麒麟がくる 第29回「摂津晴門の計略」

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桐野作人 @kirinosakujin

近衛前久の丹波在国は数年間続く。その間、当主前久の京都不在のため、近衛家の家督問題が起こる。前久は一子明丸(のち信尹)を家督にと訴えるが、二条晴良が拒否。覚慶のあとに興福寺一乗院に入室したもう一人の男子尊政を家督に据えようとして紛議となる。家督問題を解決したのは信長。#麒麟がくる

2020-10-25 21:49:43
桐野作人 @kirinosakujin

将軍義昭の御所、二条城が完成した。これは石垣造りの立派なものだった。公家の山科言継は工事中「石蔵積」のため、尾張・美濃・近江・伊賀・若狭・山城・丹波・攝津・河内・大和・和泉・播磨と12カ国から人夫と石を集めたという。また石垣とか石積ではなく「磊」という言葉も使っている。#麒麟がくる

2020-10-25 22:22:14
桐野作人 @kirinosakujin

「磊」(らい)は石が積み重なった状態だから石垣である。竣工した二条城のCGが登場し、三層の天守らしきものがあった。山科言継の日記には「坤角三重櫓これを見る」とある。坤角は西南の角のこと。縄張が不明だが、ここが本丸か? 言継はまた西門と南門にも櫓があったと書いている。#麒麟がくる

2020-10-25 22:22:14
桐野作人 @kirinosakujin

この西門と南門の櫓は三層ではなかったのだろう。義昭が竣工した二条城の出来映えに喜んで信長の手を取って感謝していたが、2人の感情の交差は竣工後、信長がまた岐阜に帰るときに現れる。永禄12年(1569)4月22日、信長が暇乞いに二条城を訪れる。義昭は名残惜しげだった。#麒麟がくる

2020-10-25 22:22:14
桐野作人 @kirinosakujin

山科言継の日記に「各落涙共也、(義昭が)御門外までこれを送らる。東の磊上に御成り、粟田口に入るまで御遠見なり」とある。義昭は出立する信長を門外まで見送ると、東の石垣に上がり、信長が三条粟田口に達して見えなくなるまで見送ったという。両者はまだ蜜月といってもよかった。#麒麟がくる

2020-10-25 22:22:15
桐野作人 @kirinosakujin

今夜の「麒麟」。かつての北条高時のような奇矯な悪役、摂津晴門。将軍義輝・義昭の家臣団を書き上げた「永禄六年諸役人附」には「摂津守中原晴門朝臣」と出てくる。もともとは中原名字だったが、代々摂津守を名乗っていたので名字にした。彼の役職は政所頭人(政所執事)とも。#麒麟がくる

2020-10-25 23:09:59
桐野作人 @kirinosakujin

政所は土地関係の訴訟、幕府御料所の管理、幕府の財政などを担当。政所頭人(執事)はその長官。職務でわかるように利権が伴う。室町幕府では、主に伊勢氏が代々務めていたが、永禄5年(1562)、伊勢貞孝が謀反を起こして敗死。そのため、義輝は新たに摂津晴門を頭人に任命した。#麒麟がくる

2020-10-25 23:09:59
桐野作人 @kirinosakujin

将軍足利義栄は摂津晴門に替えて、再び伊勢氏からまだ幼い貞為(貞孝の孫)を政所執事に任命した。そして義昭が将軍になると、再び摂津が執事に返り咲いたといういきさつあり。摂津はわざわざ越前にも赴き義昭のために奔走していた。執事任命はその論功行賞ともいえ、権勢の源泉となった。#麒麟がくる

2020-10-25 23:10:00
桐野作人 @kirinosakujin

光秀が摂津晴門にはめられた一件。元ネタはあり。ただし、ドラマ進行時点より1年後の元亀元年(1570)4月のこと。東寺八幡宮領の山城国下久世荘を光秀が押領したので止めてほしいと幕府奉行人に訴えがあった。訴状には光秀は幕府の命で、一職(いっしき)支配すると称していたとある。#麒麟がくる

2020-10-25 23:10:00
桐野作人 @kirinosakujin

近日中、石清水八幡宮での放生会(動物愛護の行事)に下久世荘からその費用を捻出しようと予定していたが、光秀の押領によって不可能になったという訴訟。この光秀押領問題を摂津の謀略だったとしたのは主役性善説もあろうが、ストーリーとしては面白いかもしれない。#麒麟がくる

2020-10-25 23:10:00
桐野作人 @kirinosakujin

来月17日発売の拙著『本能寺の変の首謀者はだれか―信長と光秀、そして斎藤利三 ―』(読みなおす日本史シリーズ、吉川弘文館)の書影が出ました。 ただいまAmazonなどで予約受付中です。よろしくお願いします。 amazon.co.jp/%E6%9C%AC%E8%8…

2020-10-28 20:39:55
てかひのとら🐱 @TekahinoTora

#麒麟がくる に出てきた温石。江戸時代の『雲根志』には、若狭では竹村と岩神明神の山で温石が出ると記しています。一乗谷朝倉氏遺跡資料館の出土品ギャラリーの温石の説明では、蛇紋石製だということです。蛇紋石には温石綿(白石綿、クリソタイル)が含まれていることがあります。アスベストです。

2020-10-26 19:47:37
てかひのとら🐱 @TekahinoTora

唐の蘇鶚が著した『杜陽雜編』によると、唐の宣宗皇帝に日本国の王子が献上したおり、碁の対局で王子が出したのが「冷暖玉」という碁石です。本国の東三万里に集真島があり島には凝霞台があって台の手談池の中には玉の碁石が自然と白黒に分かれいて、冬は暖かく夏は冷たいのだそうです。ほんまかいな😱

2020-10-26 21:01:34
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