●を飼っている

さんかく @File_Snake

過去を飼っている。大抵昼間は眠っており、夜中になって目を醒ます。そして夜な夜な姿を変える。あの日、あの海、あの人あの子、過去の姿は日々変わるけれど、過去は決して変わらない。成長も衰えもせず、過去は過去としてただそこにいる。それはしばしば私をひどく悲しませる。過去を飼っている。

さんかく @File_Snake

夜を飼っている。一度も姿を見たことはない。夜のはべらせる虫や獣の声、生臭かったり湿っていたり冷たかったりする息と、びろうどのような闇の質感から、私はかれの訪れを知る。夜はひっそりと部屋に入ってきて、朝が来るまで出て行かない。私の部屋は夜のお気に入りのようだ。夜を飼っている。

さんかく @File_Snake

**を飼っている。**は世界が始まって以来、私以外誰の目にも触れたことのないものだ。名前はいらない。誰かに見せるつもりもない。誰かの目に触れた途端、**は何かつまらない名を付けられて、博物館に納められた標本に成り果てるだろう。**は**のままでなくてはならない。**を飼っている。

さんかく @File_Snake

海を飼っている。6畳半の部屋に切り取られた60×30×45cmの海を。泡を立てる潮水、縄張りを作って争うスズメダイ、そんなことは知らぬげに岩陰を出入りするギンポ、夜這い出して徘徊するヒトデ。元の在り処から遠く切り離されても、海は海として振る舞う。海を飼っている。

さんかく @File_Snake

神を飼っている。私の神は身長5cmぐらいの老人の姿だ。ケージは台所の神棚で、餌は毎日卵1つと酒1杯を与える。餌の準備をしている時、神はいつもじっと見つめてきて、餌を与えると1つ頷きケージの奥に引っ込んでしまう。向こうは向こうで私を飼っているつもりなのかもしれない。神を飼っている。

さんかく @File_Snake

罪を飼っている。こっそり飼い始めた時は軽くちっぽけだったのに、今ではすっかり成長して、抱えきれないほど重く、隠しきれないほど大きくなってしまった。じきに私には飼い切れなくなる。軽い気持ちで飼うべきでないものだったに違いないが、しかし今更捨てようもない。罪を飼っている。

さんかく @File_Snake

夢を飼っている。うんと幼い頃から夢は私の側にいた。私が泣く時夢は私を支え、私が輝く時夢は私の前を走った。私と夢はいつも一緒で、そして一緒に老いてしまった。衰えた夢を見るのはつらい。お前、もっと若い子の所に行った方がいいんじゃないか、そう言っても夢は悲しい顔で拒む。夢を飼っている。

さんかく @File_Snake

文字を飼っている。増えるに任せているだけで、特に世話もしていないから飼っているとは呼ばないか。増える様子を眺めていると、時々形が変わるのに気づいた。けけけ叶斗。うまく選別してやれば、無限の数の猿より早くハムレットを完成させられるだろうか。いい暇潰しが見つかった。文字を飼っている。

さんかく @File_Snake

橋を飼っている。小さな朱塗りの太鼓橋、盆栽飼育だからそう大きくはならないのだが、やはり橋の習性として何かに渡られないと落ち着かないらしい。思案の末、鉢にワラジムシを這わせてみたところ、渡られる欲求は満足したようだが、今度は裏に張り付かれるのが落ち着かないらしい。橋を飼っている。

さんかく @File_Snake

卵を飼っている。孵卵器の中毎日転がし、鳥の気持ちで世話をする。苦労の甲斐あり今朝早く、殻を突く音が聞こえ始めた。しかし孵化してしまったならば、卵は卵でなくなってしまう。私は何が孵るか知れない、可能性を飼っていたのでないか。私は卵と同様に、孵った雛を愛せるだろうか。卵を飼っている。

さんかく @File_Snake

影を飼っている。影はとても臆病なので、視界の隅を横切ったり、椅子の下へ隠れてみたり、足に触れたりするけれど、間近に姿を見せることはない。けれども影を残したものの、湿った鼻やご機嫌な声や、温かな毛並みについて考えるとき、影は静かにすり寄ってきて、私の膝に頭を乗せる。影を飼っている。

さんかく @File_Snake

自我を飼っている。こいつはまったく醜いやつで、卑屈、尊大、我儘、いびつ、見ているだけで胸が悪くなる。手元に置いておきたくないが、こんなに醜くみじめな奴を、放り出したら誰が拾うのか。私は全くこれが嫌いだが、野垂れ死なれても気分が悪い。仕方なく自我を肥え太らせる。自我を飼っている。

さんかく @File_Snake

雲を飼っている。雲など飼ってどうするのかと、飼う前までは思っていたが、夏は日よけに、風呂でシャワーに、軽い昼寝の枕にもなる、なかなかどうして重宝なものだ。しかし出かける私を慕い、追って来るのは困ったもので、私は雲を飼い始めてから、晴天の空を見た覚えがない。雲を飼っている。

さんかく @File_Snake

宝を飼っている。この宝物を手にするために、まずは相当な大枚をはたいた。それから宝を養うために、毎日様々に餌をやり、きらきらしく飾り立ててやる。しかし宝は黙りこくって、箱の中から出てきはしない。正体がただのガラス玉ではという疑念も決して晴れることはない。宝を飼っている。