【尋ね人】明治・大正時代に奈良の大和郡山で教師をしていた「島村清吉」

大和郡山市在住の友人・會田陽介さんが、明治・大正時代に奈良の大和郡山で教師をしていた「島村清吉」について調べています。「チベット旅行記」の河口慧海等に多大な影響を与えた人物で、その足跡を後世に残したいとのこと。ご遺族や情報をお持ちの方、お知らせください。
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寮美千子 @ryomichico
【尋ね人】大和郡山市在住の友人・會田陽介さんが、明治・大正時代に奈良の大和郡山で教師をしていた「島村清吉」について調べています。「チベット旅行記」の河口慧海等に多大な影響を与えた人物で、その足跡を後世に残したいとのこと。ご遺族や情報をお持ちの方、お知らせください。詳しくは以下 ⇒
寮美千子 @ryomichico
「チベット旅行記」の河口慧海を始め、後に有吉佐和子が「複合汚染」で描いた五條の医師・梁瀬義亮にも多大な影響を与えた島村清吉ですが、現在は残念ながら忘れ去られています。かれの足跡を後世に残し、そのよすがである碑(無縁墓)を守るためにご遺族や関係者の方を探しています。ご協力願います。
寮美千子 @ryomichico
明治・大正時代に奈良の大和郡山で教師をしていた島村清吉のご遺族を探しています。郡山中学の数学教師であった彼は仏教にも造詣が深く各地で法話も行い、「チベット旅行記」を記した河口慧海とも昵懇でした。大正15年に死去し、後に遺弟達が建てた詣り墓が現在無縁となり、撤去の可能性があります。
寮美千子 @ryomichico
島村清吉(号として外賢、自責居士、三端舎主、等)は大阪法円坂に生れ堺市戎町に育ち後に郡山堺町に転居、死去時には妻ひろ子、長男賢一、長女きよ子、次女すが子がありました。昭和40年代の住宅地図の当該地に「島村鎮目」の名がありますが、現在は別の家になっています。
寮美千子 @ryomichico
島村家の菩提寺であった堺市の寺一体は空襲で焼けて当時の過去帳もなく、ただ清吉の父親の喜八(明治13年死去)の無縁墓が堺市郊外の共同墓地に眠っています。この島村清吉に関すること、またご遺族に関することで情報を持ちの方、どんなことでも結構ですのでお知らせ頂けたらありがたいです。

コメント

朝起きるの慣れてきた @yuukoaozora 3月25日
こういう時こそナイトスクープじゃないのか?
やまだ @sakusakutoux 3月25日
都市部だとほんの70年前の事でさえ辿るのが難しいんだな なんか人間の生前の記憶というか証というか儚いなって思ったわ
白墨 @kayakari_ 3月27日
sakusakutoux たしかに…。 田舎なら、昭和40年代に一家で住んでいた場所まで把握できてるなら、ご遺族の方へすぐ繋がると思う
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