陸軍大将・乃木希典の生涯をまとめてみた

日露戦争の旅順攻囲戦・二〇三高地の戦いで有名な陸軍大将・乃木希典の生涯についてまとめてみました。なお、投稿カラー写真は投稿者が全て現地を訪ねて撮影したものです。
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ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

1912年(大正元年)9月13日 乃木希典陸軍大将が死去。享年64。第二次長州征討や西南戦争に従軍し、日露戦争では第三軍司令官として旅順攻略を指揮。 この日は明治天皇大葬が行われており、乃木は20時頃に自宅で切腹、明治天皇の後を追って妻・静子と共に殉死しました。 #乃木希典 #旅順攻囲戦 pic.twitter.com/PhnBTjKIte

2019-09-13 18:03:53
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1849年12月25日(嘉永2年11月11日)乃木希典は長州藩の支藩である長府藩の藩士・乃木希次と壽子との三男として、江戸の長府藩上屋敷(毛利甲斐守邸跡 現:東京都港区六本木)で生まれました。 希典の長兄と次兄は既に夭折していた為、希典は世嗣となります。 pic.twitter.com/kMtnrivCEY

2019-09-13 18:53:02
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幼名は無人(なきと)兄たちの様に夭折する事なく、壮健に成長して欲しいという願いが込められています。父・希次は江戸詰の藩士でした。 無人は10歳までの間、長府藩上屋敷で生活します。この屋敷はかつて赤穂浪士ら10名が切腹するまでの間預けられた場所でもあります。 pic.twitter.com/FtWT49e9Pw

2019-09-13 18:56:13
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現地をお訪ねになりたい方の為に。 「乃木大将生誕之地」と「毛利甲斐守邸跡」は距離が少し離れています。 「乃木大将生誕之地」はさくら坂公園の一角に位置し「毛利甲斐守邸跡」は毛利庭園内に在りますのでご注意を(`・ω・´)キリッ pic.twitter.com/4c5DMmvdkG

2019-09-13 19:03:11
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幼少時の無人は虚弱体質で臆病だったそうで友人に泣かされる事も多く、無人の名にかけて「泣き人」(なきと)とあだ名されたとか。 父はこうした無人を極めて厳しく養育します。例えば「寒い」と不平を口にした7歳の無人を井戸端に連れて行き、冷水を浴びせたそうです。 pic.twitter.com/jWvpjVvI1W

2019-09-20 20:01:09
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1858年(安政5年)12月 父・希次は藩主の跡目相続に関する紛争に巻き込まれます。希次は長府(現・山口県下関市)へ下向を藩から命じられた上、 閉門及び減俸の処分が下ります。無人も同行し、1859年(安政6年)1月に長府へ転居します。

2019-09-20 20:01:10
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乃木神社 (山口県下関市長府宮の内町3-8) 乃木神社は軍人として広くその名を知られる乃木希典を文武両道の神として祭る、1920年(大正9年)に創建された神社です。 境内には乃木夫妻の銅像や 1914年(大正3年)に復元された乃木将軍が育った旧宅があります。 pic.twitter.com/uQmY5dAkzO

2019-09-20 20:01:10
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「閉門」とは、刑罰の一種で屋敷の門や窓まで固く閉ざされ、一切の出入りを禁じられます。監視が厳しい上に周囲に「この者は不備を犯し、謹慎中です」と晒されるようなものだったのです。 良く耳にする「蟄居」は、出仕や外出を禁じ一室で過ごせというお達しで所謂「謹慎」のようなものです。

2019-09-20 20:01:11
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「蟄居」は軽い謹慎のようなもので、お忍びで近所への外出など比較的大目に見られたのに対し「閉門」は重い謹慎で、仕事や会合・何かの手続きや実務を伴う外出・交通機関を伴う外出が一切出来ず、厳しく監視されていたのです。 pic.twitter.com/gHuHrJ3fMR

2019-09-20 20:01:12
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1859年(安政6年)5月 11歳になった無人は漢学者・結城香崖に入門し漢籍や詩文を、1860年(万延元年)2月からは流鏑馬・弓術・西洋流砲術・槍術・剣術なども学び始めました。 やがて1862年(文久2年)7月 無人は長府の修練道場「集童場」に入り、元服して名を源三と改めます。

2019-09-20 20:01:12
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しかし、1864年(元治元年)4月 16歳になった源三は学者を志して父・希次と対立した後、出奔。 長府(現:山口県下関市)から70km以上離れた萩(現:山口県萩市)まで徒歩で赴き、兵学者・玉木文之進への弟子入りを試みました。 pic.twitter.com/YUbtg0qkGt

2019-09-20 20:01:12
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玉木家は乃木家の親戚筋でしたが、文之進は源三が希次の許しを得ず出奔した事を責め 武士にならないなら農民になれと諭し、源三の弟子入りを拒絶します。 しかし、後に源三は玉木家に住む事を許され、文之進の農作業を手伝う傍ら学問の手ほどきを受ける事が出来ました。 pic.twitter.com/HDZ37GwKYT

