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#西郷どん 感想+補足まとめ 第二十八回「勝と龍馬」勝先生と坂本龍馬。長州攻め。ヒー様に家臣と友達がいないことを心配するTL…

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Sakura Junichi 🍠 鹿児島 @kagopic

第一次長州征伐は、西郷も小松も征伐に乗り気だったんだよぬ。 #西郷どん

2018-07-29 20:50:11

今週の町田先生

町田 明広 @machi82175302

「西郷どん」28回目を拝見!本日は勝海舟・坂本龍馬との出会い、勝に感化される西郷、西郷最大の功績・第1次長州征伐が描かれました。西郷と慶喜の絡みは緊迫感ある展開でしたが、ドラマとして面白かったですね(^^) すいません、今日はちょっと長いので、疲れた方はリタイアをm(__)m #西郷どん

2018-07-29 20:52:45
町田 明広 @machi82175302

元治元年(1864)7月に勃発した禁門の変直後の長州藩に対する薩摩藩の方針は、小松帯刀を中心に西郷隆盛・吉井友実・伊地知正治の在京要路の認識に基づいており、将軍家茂の進発を前提とした強硬論であり、実際の戦闘を体験している在京藩士が即時征討を唱えるのは当然であろう。#西郷どん

2018-07-29 20:53:32
町田 明広 @machi82175302

西郷らの強硬論は当たり前であり、中央政局の雰囲気そのものであった。しかし、将軍進発は宣言されたものの、容易に実現する気配はなく、征討総督の人選も二転三転して難航したが、総督に前尾張藩主徳川慶勝、副将に越前藩主松平茂昭が指名された。#西郷どん

2018-07-29 20:53:48
町田 明広 @machi82175302

一方で、薩摩藩の内政においては、国政重視への不満や経済的窮乏から、下層藩士の勢いが増しており、その動向を抑えて上からの統制を取戻し、また、様々な藩政改革を実現するため、島津久光の実質的名代として在京する、小松の早期召還は避けられない情勢であった。#西郷どん

2018-07-29 20:54:06
町田 明広 @machi82175302

中央政局の不穏な状況から、小松帯刀はなかなか帰藩できなかったが、禁門の変で長州藩を撃退したため、暫時の帰藩が可能と判断され、小松は8月22日に大坂を発して鹿児島に向かった。これ以降のかじ取りは、西郷が中心となった。#西郷どん

2018-07-29 20:54:23
町田 明広 @machi82175302

このころ、越前藩から在坂の勝海舟が幸いにも江戸に戻る予定であるため、将軍進発の尽力を依頼しようとの提案があり、西郷はそれに応じ吉井友実らを伴い、9月11日に面談に及んだ。西郷は勝を責めつけて関東に下向させ、将軍上落を図るつもりであった。#西郷どん

2018-07-29 20:55:19
町田 明広 @machi82175302

勝は、江戸幕閣は因循の臭気が抜け切らず、特に近頃は安政の大獄に関わった俗吏が復活しており、帰府後の周旋は全く無意味であると厳しく拒絶した。そして、幕府は当てになどならず、将軍の進発は不可能であり、雄藩が奮発しなければ長州征伐など画餅であると切言して、西郷らを驚かせた。#西郷どん

2018-07-29 20:55:50
町田 明広 @machi82175302

勝の国政論は、公議会を設けて諸藩士といえども希望者は出仕させ、公論によって国是を定めるべきであるとの策であった。西郷は、この方法でなければ国家の挽回はあり得ないと同調する。#西郷どん

2018-07-29 20:56:10
町田 明広 @machi82175302

また、西郷が外国艦隊の摂海侵入に対する方策を勝に尋ねたところ、賢明の諸侯四・五人による諸侯会議によって対応し、通商条約を結び直せば皇国の疵とならず、異人も条理に服すると勝は説いたため、西郷も感服して賛意を表した。#西郷どん

2018-07-29 20:57:25
町田 明広 @machi82175302

西郷がこの時点で描く「共和政治」の中心は諸侯会議で、実現しない場合は鹿児島に割拠して富国策を講じる必要があると考えており、この方針はまさにその後の久光の考えと合致した。長州征伐後の薩摩藩の方針については、参与会議が失敗したばかりで次なるビジョンに確固たるものがなかった。#西郷どん

2018-07-29 20:57:43
町田 明広 @machi82175302

そのため、西郷は勝の「共和政治」という諸侯会議構想に大きな関心を示した。今後の有力な藩是として認識し、その実現が叶わない場合は、国許に割拠して富国強兵を図り、幕府との対峙も辞さないとする志向が西郷の中で醸成されていった。#西郷どん

