林郁夫「オウムと私」を読んだ感想

『オウムと私』は、元々心臓外科医で、オウム真理教で治療省大臣をした、そしてサリン事件実行犯であった林郁夫(クリシュナナンダ師)の自伝であり、『慟哭』はこの裁判の記録を取材した小説家が一冊の本に纏めたものである。 文中の「真理勝利者」は「真理勝者」の誤字です
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nekojita @nek0jita

『オウムと私』と『慟哭』を両方読んだが、『オウムと私』の方が遥かに面白かった。どちらか読もうと思ってる人は『オウムと私』を読んだ方がいいし、両方読む場合も時系列的にも『オウムと私』を先に読んだ方が良い。捕まるまでの話で、『慟哭』は捕まってからがメインなので。

2018-07-16 00:36:16
nekojita @nek0jita

『オウムと私』は、元々心臓外科医で、オウム真理教で治療省大臣をした、そしてサリン事件実行犯であった林郁夫(クリシュナナンダ師)の自伝であり、『慟哭』はこの裁判の記録を取材した小説家が一冊の本に纏めたものである。

2018-07-16 00:38:57
nekojita @nek0jita

『オウムと私』のなかで、林郁夫が、麻原の、グルがカルマを見切って、現在・過去・未来の全てを見通しているから、グルの指示に従って行うことは例え殺人や犯罪であっても結果的に全て正しいのだという、『ヴァジラヤーナ』の指針について、自分の言葉で明確に批判しているのが面白い。

2018-07-16 00:39:55
nekojita @nek0jita

異常な指示を与えられた時、普通は自分自身の規範やこれまでの職業倫理に立ち返っておかしいと思うが、そういう既存の価値観はオウム曰くは『観念』であり、解脱のために取り払うべき物だ。それで『殺人であろうと正しい』と思い込む事、嫌だと思う事でも実行する事が、修行になるという考えに至る。

2018-07-16 00:41:00
nekojita @nek0jita

この構造を説明した後で、諸々の問題点を述べるのだが、仮にオウムが支配した世の中では、全ての物事の善悪を、グルが肯定したかどうかで判断するから、何も自分では決められなくなる。それは解脱を志す者が望んだのとは、正反対の世界の筈である、と言っていた。

2018-07-16 00:42:18
nekojita @nek0jita

また同僚が計画の変更について融通を効かせず、一々尊師に確認していたことについて、最初いらいらしていたが、途中で『ヴァジラヤーナの最中には、融通を効かせて計画を変更するということは有り得ない事なのだ』 と気付くという所が有る。

2018-07-16 00:46:27
nekojita @nek0jita

ヴァジラヤーナの教えによれば、犯罪行為はグル・アサハラがカルマを見通して指示を出しているから最終的に功徳になるのであって、現場で気を利かせて計画を変更した場合は単なる犯罪行為になってしまうのである。この為、何が正しいか自分で判断できず、結果として指示待ち人間になってしまうという。

2018-07-16 00:47:49
nekojita @nek0jita

また、グルは未来を見通して指示を出しており、その中で、一見すると犯罪行為だが最終的には救済になるという指示をする訳だが、グルに見捨てられたり、実は彼が正しくなかった場合には、それらの行為は単なる犯罪行為であった事になって、自分は二度と解脱に至れない。

2018-07-16 00:48:56
nekojita @nek0jita

ただ、林郁夫自身が、(本を書いている)現在、解脱に至るために修行するということ自体をフィクションだと思っているのか、そうではないのか、ということに、明確な回答がない所が、不十分だと思った。仮に判断できないのであっても判断できないと書くべきである。

2018-07-16 00:50:35
nekojita @nek0jita

あれほど解脱を追い求め、全ての事を説明できる明確な法則を知りたがった林郁夫は、真実を明らかにして償うという態度で自著を締め括っているが、これは自身がサリンを撒いて、人を殺めてしまったことも有って、目標を下方修正しているのであって、本来なら今も解脱を目指したいのだろうか。

2018-07-16 00:52:27
nekojita @nek0jita

換言すれば、林は麻原の人格を批判しているが、仮に、麻原と同様の主張をし、なおかつ『人格的にも優れている』修行者が今の世に現れたとして、彼について行く事が正しいと思うのか、そうではないのか。

2018-07-16 00:54:43
nekojita @nek0jita

これは卑怯な問いかもしれないが、林はいわゆる洗脳をされていない正常な心理の中で、解脱を追い求め、麻原についていくのが正しいと一度は判断した筈である。

2018-07-16 00:56:43
nekojita @nek0jita

であれば、そもそも解脱を追い求めるという事自体が(今回少なくとも構造的に麻原の台頭を許しカルトを生みうるとわかった訳だけれども)、犯罪行為に親和性の高いフィクションなのか、そうでなく真理の追求であるのかという疑問は、カルトの再興を防ぐという意味でも避けては通れない議題の筈である。

2018-07-16 00:58:25
nekojita @nek0jita

またこれは、単にオウム信者が『師事すべきグルを誤った』だけなのか、あるいは超常的な力を求めて絶対的なグルと一対一で修行をするという構造が、誤りなのか、あるいは何処かの時点で、例えば既成の観念を捨てるという時点で、おかしいと思わねばならなかったのかどうかという、責任の問題でもある。

2018-07-16 01:00:20
nekojita @nek0jita

『麻原は真理勝利者などではないとわかった』と何度も述べているが、仮に私達の前に、自他共に認めるような真理勝利者が別に一人現れたとして、彼が『さあ、私と同じ境地に引き上げてあげるからこれこれの事をしなさい』と述べたとしたら、我々はどう判断すれば良いのだろうか。

2018-07-16 01:03:31
nekojita @nek0jita

人の人格などわからないのが普通である。解脱を追い求める中で麻原に惹かれたのであって、その人格に対して予見可能性が乏しかったのだとするならば、やはり誰か一人に頼って最終的な地点に導いてもらうという発想自体に、構造的欠陥を認めるべきではないのか。

2018-07-16 01:05:45
nekojita @nek0jita

ただこれは複数人であればよいとか、構造化されていればよいとか、そういう問題でもないということは明らかである。そもそもの宗教への帰依ということの是非とか、それと社会性との対立とかが問題になってくる。

2018-07-16 01:12:58
nekojita @nek0jita

ともかくオウム事件で明らかになったことは、今更言うまでもないことだが、その事の善悪は置いておくとしても、人は宗教的信念によって社会規範を高度に逸脱した行動を取れるということである。これは林の考察に対して些か原始的な結論になるが、そういうものであるとして対処するより他ない。

2018-07-16 01:15:09
nekojita @nek0jita

この問題は総合的に解決されていないので、宗教的な信念によって社会的な規範を逸脱した行動を取るものが今後、いくらでも出てくるだろう。イスラームの名を借りたテロも、イスラム国も、まさにそういう問題が起こってきたものとして理解できるであろう。

2018-07-16 01:18:04
nekojita @nek0jita

そうすると更に、国家の社会規範あるいは個人の価値観すら、多かれ少なかれ宗教的な価値観を元にしているのではないかとか、結局2000年の歴史があって反社会的行動をさせていない古い宗教が安全なんだよね(なお魔女狩りや十字軍)という意見など、語り尽くせぬ話題が、色々出てくる事になる。

2018-07-16 01:22:40
nekojita @nek0jita

ということで『オウムと私』を読んだ感想を整理しました。

2018-07-16 01:24:46