陸軍大将・乃木希典の生涯をまとめてみた

日露戦争の旅順攻囲戦・二〇三高地の戦いで有名な陸軍大将・乃木希典の生涯についてまとめてみました。なお、投稿カラー写真は投稿者が全て現地を訪ねて撮影したものです。
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ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

1895年(明治28年)5月、台湾民主国が独立を宣言した事で日本軍は台湾征討(乙未戦争)に乗り出します。 希典率いる第2師団も台湾へ出征しました。なお、同年4月に日清間で結ばれた日清講和条約により台湾は日本に割譲されています。 pic.twitter.com/E0MKjqNzOe

2020-01-21 00:42:49
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1896年(明治29年)には台湾総督に任じられますが 翌1897年(明治30年)には辞職し、再び休職。那須で農業に従事します。 1898年(明治31年)10月 香川県善通寺に新設された第11師団長として一旦は復職しますが 1901年(明治34年)5月から2年9ヶ月の長期休職に入ります。 pic.twitter.com/d8BSvwo0wW

2020-01-21 00:42:50
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希典は休職中でも農業以外の時間は専ら古今の兵書を紐解き、軍事研究に勤しんでいました。また、演習が行われると知らされれば可能な限り出向き、 軍営に寝泊まりして演習を見学しながらメモをとるなど、軍人としての本分を疎かにはしなかったそうです。

2020-01-21 00:42:51
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1904年(明治37年)の日露戦争では第3軍司令官となり、児玉源太郎らと共に大将に昇進。再び旅順要塞の攻略にあたります。 日清戦争の後の旅順要塞はロシア軍が太平洋艦隊の最大の根拠地とするために 1898年(明治31年)に清国から租借権を得て占領して以来、8年の歳月をかけ、 pic.twitter.com/TLzeewtYMw

2020-01-21 00:42:51
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セメント20万樽を用いて築城した永久要塞になっていました。しかし 日清戦争時よりもロシアの防備はかなり増強されており、3度の総攻撃でも落ちませんでした。 1904年(明治37年)5月27日 希典が日本を発つ直前 ロシア軍が放った銃弾が「南山の戦い」に参加していた長男・勝典の腸部に直撃します。 pic.twitter.com/4AdFxZSdMv

2020-01-21 00:42:51
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勝典の身体には向こう側が丸見えになるほどの風穴が開き 数時間の間は従軍していた陸軍軍医による手術・治療を野戦病院で受けていましたが、 出血多量で戦死しました。享年26。勝典の戦死は数日後に妻・静子にも届きます。静子にとって勝典は第一子で病弱で常に心配して大事に育てて来たため pic.twitter.com/hoUlparoyG

2020-01-21 00:42:52
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静子は我を忘れて三日三晩号泣したそうです。日露戦争では多数の兵力・弾薬を消耗したため 批判は国民の間でも発生し、東京の乃木邸は投石を受けたり、 乃木邸に向かって大声で希典を非難する者たち 希典の辞職や切腹を勧告する手紙が2400通も届けられました。 pic.twitter.com/2ENWu5h0Dl

2020-01-21 00:42:53
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勝典の死から半年後の11月30日 次男・保典も203高地で後備第1旅団の副官任務中にロシア軍の砲弾を至近に受けて岸壁から滑落し 岩場に頭部が激突、頭が砕け戦死します。享年24。 2人は未婚で亡くなったため、子は居らず 夫妻はその後、養子を迎えなかったため 乃木家と夫妻の血筋は断絶しました。 pic.twitter.com/EQDxZAE7NK

2020-01-21 00:42:53
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その後、203高地を占拠した希典は旅順艦隊に艦砲射撃を加え、からくも旅順攻略に成功します。日本では大国ロシアに勝利したと大変な騒ぎになり、 凱旋した希典は大歓迎を受けますが 多数の将兵を戦死させた自責から歓迎会などは全て断っていたそうです。 pic.twitter.com/IkKjbRUbYv

2020-01-21 00:42:54
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また、長男と次男を相次いで亡くした事で日本国民も同情。降伏したロシア将兵に対する寛大な希典の処置は世界で称賛されます。 後にドイツ帝国・フランス・チリ・イギリス・ルーマニアなど各国から希典に勲章が授与されました。 pic.twitter.com/iiOBZQND4N

2020-01-21 00:42:55
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しかし、明治天皇への報告では涙声となり 天皇の将兵に多数の死傷者を出した罪を償うべく、自刃したいと申し出ました。 明治天皇は「今は死ぬ時ではない。どうしても死にたいと云うならば、朕が世を去った後にせよ」と述べたそうです。 pic.twitter.com/kXQemdUx6s

2020-01-21 00:42:56
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1907年(明治40年)1月31日 第3軍司令官を退任し、軍事参議官となっていた希典は学習院長兼任を命じられます。 山縣有朋は時の参謀総長・児玉源太郎の急逝を受け、希典を後継の参謀総長とする人事案を天皇に内奏します。しかし、天皇はこの人事案に裁可を与えず pic.twitter.com/U87mZ3em4A