2018-07-29 20:58:01
町田 明広 @machi82175302

なお、西郷は大久保宛書簡(9月16日)で、「然しながら、次第して申さば、長征の処第一の訳に御座候間、折角促し立て、油断は致さず候間、左様御納心下さるべく候」と述べていることから、通説では勝との会談によって、長征強硬路線から後退したとされてきたがそうではない。#西郷どん

2018-07-29 20:58:48
町田 明広 @machi82175302

西郷・勝会談は、勝が西郷に幕府の内情を暴露したと同時に、その後の薩摩藩の国事周旋への示唆を与えたことに重要性があり、だからこそ西郷は勝を甚だ深く信頼したのだ。ところで、西郷と龍馬の初対面はいつだったのか?恐らく、西郷・勝会談前の8月中旬頃らしいが詳細は実は不明。。#西郷どん

2018-07-29 20:59:04
町田 明広 @machi82175302

ところで、西郷は勝の第一印象を、「実に驚き入り候人物にて最初は打叩く賦にて差し越し候処、頓と頭を下げ申し候、どれ丈ヶか智略のあるやら知れぬ塩梅に見受け申し候、先ず英雄肌合の人」と、底なしの英雄に出会ったと手放しで絶賛した。#西郷どん

2018-07-29 20:59:27
町田 明広 @machi82175302

西郷は勝を表して、「現時に臨み候ては、此の勝先生とひどくほれ申し候」と述べ、心から心酔していることがうかがえる。この出会いが、江戸城無血開城に繋がっていくことを、両者はまだ知らない。#西郷どん

2018-07-29 20:59:44
町田 明広 @machi82175302

なお、安政5年(1858)3月15日、確かに島津斉彬は勝と鹿児島で対面している。横にいる久光を「博聞強記(何でも知っていて、記憶力が抜群)で志操方正(強靱な意志、端正な性格)なところには、とても及ばない」と勝に紹介している。#西郷どん

2018-07-29 21:01:01
町田 明広 @machi82175302

小松の帰藩以降、薩摩藩の舵取りは西郷に委ねられたが、その方針は早期の長州征伐と厳罰処分の実現にあり、方向性は一貫していた。開戦日が決まり次第、西郷自身が芸州藩に乗り込むつもりで、岩国や徳山などの支藩を本藩と引き離し、暴徒の処置を同じ長州人にさせる戦略を練り上げていた。#西郷どん

2018-07-29 21:03:00
町田 明広 @machi82175302

西郷にはぶれがなく強硬路線で一定していたが、小松上京を契機に薩摩藩の長州征伐の方針は変化する。実は、小松の帰藩中にその後の薩摩藩の政治的スタンスを規定する大きな方針の決定があった。その契機は黒田清綱の建言であり、幕府が忌み疑うところは薩長二藩が強盛になることと主張した。#西郷どん

2018-07-29 21:03:19
町田 明広 @machi82175302

黒田清綱は続けて、以前より薩長両雄を戦わせる施策は往々にして見られたが、今回は薩摩藩を先鋒として使役させ、藩の勢威を削ぎ落す底意である。長州藩の恨みを薩摩藩に及ぼそうとの魂胆であることは疑いなく、今回の長州征伐では先鋒を辞退した上で戦功を立てることを主張した。#西郷どん

2018-07-29 21:03:52
町田 明広 @machi82175302

黒田清綱は幕府の奸計によって藩の勢威が損なわれ、滅亡に追い込まれる危惧を示して至急の対応を求めたが、もともと、久光には甚大な戦費の調達による疲弊は回避すべきとの認識があり、それ以上に幕府の奸計によって、長州征伐の次は薩摩征伐が実行される可能性を強く意識していた。#西郷どん

2018-07-29 21:04:20
町田 明広 @machi82175302

しかも、参与会議の瓦解以降、幕府への不信感を増幅していた久光にとっては、黒田の提案は重要な示唆であったことは想像に難くない。久光は小松の帰藩によって藩内の不満分子を抑えて人事・軍事改革を実行し、また、有力藩士の提案に乗る形で抗幕的な政治姿勢に転換した。#西郷どん

2018-07-29 21:04:39
町田 明広 @machi82175302

久光は藩地に割拠して富国強兵を図り、諸藩連合を模索するという藩是に大きく修正し、禁闕守衛を最優先としてきた薩摩藩が、長州征伐を機に中央政局から撤退し、薩摩藩自体の富国強兵を企図して割拠する強い志向を打ち出し、しかも、小松・西郷ら要路の帰藩という思いきった方針示された。#西郷どん

2018-07-29 21:05:20
町田 明広 @machi82175302

さしあたって、小松が上京して長州征伐における攻め口変更・先鋒辞退の周旋から始めることになった。小松は10月2日、約1ヶ月振りに着京したが、その主目的は長州征伐の先鋒辞退であり、長州藩の寛典処分も辞さない藩の新しい方針に在京要路、つまり西郷を説得することも伴った。#西郷どん

2018-07-29 21:05:55
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