「フッサールからシュッツ、あるいはハイデッガー、ガダマーそしてヴィトゲンシュタインへという社会学的、言語哲学的方向、そしてフッサールからメルロ=ポンティへという(知覚)発生論的方向、という現象学の発展の二方向は…(つづく)」
2011-05-13 17:25:49「必ずしも排他的関係にあるのではないことがみてとれよう。両者の方向は『行為』という点で交差しているのである。行為を他者との共同行為として知覚構成を考えていくなら、両方向の統合が可能であろう」『現象学的社会学の展開』(八章:鎌田勇)
2011-05-13 17:30:09「イタタマレナイ」とか「ドキドキ」とか「キガオモイ」とか「ハラハラ」とか「コソバユイ」とか「モヤモヤ」は感情なのか問題。
2011-05-13 23:54:39よい問いであろう。 RT @catadatowl: 「イタタマレナイ」とか「ドキドキ」とか「キガオモイ」とか「ハラハラ」とか「コソバユイ」とか「モヤモヤ」は感情なのか問題。
2011-05-14 00:04:52エスノメソドロジー的にはどう考えるのでしょうか。 RT @contractio: よい問いであろう。 RT @catadatowl: 「イタタマレナイ」とか「ドキドキ」とか「キガオモイ」とか「ハラハラ」とか「コソバユイ」とか「モヤモヤ」は感情なのか問題。
2011-05-14 00:58:57ちなみにこれ、何見てて思いついた問いだったのでしょう。 RT @catadatowl: 「イタタマレナイ」とか「ドキドキ」とか「キガオモイ」とか「ハラハラ」とか「コソバユイ」とか「モヤモヤ」は感情なのか問題。”
2011-05-16 17:58:03@contractio 何か特定のテキストではないですが、大森荘蔵や廣松渉の議論や、身体感覚を使った感情表現の議論を読んでてずっと考えてはいた問題です。EMだと例えば「イタタマレナイ」感じを人に帰属させれば感情、場に帰属させれば雰囲気とかになるんでしょうか。
2011-05-16 18:47:44@catadatowl 了解。よくよく考えて見ないと分からないですが、さしあたり廣松=ハイデガーの議論が示唆するのは、[1] 経験的記述に取り組む前に「どれが感情なのか」と考える必要はないこと、むしろ、
2011-05-16 18:57:15@catadatowl むしろ [2] 我々は、情感性を帯びたものとコンタクトしている というのがふつうなのであって、そこから出発すればよいこと、ではないでしょうか。
2011-05-16 18:58:05@catadatowl そこから先で何がでてくるのか──たとえば「帰属」がでてくるのか──ということは、現象を見ながら考えればよいことなのではないかと思います。
2011-05-16 18:59:11@contractio ありがとうございます!「我々は、情感性を帯びたものとコンタクトしている」というのは、必ずしも(感情)社会学では自明ではないように思うので、そのあたりで現象学的な感情論を導入したい気がします。
2011-05-16 19:20:03昨日書きかけていた事柄について。その一、いたたまれなさ。昨日の飲み会で「いたたまれなさ」の定義が問題になっていたので、考えたこと。
2011-05-17 23:58:03@at_akada まさかこのついーと一つが数時間引っ張る宴会ネタになっているとは @catadatowlくん も思わなかったであろう。 https://twitter.com/#!/catadatowl/status/70062867734466560
2011-05-18 00:02:55というか、もとはこれか。 https://twitter.com/#!/catadatowl/status/69052946259775488
2011-05-18 00:08:09@at_akada そういえば「emotion / feeling」の違いって話が出てたけど、概略を簡単に解説できますか?(簡単だったら教えてください。簡単じゃなかったらいいです)
2011-05-18 00:04:06@contractio 命題的態度であるのがemotionでfeelingやmoodには命題を抱いている必要ないって一般的に言われてますが、最近この発想はグラつきます。
2011-05-18 00:06:24