#西郷どん 感想+補足まとめ 第二十八回「勝と龍馬」勝先生と坂本龍馬。長州攻め。ヒー様に家臣と友達がいないことを心配するTL…

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町田 明広 @machi82175302

しかし、慶勝がようやく総督を受諾し、いよいよ長州征伐が実行に移される直前で、しかも、外国艦隊がいつ摂海に侵入し、通商条約の勅許を求めないとも限らない慌ただしい状況にあった。そして何より、西郷を始め在京藩士が長州藩処分の強硬路線を堅持していた。#西郷どん

2018-07-29 21:07:09
町田 明広 @machi82175302

西郷は大久保宛書簡(10月8日)で困難な攻め口を担当させて失敗させる幕府の魂胆であると断言したが、僅かに5・6万国での国替えを主張、国を滅ぼすと、その後、薩摩藩にどのような災難があるかも分からないとして、藩の存続は認めながらも厳刑を求めて、国許の意向に十分に服していなかった。#西郷どん

2018-07-29 21:07:31
町田 明広 @machi82175302

西郷は勝との会談で共和政治(諸侯会議)を志向し、実現困難な場合は幕府と対峙して藩地に割拠することも辞さないとする点では久光と同志向であった。しかし、順序としては長州征伐が先であり、小松不在時に中央政局を切り回していた西郷はそう簡単に厳罰論を引っ込める訳にはいかなかった。#西郷どん

2018-07-29 21:08:07
町田 明広 @machi82175302

国許の雰囲気が分からない西郷らに対して、慌ただしい摂海状況もあいまって、小松も当初はその意向を黙認せざるを得なかった様子が窺える。久光の意向に反して、強硬論に固執していた西郷であったが、10月6日に鹿児島から西郷の召還命令がもたらされたため、さすがの西郷も変心するに至った。#西郷どん

2018-07-29 21:08:23
町田 明広 @machi82175302

召還事由は、西郷の久光に対する越権行為にあり、具体的には、近衛忠房から諸藩と相談し、将軍の早期上洛に向けた周旋を行うよう命じられ、江戸工作を計画して藩政府に事後承認を求めていた。西郷が職掌を逸脱して独断で決定したことに対し、久光は独断専行の行為として見逃せなかった。#西郷どん

2018-07-29 21:08:48
町田 明広 @machi82175302

久光からの召還命令に対し、西郷は甚だ恐縮の体を示した。西郷は中央政局に復帰後、久光の遺策である禁闕守衛を尊奉し、小松に協力して禁門の変を乗り切り、小松の帰藩後は西郷が中心となって、長州征伐に向けた将軍進発や総督問題を周旋していた。#西郷どん

2018-07-29 21:10:35
町田 明広 @machi82175302

この間、8月28日には藩主父子から禁門の変での戦功から感状・陣羽織・拵刀を賜り、10月8日には側役・役料米90石・代々小番に昇進するなど順風満帆であっただけに、中央政局からの離脱、その先の処分が彷彿され、西郷が受けたショックは相当なものであったことが窺える。#西郷どん

2018-07-29 21:10:50
町田 明広 @machi82175302

久光の看視の態度が明確となり、その後の西郷の中央政局における行動を大きく制約することになったが、今回は小松の取り成しで久光の西郷への嫌疑は差し当たって鎮静化、西郷召還は沙汰止みになった。とは言え、西郷は久光の方針である抗幕・富国強兵・長州藩寛典に従うことになった。#西郷どん

2018-07-29 21:11:16
町田 明広 @machi82175302

中村半次郎について、西郷書簡(大久保一蔵宛、6月14日)では、尊王志士激徒に潜り込み、長州藩邸にも自由に出入り可能で唯一の情報源と伝える。外国船襲来もあるので長州藩内に潜入することを半次郎が求めており、小松と相談して許可を得たので、脱藩の体で送り込むことへの了解を求めた。#西郷どん

2018-07-29 21:14:10
町田 明広 @machi82175302

なお、西郷書簡(大久保一蔵宛、6月21日)によると、桐野を始めとする密偵は国境警備が厳しかったため、長州藩内潜入が叶わなかったことを伝えている。確かに、そう簡単に突破できるものではない。#西郷どん

2018-07-29 21:14:26
町田 明広 @machi82175302

長州征伐の動向であるが、10月22日、征長総督・徳川慶勝は大坂城に副将松平茂昭を始め、大目付・軍目付・使番および従軍諸藩の重臣等を召集し軍議を開いた。そして、11月11日までに長州藩を包囲し18日を期して進撃することを命じたが、薩摩藩からは小松の指示で西郷と吉井が出席をしている。#西郷どん

2018-07-29 21:15:42
町田 明広 @machi82175302

24日に至り、慶勝は西郷を個別に引見して、長州征伐に関する意見を諮問した。西郷は長州藩の支藩、岩国藩主・吉川経幹が宗藩の恭順実現に向けて尽力する動向を詳しく述べ、策略については長州藩内が抗幕・武備派と従幕・恭順派(いわゆる正義党と俗論党)に分かれている現状は天の賜である。#西郷どん

