私が艦娘課程に入校した頃、帝国海軍は戦争に、戦わずして負けつつあった。と言うのも帝国にとって、深海戦争はようやく他人事から切迫した問題になりつつある時期で、深海棲艦との本格的な衝突はこれからだった。
2019-08-08 23:28:53多くの国民は帝国の戦争はこれから始まると、まだ勝ちも負けもない状態だと思っていた。しかしこの認識が間違いであったことを、後に知る。
2019-08-08 23:28:53人類と深海棲艦という枠組みでみれば、このとき既に絶望的な劣勢に陥っていた。深海棲艦の猛攻によって、合衆国海軍と言う存在は、帝国が知覚しうる範囲から消え去っていたのだ。
2019-08-08 23:29:39世界の海の半分を支配した絶対強者は既に倒れた。海は完全に遮断されていて、交通どころか連絡も不可能な状態にあった。これでようやく、帝国は参戦する気になった。
2019-08-08 23:29:39海上交易路の遮断は、帝国にとっての悪夢の始まりだった。帝国の主要輸出産業は輸出先を失って壊滅的な打撃を受け、経済屋は合衆国に置いていた資産が市場ごと消えて、恐るべき損失を出した。多くの国民が路頭に迷い、莫大な数の餓死者を出した。
2019-08-08 23:30:15それで帝国内の主戦論者が支持されるようになった。不況の原因を取り除けと言うわけだ。その手段はただひとつ、深海棲艦の撃滅しかない。
2019-08-08 23:30:15帝国海軍にとって、それはあまりにも遅すぎた決断だった。深海棲艦は、帝国が単独で戦うにはあまりに強大だった。もちろん対抗するために戦闘艦艇の増強は急ピッチで進められていたし、艦娘もその一貫だった。だがそれらは完工まで程遠い状態で、艦娘も1期生の実戦投入にはまだかかる見通しだった。
2019-08-08 23:30:55健在なりし頃の合衆国海軍と協力してなら、まだ勝負にもなっただろう。帝国海軍は戦わなかったからこそ、負けつつあったのだ。
2019-08-08 23:30:55戦況は始まる前から圧倒的に不利な状態で、帝国海軍指導部は、逆転するために乾坤一擲の決戦を勝利するしかないと考えていた。後に"大海戦"と呼ばれる決戦の結末は、多くの人の知る通りだ。
2019-08-08 23:31:12そんな時期に私は、うきうき気分で艦娘3期生として入校していた。思っていたものとは違うが海に出られるし、戦争に貢献できる。
2019-08-08 23:31:26当時私は二一歳。〈室長〉の話を聞きながら、自分の決断が正しかったのか逡巡した。「黒鉄の城」と歌われるように、軍艦と言うのはつまるところ、そびえ立つような鋼鉄の塊だ。駆逐艦ですら例外ではない。
2019-08-08 23:32:22だというのに目の前では、少女がひとり立って「軽巡でござい」と言っている。確かに少女が大砲を軽々と、危なげなく振り回す様は圧巻だった。だがこれが軍艦と撃ち合えるのか? ましてや戦艦をも沈めた深海棲艦と……?
2019-08-08 23:32:22〈室長〉の歓迎スピーチは初回講義も兼ねていた。〈室長〉は手慣れた調子で話している。これで都合三度目の筈だがこなれた感じだ。熱意はないが自信に溢れていて、話す内容に迷いがない。机上の理論と実体験とを適度に織り混ぜて、艦娘の概要を噛み砕いて説明していた。
2019-08-08 23:32:42〈室長〉は世界大戦で遣欧艦隊に参加した士官のうちのひとりだった。艦娘導入に際しては1期生の試験に参加し、その威力を実際に見て理解している。講堂では腕まくりした戦闘服というラフな格好だったが、将校らしく堂々とした立ち姿だ。
2019-08-08 23:32:59「これは今まで誰も見たこともないようなシステムだ」 それは間違いない。 ついでに今まで見たこともないような軍艦だった。艦娘が登場する以前は、軍艦と言えば一番ちいさな駆逐艦ですら、100mを超える船体に何百人も詰め込んだ巨大な兵器だった。
2019-08-08 23:34:10艦娘ははるかに小さい。 マストを入れても2mかそこらの全高に、たったひとりのオペレーター。それでいて軍艦と同じくらいの性能がある。
2019-08-08 23:34:34「もっと近づいて見るように」 〈室長〉の言葉を受けて、私たち学生は立ち上がって〈大井〉に近寄った。近くから見ると、艤装や制服の質感がよくわかる。主たる構造材は鋼鉄であろう。表面には錆止めの塗料が分厚く塗られており、鈍い輝きを返す。
2019-08-08 23:35:54海軍のそれとは違うデザインのセーラー服は、やや厚ぼったい生地で出来ている。これも艤装の一部で、艦娘ごとに形状が異なる。概念的に装甲や構造の役割を担い、加護を介することでオペレーターへのダメージの大半を肩代わりする。
2019-08-08 23:36:27ショルダーハーネスで背負った艤装構造物は、艦本缶と艦本タービンを納めた機関部だ。脚部艤装の推進装置にエネルギーを供給するだけでなく、艤装を動かすあらゆる呪術的はたらきの原動力となる。
2019-08-08 23:36:27砲弾を弾く力も、装甲を穿つ力も、遠見の力や弾除けの加護なんていかにもなものも、飲み水を造ったり気温を調整するのも、すべては機関部からの力によってなされる。
2019-08-08 23:36:28〈室長〉は〈大井〉の仕様の説明を終え、歴史の話を始めた。ことの始まりは純粋な研究…呪術の物理的作用に関する論文から始まった。
2019-08-08 23:37:19この時点でかなりいかがわしいが、慎重な研究の末、実際に効果があることが認められた。しかしこれは研究室で高精度な測定器を用いてようやく観測できる程度のもので、この段階では活用する手段はなかった。
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