2019-09-20 20:01:13
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源三は玉木文之進の甥・吉田松陰とは19歳も歳が離れていた為、源三が萩に向かった頃には既に吉田松陰は処刑されていたものと思われます。 1864年(元治元年)10月から萩藩の藩校・明倫館にて学ぶ一方、一刀流剣術も学び始めました。 pic.twitter.com/w6svoOYuWz

2019-09-20 21:45:53
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同じ年に源三は集童場時代の友人らと盟約状を交わし、長府藩「報国隊」を組織。1865年(慶応元年)第二次長州征討が始まると山砲一門を有する 部隊を率いて奇兵隊の山縣有朋指揮下で戦い、小倉城一番乗りの武功を挙げました。1869年(明治2年)2月に藩命を受けた源三は同輩5名と共に京都伏見の pic.twitter.com/I8hVcEyb7U

2019-09-20 21:45:54
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御親兵兵営に入り、フランス式訓練を学んだ後は軍人の道を進みます。1872年(明治4年)1月には黒田清隆の推挙を受けて大日本帝国陸軍少佐に任官し、東京鎮台第2分営に所属。 当時22歳の源三が少佐に任じられたのは異例の大抜擢でした。源三は少佐任官を喜び、 pic.twitter.com/z8GT7azwFh

2019-09-20 21:45:55
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後日、少佐任官の日に「生涯何より愉快だった日」と述べていたそうです。1872年(明治4年)1月 正七位に叙された源三は名を「希典」と改めます。

2019-09-20 21:45:55
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1877年(明治10年)西南戦争で希典は田原坂の激戦で連隊旗を西郷隆盛率いる薩軍に奪われるという失態を犯します。 また、重症で野戦病院に入院していたところを脱走し 戦場へ向かおうとして負傷。この時の怪我で左足が少し不自由になりましたが、西南戦争終結後は中佐に昇進しています。 pic.twitter.com/IDM7TljIvp

2019-09-20 21:45:56
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1878年(明治11年)希典は旧薩摩藩藩医の娘・お七(結婚後に「静子」と改名)と結婚。翌1879年(明治12年)に長男・勝典が、2年後の1881年(明治14年)に次男・保典が誕生しています。 また希典は政府の命で同じく陸軍少将の川上操六と共にドイツ帝国へ留学しています。 pic.twitter.com/v92euWJLVC

2019-09-20 22:10:53
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1888年(明治21年)6月に帰国した希典は復命書を陸軍大臣・大山巌に提出します。その内容には軍紀の確保と厳正な軍紀を維持する為 綱紀粛正・軍人教育の重要性を説き、軍人は徳義を本分とすべきなど軍服着用の重要性などが細かく記述されていました。 pic.twitter.com/hvoXxMzhvC

2019-09-20 22:10:53
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ドイツ留学の前までの希典の私生活は酷いものだったそうです。 秋月の乱に始まる一連の不平士族の鎮圧で 実弟など親族を失った希典は料亭などへの放蕩が激しくなり、静子との祝言当日も料理茶屋に入り浸り 祝言にも遅刻したほどでした。 pic.twitter.com/7Awa6e8LCE

2019-09-20 22:10:54
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しかし ドイツ留学後の希典は、復命書の記述を体現するように振る舞います。留学前には足繁く通っていた料理茶屋・料亭には赴かないようになり、 芸妓が出る宴会には絶対に出席せず、生活をとことん質素に徹し模範を示したそうです。

2019-09-20 22:10:54
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希典は熊本・第11旅団に帰任後、東京・近衛歩兵第2旅団長を経て名古屋・歩兵第5旅団長に着任。しかし、上司の第3師団長 桂太郎とそりが合わず、1892年(明治25年)病気を理由に2度目の休職に入ります。 休職中は栃木県那須野に購入した土地(現:栃木県那須塩原市 那須乃木神社)で農業に勤しみます。 pic.twitter.com/5uBl0OjZeQ

2020-01-21 00:42:48
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これより後、希典は休職する度に那須野で農業に従事するようになりました。1892年(明治25年)12月8日 10ヶ月の休職を経て復職し、東京の歩兵第1旅団長に着任。 1894年(明治27年)7月 日本が清に宣戦布告して日清戦争が始まると10月、大山巌が率いる第2軍の下で出征します。 pic.twitter.com/umi2u2Ix03

2020-01-21 00:42:48
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希典率いる歩兵第1旅団は9月24日に東京を出発、広島に集結した後 宇品港(現:広島県広島市南区広島港)を出航し 10月24日には花園口(現:中華人民共和国遼寧省大連市荘河市)に上陸します。 11月から破頭山・金州・産国および和尚島で戦い、11月24日 旅順要塞をわずか1日で陥落させました。

2020-01-21 00:42:49
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1895年(明治28年)希典は蓋平・太平山・営口および田庄台において戦い、特に蓋平での戦闘では日本の第1軍第3師団を包囲した清国軍を撃破する 武功を挙げ「将軍の右に出る者なし」と評価を受けます。日清戦争終結間際の4月5日 希典は中将に昇進。宮城県仙台市の第2師団の師団長に着任します。

2020-01-21 00:42:49