回想-@maruka0415さんの震災
2011.3.11。あの日から3週間。気がつけば、志津川小学校、中学校、高校の校歌ばかり繰り返し口ずさんでいる。仙台の街を歩きながら口ずさむと、時折、涙がこぼれおちそうになる。校歌ってこんなにいい歌だったんだなとしみじみ思う。
2011-04-03 13:32:26あの日の記録。午後2時46分、青葉区にある職場の9階にいた。下から突き上げるような振動を感じたとき、数日前にもやや大きな地震があったばかりだったので「やれやれ、またか。」と思いながら廊下に出た。揺れは収まる気配がなく、徐々に激しさを増していった。
2011-04-03 13:49:34(つづき)本棚、キャビネット、高さのあるものはほとんど倒れていった。未だかつて経験したことのない揺れに立っていられず、その場にしゃがみこんた。飛ばされないように片手で必死に丈夫そうなドアの取手を握りしめ、片手で同僚の手をしっかり握っていた。電気が消えた。
2011-04-03 14:02:26(つづき)バタン、バタンと物が落ちる音、ガチャン、ガチャンとガラスが割れる音、終わらない激しい揺れ。前月に起きたニュージーランドのビル崩壊が頭をよぎる。「建物がくずれる!」怖かった。本当にもうだめかと思った。やっと揺れが収まった頃、皆で声を掛け合い、階段を使って建物の外に出た。
2011-04-03 14:15:38(回想)大津波から1夜明けた12日の朝、私はテレビを見るのが怖かった。東北の太平洋沿岸の被害が次々と報道される中、ふるさと志津川(南三陸町)の映像がなかなか流れない。報道がそこまで入っていけないということなのか。あの町に何が起こっているのか。両親は無事なのか。
2011-04-03 15:59:56(回想)映像に映し出された志津川は、志津川病院、サンポートを除いてほとんど水没していた。絶句した。中心部より東にある大森の高台の我が家を探そうとしたがその映像からは見当がつかなかった。お父さん、お母さん。その日から私の心は彼らを呼び続けた。祈って、祈って、祈り続けた。
2011-04-03 16:07:48(回想)南三陸町、安否不明者1万人。「なに、それ?それって人口の半分以上じゃないか!」再び絶句。実家は高台にあり、避難所にも指定されている場所にあったので、通常ならそこにいれば難は逃れているはずである。しかし、大津波はその常識をいとも簡単に乗り越えた。恐るべし。
2011-04-03 16:15:46(回想)大地震、大津波発生から5日間。地元の親戚の無事は徐々に確認できたものの、依然として両親の安否はわからなかった。あの、激しい、真っ黒な濁流に両親が呑み込まれたと思うと、心はほとんどつぶれかかっていた。親戚の人や職場の方々が励ましてくれた。大丈夫だよ、信じようと。
2011-04-03 16:21:07(回想)5日目の夕刻、叔母から連絡有り。「お母さんがアリーナにいたよ!」テレビに映ったらしい。涙が出た。人生でこんなに嬉しかったことはない。そして、次の日、母から電話があった。「お父さんも無事だよ。一緒にいる。」神様、神様、ありがとうございます。ありがとうございます。
2011-04-03 16:27:05(回想)さっそく、心配してくれた親戚や職場の人たち、友人に両親の無事を伝えた。みんな、泣いて喜んでくれた。私もまた泣いた。こうして私の心に重くのしかかっていた不安は取り除かれた。しかしこの不安を今もなお抱え、憔悴しきっている人々の苦しみを思うとやはり心がつぶれそうになった。
2011-04-03 16:35:51大津波はどれだけ多くの悲しみをもたらしたのだろう。今でもこんなことが現実に起こったなんて信じられない。1000年に1度ともいわれるこの大震災、なにゆえに今このときに、なにゆえに素朴に自然に従って生きてきた東北の人々に・・・こんなことつぶやいてもしかたがないとわかっているけれど。
2011-04-03 16:45:11アリーナにいる母から週に一度電話がかかってくるようになった。嬉しい。何か欲しいものがあるかと聞くと、何もいらないという。3月21日に会いに行ったときは化粧水とか父のひげそりがほしいといっていたのに。アリーナでは物資が充たされていることがわかる。全国の皆様、ありがとうございます。
2011-04-03 20:45:00