- JunNakagawaWork
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「非常時の政策というものはあるが、非常時の思想というものは実はないのである。強い思想は、いつも尋常時に尋常に考え上げられた思想なのであって、それが非常時に当っても一番有効に働くのだ。いやそれを働かせねばならぬのだ」(小林秀雄、「支那より還りて」)。
2019-11-03 19:21:05「デカルトは、常識を持っている事は、心が健康状態にあるのと同じ事と考えていた。そして、健康な者は、健康について考えない、というやっかいな事情に、はっきり気付いていた」(小林秀雄、「常識について」)。
2019-11-03 19:21:40「デカルトは、常識について反省して、常識の定義を見付けたわけでもなければ、この言葉を、哲学の中心部に導入して、常識に関する学説を作り上げたのでもない。常識とは何かと問う事は、彼には常識をどういう風に働かすのが正しく又有効であるかと問う事であった」(小林秀雄、「常識について」)。
2019-11-03 19:21:54「デカルト は、先ず、常識という人間だけに属する基本的な精神の能力をいったん信じた以上、私達に与えられる諸事実に対して、この能力を、生活の為にどう働かせるのが正しいかだけがただ一つの重要な問題である、と はっきり考えた」(小林秀雄、「常識について」)。
2019-11-03 19:22:09「常識」は「一般的知識」(大多数の人々が持ち、また、持っているべき知識)のように云われていますが、私は「常識」を、小林秀雄氏が考えているのと同じように、 デカルト氏が使っている語「methode」(「方法叙説」)のことだと思っています。
2019-11-03 19:22:22「大多数の人々が持つ知識」を彼らの持つ知識の共通項(論理積)として考えるか、それとも個々人の性質のなかで考えるか、、、当然、デカルト氏は個々人の性質のなかで考えています。
2019-11-03 19:22:39多数の知識の論理積を生成して一般化を考えるのは 皆目 無理でしょう。寧ろ、個々人の性質(自分の精神、分別)に依るほうが一般化できる──その結実が「我思う、故に我在り」でしょうね。
2019-11-03 19:22:54私が敬愛する哲学者ウィトゲンシュタイン氏の後期哲学(「哲学探究」)は、デカルト哲学のmethodeを「言語」の観点で探究していると私は感じています。
2019-11-03 19:23:07ウィトゲンシュタイン氏の前期哲学は「論理」(すなわち、「論理(形式言語)」と「思想」)を語り、後期哲学は「常識」(「言語(自然言語)」と「常識」)を論考していると私は考えています。
2019-11-03 19:23:21小林秀雄氏がウィトゲンシュタイン氏の著作を読んだ形跡を私は見付けていないのですが、小林秀雄氏の思考が「常識」を本源にしていることは彼の著作の随所に見ることができます。私も「常識」しか信じていない。デカルト氏・ウィトゲンシュタイン氏の「常識」の意味であれば、当然といえば当然ですが。
2019-11-03 19:23:38私は音楽が大好きです──クラシック音楽、童謡・唱歌、歌謡曲(1960年代・1970年代の歌謡曲(洋楽も)、最近のJ-popやK-pop)、映画音楽、民族音楽など様々の音楽を ほぼ まいにち 聴いています。音楽をスマホに多量に収録して、通勤・出張の移動時にも、いつも聴いています。
2019-11-10 23:49:07では、私は、どうして音楽を好んで聴いているのか? それは気持ちがいいから、としか言いようがない。モーツァルト を聴いても気持ちいいし、東方神起を聴いても気持ちいい。聴くと気持ちがいいから聴くのであって、気持ちがよくならないような音楽など聴かないでしょう。
2019-11-10 23:49:21「歌は世に連れ、世は歌に連れ」と云われますが、1960年代から2018年までの一連の(重立った)歌謡曲を聴いていて、そう思う。歌を聴いていて、当時の思い出が蘇る。
2019-11-10 23:49:39それぞれ一曲ずつに思い出が付帯している。曲を聴きながら目を閉じると、当時の思い出が広がって一つ一つ深く、いよいよ近く次から次へと現れる。そして、私の手が届くほど近くに その思い出に纏わる人物が寂しく立っている。
2019-11-10 23:49:53そこまで来たら、私は歌謡曲を聴くのを止める。そこを越えたら、私のなかに痕跡をのこした どうにもならない過去が私を覆って(気持ちがいいという状態ではなくて)悲しくなって泣いてしまうから。
2019-11-10 23:50:05クラシック音楽には一曲一曲 思い出があるという訳ではない。ただ、クラシック音楽を聴くようになった切っ掛けには強烈な思い出があります。私は30歳をすぎるまでクラシック音楽を本気で聴いたことなどなかった。クラシック音楽を聴くようになったのは、30歳代前半の米国出張が切っ掛けです。
2019-11-10 23:50:23米国のニュージャージ州(ジョージア 州のアトランタかもしれない、記憶が曖昧)に海外出張していた時、自動車の免許を持たない私は遠出もできず、近所のモール(ショッピング・センター)で時間を潰していて、色々な店があったので退屈はしなかった。
2019-11-10 23:50:34私は英語が下手だったので英語を話すのもままならず、店巡りに疲れて、モールの二階にあったタワー・レコード店の前に設置されていた椅子に座って(吹き抜けになっている)階下を漫然と見下ろしていたら、タワー・レコード店から美しい音楽が流れてきて、私は思わず泣いてしまった。
2019-11-10 23:50:50タワー・レコード店に入って、片言の英語で、店員に 今 流れている曲のカセット・テープ(当時は、CDやMP3はない)を欲しいと伝えて買いました。その曲がモーツァルトのピアノ協奏曲20番です。
2019-11-10 23:51:08帰国後、まいつき、2万円程度を費やして、クラシック音楽のカセット・テープを買いまくって色々な作曲家の音楽を聴きました(クラシック音楽のカセット・テープは、当時、2,000円ほどの値段です)。
2019-11-10 23:51:47クラシック音楽の有名な曲を買い漁って聴いた後は、同じ曲を、異なるオーケストラで聴き比べするようになりました。ステレオ のコンポにも凝るようにもなった。以来、30年数年、まいにち のようにクラシック音楽を聴いています。
2019-11-10 23:51:58歌謡曲には思い出が付帯していますが、クラシック音楽には それはない(クラシック音楽を聴く切っ掛けになったモーツァルトのピアノ協奏曲を除いて)──いずれにしても音楽は気持ちがいいので聴いています。私にとっては音楽のない生活など考えられない。
2019-11-10 23:52:12レーニン曰く──「しかしたびたび音楽を聴くことはできません。神経に影響して、愛すべき愚にもつかぬことを言いたくなったり、汚い地獄に住んでいながら、こんな美しいものを創ることのできるひとびとの頭をなでてやりたくなったりするんでね」。
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