元弘の乱~鎌倉幕府の滅亡~

鎌倉幕府滅亡関連の史跡を巡ります。
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真庭ふしぎ@風来人 @fusigi_plants

1185年に源頼朝によって開かれた鎌倉幕府は1333年に滅亡した。では一体どのようにして鎌倉幕府は滅亡したのだろうか、、 pic.twitter.com/YmF63qGJFQ

2019-12-15 17:12:24
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生品神社。祭神は「新田郡従三位生階明神」という神様である。新田荘の豪族である新田義貞が後醍醐天皇の綸旨を受けて倒幕の為に挙兵したと伝わる神社である。 pic.twitter.com/EfQnph5AxR

2019-12-15 17:42:33
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新田義貞旗挙塚趾。生品神社境内にある新田義貞が鎌倉幕府打倒の為に旗を挙げたとされる塚跡。旗揚げに用いられた塚はどうやら現存はしていないようだ。 pic.twitter.com/Pc9h4fnFCn

2019-12-15 17:48:38
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神代木。新田義貞が挙兵の際に大中黒の旗を掲げたとされる木。この新田義貞に縁のある「神代木」は後世に腐食倒壊の状態となった為に現在保存処理が施されているようだ。 pic.twitter.com/m9r5byrHpx

2019-12-15 17:55:16
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史跡生品神社境内。新田義貞挙兵伝説地であるこの神社の境内は「史跡」である。生品神社での挙兵時には新田義貞の兵力は僅かに150騎しかなかった。 pic.twitter.com/KSVtGCP13U

2019-12-15 18:05:56
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新田義貞床几塚。新田義貞が生品神社で挙兵した際に腰掛けたとされる場所。挙兵後にこの場所で休憩したのだろうか、、、 pic.twitter.com/ToOoZR1HEY

2019-12-15 18:18:04
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生品神社では挙兵が行われた5月8日に「鏑矢祭」が行われるようだ。この「鏑矢祭」は挙兵の際に新田義貞が矢を放ち吉凶を占ったことを由緒としているようだ。 pic.twitter.com/wxunnx1fd5

2019-12-15 18:22:19
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元弘3年5月8日、新田義貞は生品神社で挙兵すると悪逆非道な鎌倉幕府を滅ぼす為に鎌倉に向けて南に進軍した。鎌倉幕府の滅亡は生品神社から始まるのだ。 pic.twitter.com/KCaIckS8Bd

2019-12-15 18:29:51
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小手指ヶ原古戦場。生品神社から利根川を渡り南下する新田義貞軍と幕府軍が最初に交戦した場所である。新田軍の南下は幕府の予想より早かった。 pic.twitter.com/XCPSJ84oIa

2019-12-15 18:41:30
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白旗塚。「小手指ヶ原」の一角にある古墳という伝承を持つ塚である。新田義貞はこの塚の上に源氏の白旗を揚げたと伝わる。 pic.twitter.com/1MgLGXnVM5

2019-12-15 18:48:27
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「白旗塚」は現状古墳かどうかは分からないが古墳であるならば円墳だろうか、、「小手指ヶ原」には他にも塚が存在していたようだが、現在はこの「白旗塚」しか残されていないようだ。 pic.twitter.com/yeJc6ZJK38

2019-12-15 18:59:21
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「太平記」によると新田義貞の軍勢は「小手指ヶ原」に至った5月11日の時点で生品神社の挙兵時点で150騎だった兵力が沿道の武士を加えて20万もの大軍となっていたという。 pic.twitter.com/wJzzr6QgBR

2019-12-15 19:09:48
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「小手指ヶ原の戦い」では新田軍と幕府軍が三十余回幕府軍と打ち合ったが決着は付かなかった。勝敗が付かなかったので新田軍は入間川に、幕府軍は久米川に各々引き上げた。 pic.twitter.com/mqHEZvINXk

2019-12-15 19:14:06
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久米川古戦場。小手指ヶ原から見て東方にある古戦場である。初戦である小手指ヶ原の合戦の翌日、幕府軍と新田軍による第二戦が久米川の地で行われた。 pic.twitter.com/BQDOoJ77AH

2019-12-15 19:36:32
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勝敗が付かなかったとはいえ小手指ヶ原では優勢だった新田軍が勢いに乗って久米川に撤退した幕府軍を奇襲したことで発生した合戦が「久米川の戦い」である。幕府軍は新田軍の勢いに押されていた。 pic.twitter.com/LDCOq8OOub

2019-12-15 19:58:19
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「江戸名所図絵」によると久米川古戦場の背後にある八国山には将軍塚と呼ばれる名所が存在するようだ。この「将軍塚」は「久米川の戦い」で新田義貞が陣を置いた場所だと伝わる。 pic.twitter.com/eHX9M8bQlk

2019-12-15 20:02:24
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将軍塚。八国山にあるこの塚は新田義貞が「久米川の戦い」の際に陣を置いたとされる場所である。新田義貞はこの塚を作り白旗を立てたと言われるがこの塚は古墳であるとも考えられているようだ。 pic.twitter.com/fP3cd617oE

2019-12-15 20:12:15
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新田義貞は八国山から麓の幕府軍を攻撃した。幕府軍は新田軍を挟撃して殲滅しようとしたが失敗し、撃破される。久米川で新田軍に敗れた幕府軍はさらに南の分倍河原にまで後退する。 pic.twitter.com/NKMQ8SAzvm

2019-12-16 06:13:25
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分倍河原にまで後退した幕府軍は北条高時の弟である北条泰家が指揮する増援部隊と合流した。幕府軍は分倍河原のすぐ南にある多摩川を鎌倉への防衛線としたのだ。 pic.twitter.com/cF9T6AmItE

2019-12-16 06:20:47
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分倍河原古戦場。久米川の合戦から二日後に新田軍と幕府軍との間に行われた戦いの場である。増援を得た幕府軍は分倍河原にて南下する新田軍の撃退に成功している。 pic.twitter.com/NaZpDIAt3g

2019-12-16 06:26:34
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武蔵国分寺跡。分倍河原の北に位置する武蔵国分寺は分倍河原から敗走する新田軍によって焼失させられたという。武蔵国分寺は「分倍河原の合戦」の戦禍を受けたという。 pic.twitter.com/ITAbqgjiRI

2019-12-16 06:33:58
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抱板碑。分倍河原にある鎌倉街道沿いにある板碑。この「抱板碑」は「分倍河原の合戦」が行われる14年前の元応元年に既に建立されていたようだ。 pic.twitter.com/Dw4YO28cMM

2019-12-16 06:48:25
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首塚古墳。分倍河原の住宅街にある古墳。「首塚」の名称が示すようにこの古墳には「分倍河原の合戦」の戦死者を葬ったという伝承が残る。伝承が事実かどうかは定かではない。 pic.twitter.com/EpTJNzhRHQ

2019-12-16 07:14:08
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