- mike__neko
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今から、このたびめでたく最終回を終えました「スタドラ」話をゆるーくはじめます。興味があるかたはご参加ください。特にしばりとか面倒くさいもんないのでー。
2011-04-06 03:01:58@totinohana 最終話は、期待から外れることなく演劇の内容を踏襲してきたなぁ、という印象ですね。あのときタクトが”見えていた”ものを、タクトは見失わなかった。そして”キス”に相当するところまでで(スガタと、という意味ではないけどw)終幕する、と。
2011-04-06 03:04:43@mike__neko なるほど。「キス」が、たしかに「神話前夜」における真実の選択であり、25話におけるタクトらの選択もスガタにして見れば同じような意味を持つでしょう。それはタブーでは有り得なかった、と。だからその場面からはじまるザメクの飛翔はあまりにも皮相なものだった。
2011-04-06 03:15:28以前ルカーチの「悲劇の形而上学」から引用した“観客”、すなわち神は最終回においては3段階に存在していて、ひとりはスガタ。無言のままに最後の戦いを見つめて、正に彼の思いなど誰も知るところでなかった。トキオにもケイトにもある時点までの綺羅星にも便宜的に存在するに過ぎない神、王だった。
2011-04-06 03:25:45ふたり目はエントロピープル。舞台を用意しながら、劇に直接参加することを許されない神。複数の劇中劇に語られるように、自分達の想像力の限界にうちのめされた過去のものたち。印の継承者たちの原型で、榎戸洋司的ニ言えば“あがり”を迎えてしまったもの、完全な大人の抽象。
2011-04-06 03:38:16そして一人目の神「大人にならざるを得ないもの」と二人目の神「完全なる大人なるもの」のどちらも諦めた、正に演劇的存在(劇中では第4フェイズ、すなわちサイバディと同一化したもの)が信じているもの「少年(祝福されたひとり子)」としての神、タクトが見ているものが三人目の神。観客の位相。
2011-04-06 03:48:25@totinohana そしてトキオがそうした”勝負”を嫌う、ということでした。トキオにとっては彼らの勝負そのものを覆すことが抵抗なのでしょう。その三者に照らすと「大人になる事を拒んだもの」といえるでしょうか。
2011-04-06 03:55:27@mike__neko あれ?遅延かな? 一応先ほどまでの投稿が反映されているものとしてお話させていただくと、トキオにとってまず「大人になるための勝負」はくだらないもの。そして少年少女がナイーブに「自己像を守るために戦うこと」もくだらない。どちらの理想像も持たないから。
2011-04-06 04:16:53@mike__neko 「大人になる」ということは大人(エントロピープル含む)が作ったゲームに付き合うこと、その中で地位を上げていくことですからザメクという頂点を傀儡にできるだけの才能を自覚しているトキオには(才能があることは事実なので)そんなものに乗ってやる理由がありません。
2011-04-06 04:22:21@totinohana ああ、なるほど、そうですね。「大人になる必要のないもの」というのが正しいか。彼の若作りは第1フェーズ(=才能)によるものですし。
2011-04-06 04:26:02@mike__neko また「ナイーブな自己像を守るために戦うこと」も、やはり背伸びをしているに過ぎないこと(「大人のゲーム」の中ではてんで力を持たないこと)ですから、彼はおそらくそういう戦いに価値を認めないのです。
2011-04-06 04:28:04@mike__neko だからそうした世界の必然に敗れていくものへの優しさ(ツナシの家訓)も理解しない。彼にはわざわざ勝負を挑んでいることに見えるでしょうから。
2011-04-06 04:29:37@mike__neko そう、シンゴを篭絡して第1フェーズを使わせていること自体(というか、一応彼の数少ない同士なんですが意見を曲げさせない存在感は)才能といっていいでしょう。彼が現に若々しいことはそんな才能に拠ることは、誰も否定できません。
2011-04-06 04:33:36@mike__neko 偏に、彼にとっての問題はそうした「ゲーム」をバカにしつつも、日々がつまらないということなんです。おそらくチャンスを感じたことはあった。ソラやサカナちゃんだけじゃなくいくつかの関係で。だけどそこには責任という名の「ゲームの契機」もまた同時に存在していた。
2011-04-06 04:38:19@mike__neko だからザメクの力による無限のやり直しを欲求する。「ゲームの契機」が存在しない人生の充実を手に入れるために。かなしいかな、彼にはそれだけが悦びを予感できるものだったのでしょう。だから、ザメクを支配した瞬間、彼ははじめてカタルシスに浸れたと想像されるわけです。
2011-04-06 04:42:59@mike__neko ええっ、「もっと変態演技でも良かった」と投稿したのはそういう理由。最初のタクト戦も父親役の「ゲーム」からのカタルシスを感じるケースではありましたが、ザメクを支配できることは比較には。祭の始まりではなく、あの時点ですでに相当の達成感に浸っているはずだろうと。
2011-04-06 05:09:03@mike__neko トキオは神(父親やタクト)を殺したかったわけじゃないですからね。“くだらないゲーム”に関わらない人生を歩みたかった、という方が明らかに強いでしょう。もちろん感情的に殺すつもりがないとは言えませんが、最終回の、タクトをまっとうに叩き潰す作劇には違和感が。
2011-04-06 05:20:16@totinohana 確かにそうですね。彼としてはあの戦いそのものが目的ではない。(タクトや綺羅星たちを見下す態度からの挑発ではあるんでしょうが)
2011-04-06 05:39:50@mike__neko 「神話前夜」になぞらえる話が出ましたが、面白いのはおそらくトキオに当る役があの劇には誰もいないのですね。彼はまったくの観客なんですよ。現実には色々やってきたはずなのに役に一切感情移入(投影)できないところに、「親父の方は駄目だな」(サリナ部長)となる。
2011-04-06 05:51:24まずトキオにはクレイスがいない。正確にはクレイスであったはずの人は居たがそう確信を得るに到っていない。だからコムスナのような執着、不安にとらわれることがないし、マルクようなコムスナに自己投影する立場にならない=作中に観客、自己の代理を持たない。誘惑者にも殺されるものにもならない。
2011-04-06 05:58:47@totinohana そうですね。スガタがトキオの皮肉ともとれるようになっていたんじゃないかとも思いますが、トキオからみればエントロピープルの作った劇に自己投影出来るはずもない。
2011-04-06 06:00:38