4/26おかざき乾じろ氏 time brackets

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おかざき乾じろ @kenjirookazaki

災害とは、日常という時間、と空間を囲み、守っていた括弧が外される(壊れる)こと。1000年に一度が想定外とは、それを想定する主体(国家?)の存続(寿命)がせいぜい1000年以内だと規定していたことを示す、寿命の外を想定しても仕方ない。

2011-04-26 02:09:26
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

いかなる判断も(有効とする)限定された時間と空間の枠をもつ。すなわち括弧づけられている。ジョン・ケージはこの括弧を time bracket とよんだ。

2011-04-26 02:16:15
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

想定外とは、ケージの言葉でいえば偶然(チャンス)。判断が想定する時間枠の境界の外、括弧の外。ケージはこの予期せざる出来事を複数の異なる時間スケール=時間枠=(括弧bracket)の衝突(把捉をこえた同期)と考えた。

2011-04-26 02:20:19
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

ところで生=寿命とは、それじたいがひとつのtime bracketである。不死とは、この括弧があることを忘れること(忘れようとして、これを無限に延長しようとすることに他ならないかも)。

2011-04-26 02:21:52
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

ケージは音楽を危機管理のように考えたのかも(チャンス・オペレーション)。

2011-04-26 02:22:48
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

主体の持続(一貫性)は判断のそれに依拠する。だから括弧がはずされ、判断が破綻したとき判断の主体は死ぬ。けれど別の括弧が起こり別の主体になっている)。括弧が外れたのに、それを認めず(次の括弧に移行せず)、まだ括弧を強化しようと堤防を強化したりするのは芸術的にはマニエリズム。

2011-04-26 02:31:29
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

ある括弧と 別の括弧への以降には、ジャンプが必要。(古いテクノロジーというより、それを支えたイデオロギーへの)未練を捨てるということだ。演奏者は、楽器あるいは奏法をまったく変える必要あり。重要な補足として、括弧は並列してつづくのではなく、ときに入れ子状に重ね合わせることができる。

2011-04-26 02:36:04
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

例えば100年後に宇宙人がくることが確定的(だとする判断枠があり)、そのための通信装置をあと3年で完成できる(しないと通信不可になる)と必死で制作している人がいるとする。さて15年後に不死の病にかかる可能性から強制避難を命じられたらどうするだろう。通信装置は諦めなければならない?

2011-04-26 02:42:05
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

あと10年で引退が決まっていて引退前に(体力も気力もある内に)50年かけ、ようやく築きあげてきたアトリエでライフワークを完成させようと制作していた人の場合は?仮に20年先に避難しから戻ってもそれを作れる人生のチャンスを失われるだろう。

2011-04-26 02:48:15
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

こうした様々なtime brackets があり、それぞれにおける死(そして生)の意味もスケールも違う。その選択が自由ということ。ケージにとって音楽はこの多数の括弧の重なりを、デザインすることだったと、とりあえずはいえるだろう。いうまでもなくケージは発明一家の出身。

2011-04-26 02:51:33
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

100年後の宇宙人との挨拶(あるいは衝突)に備える人は悠長な人だろうか?だが彼にとって、3年後のタイニングを外すと、たとえ(彼に一万年の寿命が保証されても)一万年後になっても2度とそのチャンスはおとづれない、その理論枠(時間空間枠において客観的)に緊急時なのである。

2011-04-26 02:56:13
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

音楽を聞く、絵画を見るとは、音が届く時間の遅れ、光の届く時間の遅れを知覚すること。時間の遅れ、ずれがなければ音は知覚できず、色は知覚できない。知覚はいわば、いつでも認識の括弧の境界でおこる、ズレに向いている。そしてそのズレ(いいかえれば主体が破綻する外)があるゆえに可能だった。

2011-04-26 03:03:55
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

放射性物質の半減期は確かに想定を超えている。しかしケージのみならず、芸術の方法は常に、ひとつのtime brackets (パラディグムと乱暴にいいかえても)ではなく、多数のbracketsの間(ときに無限大から無限小の)距たりを補足する方法だった。これは一面で悲劇的である。

2011-04-26 03:10:06
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

しかし悲劇とは、認識と事実のずれ。たとえば 死の受け取り方と死そのもののズレのことだった。だからわたしたちは死そのものについて語れない。死までの過程を(追想して)その(語りがたき)悲劇を語ることができるだけだ。

2011-04-26 03:16:30
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

同じ意味で、本当は、生まれる、という事実を語ることもできない(生まれる、と生まれ変わり)の区別も知ることもできず、語ることもできない。

2011-04-26 03:18:05
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

自分が(あるとき、いつのまにか)生まれた、という事実。を語ることができない。

2011-04-26 03:19:09
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

ケージはtime brackets ごとに主体を入れ替えた、別の人格、別の主体。time bracketsごとに死に、つぎのtime bracketsで突如生まれ変わる。あれれ、ではなく、おおそうだった、これがわたし。

2011-04-26 03:27:13
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

ほんとはまったくちがう人になっているんだけどね。(生まれ変わった途端、ずっと前から存在していたような気になってしまうわけ)。おおそうだった。わたしはわたしだった。

2011-04-26 03:29:09
おかざき乾じろ @kenjirookazaki

そろそろ国家も、別の time brackets  へと。

2011-04-26 03:30:04