- Yumihiki2010
- 1909
- 4
- 0
- 0
@Yumihiki2010 ベクトルは真逆なのでは? 5図で言えば、ステージから外側(〈私〉)を向いているのが安らい、外側からステージを向いている(受肉知としての肉体感覚プラス自由意志?)のが進み?
2020-10-28 10:05:37@MuhoNoelke その通りですよね。進みと安らいはまったく矛盾します。 同時成道もそうですが、絶対矛盾的自己同一という例の反則技もあります。 進み即安らい、安らい即進みという見方を西田や道元はすることでしょう。 これはおそらく歴史上の先人たちにタテ問題的に語り尽くされてきました。
2020-10-28 11:18:56@Yumihiki2010 この図で言えば、一照さんは「安らいベクトル」を強調し、私はステージを向いている「進みベクトル」を強調している。そして良道師は6図に向かって、さらに安らおう(進もう?)としているのか?
2020-10-28 10:22:02@MuhoNoelke この進みを強調するか、安らいを強調するかは、好みの問題なのかもしれまんせんね? (それは自由意志なのか?あるいはその人の受肉のありさまからくる「ざるを得なさ」なのか?) タテ問題を語りながらもヨコ問題的な視座を決して忘れないようにしたいというのが私の立場です。
2020-10-28 11:26:13「ざるを得なさ」と「しかなさ」の分類をしてみます。 「ざるを得なさ」/「しかなさ」 受肉の側から/開闢の側から 仏の慈悲 /仏の智慧 進み /安らい 意志 /思惟(反省) 過去と未来 /而今 外に向かって/内に向かって 修行 /悟り だから何だと言うものでもないですが。。。 twitter.com/Yumihiki2010/s…
2020-10-28 11:46:28@MuhoNoelke そこに敏感に反応する感性はとっても重要ですね。ありがとうございます。 全体性に安易に逝ってしまう危険性を常に自覚しないといけませんね。これは仏の側からの「ざるを得なさ」です。 それと対に機能させなければいけないのは、自覚で、自覚と言えば、やはりヨコ問題的な「しかなさ」の自覚です。
2020-10-28 09:30:39@Yumihiki2010 微細ですが、ステージを〈私〉の中身、過去現在未来も〈今〉の中身ととらえた場合、「内」と「外」は逆転しているはずです。進みは内に向かって、ステージに向かう「逆修行」であり、安らいは外に向かって、ステージを離れる「順修行」。ですので、悟りと修行というより、順(安)と逆(進)の対? 続
2020-10-28 11:55:54@Yumihiki2010 永井さんの言う「ヴィパッサナー瞑想」と「ナサッパヴィー修行」。 「ヴィパッサナー瞑想」が順修行と連結し、順悟りをもたらすのであれば、高度の「ナサッパヴィー修行」(衆生を度す僧の身なれば)の裏には「逆悟り」が働いているのでは?
2020-10-28 12:00:54@MuhoNoelke そうだとおもいます! 順修行と逆修行だけでは進み一辺倒なんですよね。 なので順にしても逆にしても、進むには一度、意味や言葉の追い付かない絶対零度の制止の世界(絶対無や無内包の現実性)を見なければいけないのではないでしょうか? そしてこれと全く逆の世界の悟りを進みの中にも見なければ
2020-10-28 12:06:16