるからね。(辛淑玉氏対談『差別と日本人』)
2018-01-26 18:53:29野中広務氏と辛淑玉氏の対談『差別と日本人』のうち最も読ませるのは、野中氏が家族について少しずつ口を開いている部分だ。野中氏一家は、今も昔も部落差別に苦しんでいるのである。インタビュアー辛淑玉氏に背中を押され、野中氏は機微に触れる発言を『差別と日本人』に残した。
2018-01-26 18:55:22野中広務先生が亡くなりました。ご冥福をお祈りします。総理を辞めた後、那覇でお目にかかった時、「良くこんなところに来れたな」と沖縄に来たことをなじられました。2年後に野中先生は私のことを誤解していたと公の場で謝罪をされました。謝罪していただいたことに感激いたしたことを思い出します。
2018-01-27 16:47:49「鳩山由紀夫君に謝罪しなければならない」と沖縄で行われたシンポジウムで、満員の参加者に向けた野中先生の謝罪の言葉を、私も聴衆の一人として聞いていて、胸が熱くなりました。ハンセン病の闘いでも御世話になった野中先生。御冥福を祈ります。 twitter.com/hatoyamayukio/…
2018-01-27 18:02:31野中広務さん逝く。すごい人でした。初めて名刺を渡した時、「ええ名前や。 みんなが書きたくなる名前や。選挙に出なさい。名前だけで3000票は取れる」と言われ面食らいました。部落差別と闘い、あらゆる不条理と闘った人生でした。合掌。 mainichi.jp/articles/20180…
2018-01-27 07:06:37