2018-07-29 21:16:14
町田 明広 @machi82175302

西郷は、内部分裂を利用して長州人をもって長州人を制するとの持論を展開し、幕府の強硬姿勢を非難、武力でなく策略で帰順させることを強く主張し、早くも寛典処分の意向を示した。それに対して、慶勝は西郷に全面的な協力を懇請し、薩摩藩・西郷に対して最大限の信頼と依頼の態度を示した。#西郷どん

2018-07-29 21:16:59
町田 明広 @machi82175302

慶勝の長州征伐の方針は、干戈を用いず策略で恭順を引き出すことにあり、寛典処分を内々の基本とした。これは万一の幕府の敗戦を恐れたためであり、幕府権威の失墜を食い止めようとする志向が働いた。しかも、薩摩藩は有数の雄藩であり、禁門の変においても、その軍事力を如何なく発揮した。#西郷どん

2018-07-29 21:17:17
町田 明広 @machi82175302

長州征伐にも積極的でありながらも寛典処分に傾く薩摩藩を、慶勝が特に依頼することはごく当然であろう。これ以降、尾張藩は薩摩藩を最大のパートナーとして長州征伐を遂行することになり、藩を代表する西郷を事実上の総督府の参謀として遇することになった。#西郷どん

2018-07-29 21:17:31
町田 明広 @machi82175302

11月2日、広島に到着した西郷は、高崎五六と岩国藩主吉川経幹の事前の下交渉を踏まえ、戦闘なき解兵を目論んで直ちに岩国に向かった。西郷は経幹に本家の悔悟謝罪が未だに実行されず甚だ不都合であり、三家老の首級差し出しなどによる恭順姿勢を大至急、見せるように厳しく要請した。#西郷どん

2018-07-29 21:17:54
町田 明広 @machi82175302

西郷は禁門の変の捕虜10人を同行しており、薩摩藩のこの行為は今回の周旋同様、その後の薩長融和の出発点と位置づけられる重要な局面となった。長州藩においても、西郷の好意に対して迅速な対応を始めており、12月5日には返礼使節の派遣を命じた。#西郷どん

2018-07-29 21:19:23
町田 明広 @machi82175302

征討軍は既に長州藩の四境に迫っており、総攻撃を回避するために三家老の処刑は一刻の猶予も許されない状況となった。しかし、藩政府は従幕・恭順派に占められたものの、諸隊を中心とする抗幕・武備派の動向から逡巡を続けていた。#西郷どん

2018-07-29 21:22:00
町田 明広 @machi82175302

ようやく11月11日に至り、経幹の勧告に従い三家老に自刃を命じ、翌12日に四参謀を斬首に処したため、18日の総攻撃は延期された。西郷の周旋によって、当面の武力征討を回避できたが、次なる課題は征長軍の解兵をいかに導くかにあった。#西郷どん

2018-07-29 21:22:13
町田 明広 @machi82175302

経幹は解兵と寛典処分を総督府に求め、11月16日に総督名代・成瀬正肥との会見を広島の国泰寺において許された。西郷は前日に同席を命じられ、会見場に赴いた。正式な会見の前に、西郷は内々に経幹と想定問答を行っており、事前に詰問内容を経幹に漏洩し回答の確認をしている。#西郷どん

2018-07-29 21:22:29
町田 明広 @machi82175302

成瀬の他に大目付永井尚志らが居並び、次の間に芸州藩家老辻将曹・西郷が詰めていた会見において、永井は様々な詰問を繰り返し、それに対して経幹は気丈に対応していたが、永井は最後に城の召し上げと藩主父子の面縛を経幹に求めた。西郷は、その要求の撤回を経幹から依頼された。#西郷どん

2018-07-29 21:22:41
町田 明広 @machi82175302

西郷は慶勝と永井に面談に及び、面縛・開城を求めるのであれば、周旋談判など無意味であり 、直ちに戦端を開いて城下に押し寄せるべきであると主張し、これは万策尽きた後に取るべき戦法であり、長州藩の四境を包囲しているだけで、一戦もせずに要求すべきことではないと非難した。#西郷どん

2018-07-29 21:22:58
町田 明広 @machi82175302

西郷は続けて、戦況が長引くことにより征討軍が耐え難い疲弊に陥り、必ず内紛も派生することになる。そうなれば、幕府の命に従う藩はなく、幕威は低下して内乱になると意見した。それに対し、大目付永井尚志は何かと弁解して、西郷にその後の対応を委託し、事実上要求を撤回した。#西郷どん

2018-07-29 21:23:23
町田 明広 @machi82175302

このように西郷は、芸州藩主に反対を表明させた芸州藩家老辻将曹とともに、極めて迅速な対応によって経幹への誠意を示しており、他方、永井ら幕閣は寛典論でまとまる総督府・薩摩藩・芸州藩に包囲され、幕府の権威を全く発揮できない窮地に追い込まれていたのだ。#西郷どん

2018-07-29 21:24:24
町田 明広 @machi82175302

慶勝は総督府本営にて三家老の首実検を行い、総攻撃の延期を従軍諸藩に対して沙汰し、その旨を朝幕に報告した。そして、慶勝は経幹を引見して長州藩征討令に対する請書の提出・山口新城の破却・五卿の引渡の3箇条を解兵条件として申し渡した。#西郷どん

2018-07-29 21:26:01
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