2020-01-25 01:13:07
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皇孫(後の昭和天皇)が学習院に入学するため、その養育を希典に託すべく学習院長に指名します。当時、学習院長は文官職で陸軍武官が文官職に就く場合には 陸軍将校分限令により予備役に編入される規定がありました。しかし、明治天皇の勅命により希典は予備役には編入されませんでした。 pic.twitter.com/QwwWbs8HaH

2020-01-25 01:13:08
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また天皇は希典に対し、自身の子供を亡くした分も生徒らを自分の子供だと思って育てるようにと述べ 院長への就任を命じたともいわれます。 希典は当時の学習院の雰囲気を一新するため、全寮制を布き 6棟の寄宿舎を建て学生と寝食を共にして生活の細部に渡り指導に努めました。 pic.twitter.com/9uoRUDptiM

2020-01-25 01:13:08
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1908年(明治41年)学習院は目白(現:東京都豊島区目白)へ移転します。その際、希典の居室だった総寮部は希典没後に移築され「乃木館」として現在も保存されています。 また 希典は剣道の教育を最重要視していたそうで 時には、日頃の成果を見せよと生徒に日本刀を持たせ、

2020-01-25 01:13:08
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生きた豚を斬らせる事もあったようです。当時、学習院中等部に在籍し 後に第34・38・39代内閣総理大臣となった近衛文麿は、幼少期に大変な怖がりだで一人で出歩く事もままならなかったそうです。 これを見かねた希典はある時、自ら竹刀を持ち近衛に打ち込んで来たそうです。 pic.twitter.com/CZues29mLy

2020-01-25 01:13:09
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近衛は「乃木さんのメンは本当に痛かった」と後に回想しており、こうした希典の教育方針は「乃木式」と呼ばれていました。 1908年(明治41年)4月 迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)が学習院に入学すると、希典は勤勉と質素を旨とし その教育に努めます。

2020-01-25 01:13:09
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当時の裕仁親王は赤坂の東宮御所から車で目白の学習院まで通っていたのですが、希典は徒歩で通学するよう指導します。 裕仁親王もこれに従い、それ以降はどんな天候でも歩いて登校するようになったそうです。1912年(明治45年)7月に明治天皇が崩御してから希典が殉死するまで3ヶ月ほどの間

2020-01-25 01:13:09
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裕仁親王は希典を「院長閣下」と呼んでいました。これは明治天皇の遺言によるもので 後年、昭和天皇は自身の人格形成に最も影響があった人物として希典の名を挙げています。 1912年(大正元年)9月10日 参内した希典は皇太子となった裕仁親王に勉学上の注意と共に pic.twitter.com/EjPZSTFydl

2020-01-25 01:13:09
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自ら写本した山鹿素行の『中朝事実』を手渡しました。そして「これからは皇太子としてくれぐれも御勉学に励まれるように」と訓戒します。 希典のただならぬ様子に当時11歳だった裕仁親王は「院長閣下はどこかに行かれるのですか?」と質問したそうです。

2020-01-25 01:13:10
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1912年(大正元年)9月13日 明治天皇の大喪の礼が行われた午後8時頃、希典は妻・静子と共に自刃して亡くなります。享年64。 乃木希典・辞世の句(二首) 神あかり あかりましぬる 大君の みあとはるかに をろがみまつる 崩御され、天上に昇られた天皇の 御跡を遥かに拝ませていただきます pic.twitter.com/YmLveXvZLr

2020-01-25 01:13:10
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うつし世を 神さりましゝ 大君の みあとしたひて 我はゆくなり 現世を去られた神ならぬ御身の天皇の 御跡を慕ってわたくしも参ります

2020-01-25 01:13:11
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乃木静子・辞世の句 いでまして かへります日の なしときく けふの御幸に 逢ふぞかなしき お出ましになってもお帰りになる日はないとお聞きしました 今日の御幸に逢うのは哀しいことでございます 警視庁警察医員として検視にあたった岩田凡平は、遺体の状況などについて pic.twitter.com/KlFL656Fsi

2020-01-25 01:13:11
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詳細な報告書を残していますが「検案ノ要領」の項目で自刃した状況を以下のように推測・報告しています。 1912年(大正元年)9月13日午後7時40分頃、東京市赤坂区新坂町(現:東京都港区赤坂八丁目)の自邸居室において 将軍(希典)は明治天皇の御真影の下に正座し、日本軍刀でまず十文字に割腹。 pic.twitter.com/JJ77cYTJZ3

2020-01-25 01:13:12
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妻・静子の自害を見届けた後、軍刀の柄を膝下に立て剣先を前頸部に当てて、気道、食道、総頸動静脈、迷走神経および第三頸椎左横突起を刺したままうつ伏せになり、即時に絶命。 将軍(希典)は予め自刃を覚悟し、12日夜に『遺言条々』を、13日に他の遺書や辞世などを作成し、心静かに自刃を断行。 pic.twitter.com/dtFTACf8ag

2020-01-25 01:13:12
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