陽斗と桜月の12月
何気なく、彼女と何か歌えたらと、そんな風に少しずつ練習していた歌がある。 英語はわからない。正しいのか実感はないまま音だけをなぞっていく。嫌いじゃないけど得意じゃなかった。致命的にダメでもないけど、舌を巻くほどすごくもない。 とりあえず、これが12月の歌だとは知っている。
2020-12-17 23:37:30突然の寒波でみんなが猫背になり出した頃、色んなところでクリスマスソングが流れるようになった。 恋人と笑顔で見つめ合うポスターや家族で食卓を囲むコマーシャルを目の当たりにするたび、島でミュージシャンに出会ったあの日、彼の活動休止会見を丸い背中で見ていた食卓の両親を思い出す。
2020-12-17 23:41:31あれからも桜月とは「普通」だ。 別に俺達の関係に名前がちゃんとついたって、急に役割を呑み込まなきゃいけないわけじゃない。片想いだからぎくしゃくしなくちゃいけないとか、告白したから意識し合わなきゃとか、そういう逆説的な人間にならなくてもいい。 小さな愛着を段々膨らますだけでいい。
2020-12-17 23:49:37それはそれとして、この歌を続けるのは照れ臭い。 9月にソワソワと確かめ合った愛のことを、12月になって思い返す歌──だと思うのだけど。 何せ12月になった。秋に正直に伝えてしまった感情が紐付いて蘇る。意識しないわけじゃない。 意識したくないわけでもないし。
2020-12-17 23:54:53桜月が大舞台を控えているのは、何でもない日のホームルームで知った。 学校で英語の成績の良い人が、ステージで英語スピーチを披露する行事があるらしい。 教えてくれればいいのにとか、ふうん成績良かったんだとか、そんな野次より彼女の持っているものが認められたのが、真っ先に嬉しかった。
2020-12-18 00:07:37入部した頃から、誰かと固まるでもなく、ギターはこっそり教室で弾いている。一人でも特に寂しかったことはない。 でも最近は誰かが隣に来ることが増えた。桜月や他の友達や、偶然忘れ物を取りに来た人が、偶然文化祭の小さなステージを見てくれていた人で、偶然時間があって少し聴いていくとか。
2020-12-18 06:47:47絶対ギターが邪魔なこの部屋で、桜月はスピーチの原稿を手直ししたり、音読練習したりするようになった。 よく聞こえないけど、思ったよりスピーチは短そうだ。 その短い語りに、彼女は結構ちゃんと向き合っている。
2020-12-18 06:52:27「学年で1人なのよ。私がダメだったら、みんなダメだと思われちゃう」 「そうかなあ。まあでも、俺は実際英語ダメだから、少なくとも俺のことは背負わなくていいよ。一人分軽くなったな!」
2020-12-18 06:54:38そんな軽口を叩いた時、彼女はスムーズに笑わなかった。 微細な違和感、前にも似た感覚があった、ような。 気になった。いつかその正体をわからないといけない予感がした。 忘れないようにしよう。
2020-12-18 06:57:50彼女の語りは練習するほど流暢になっていく。 原稿を覚えたから目線が上がるようになった。詰まるところは何度か繰り返して読み上げるから、随所で俺もフレーズを覚え始めた。 ジャストライクファイヤフライ、アウワスリーウェイジャンクション、ア ショートトリップトゥアンアイランド……。
2020-12-18 12:21:14ギターの音の隙間に、彼女が呼びかける声がした気がした。 「はあい」 「え? 何?」 「あれ、呼んでなかった?」 特に、と言いつつも、彼女は「でもちょうど良いから」と姿勢を正した。 何事だろう。つられて背筋を伸ばす。
2020-12-18 12:29:04はきはきとした音で彼女はそう発した。 「……どうかな」 「え、良い声だと思う」 「今のがスタートなんだけど、それでも?」 「ん? それでも、って?」 「つまらないんじゃないかって」 「意外なこと言うね! エンタメ路線なの?」 「そうじゃないんだけど……」
2020-12-18 12:36:35「陽斗くんのステージね、わくわくしたよ。陽斗くん、出てきた時何考えてるかすごくわかる顔してた。みんなそうだったと思う。でもそれで引き込んでもらえた感じがした。 それ、少し憧れるなって思って。 陽斗くんなら、最初なんて言う?」
2020-12-18 12:39:54踏み切りの言葉を求められたのは、本番まで間のない頃だった。 人選ミス極まりない指名に「本番前に自信がなくなっているのかもしれない」と勘繰ってみたものの、彼女は特にしおらしくなる気配を見せない。淡々と練習して、改稿して、磨いて、学年一人に相応しい優等生然とした声を突き詰めていく。
2020-12-19 00:43:54きちんとしていた。きっと文法だって全部律儀にテコ入れを重ねてあるんだろう。同じ一年生からこの調子で磨かれたスピーチが聞けたら、俺の功績じゃないのにウキウキしそうだ。 出来がいい。なんというか、教師の目に狂いがなかった、といった印象。 正解って感じだ。
2020-12-19 00:49:28やっぱり俺が介入するまでもない。考えれば考えるほどそうだ。そもそも桜月の作品を純粋に聞きたいし、純粋に彼女自身の言葉がたくさん聞ける機会って今まであまりなかった。 こういうのって、自分の言葉で語ればいいんじゃなかろうか。
2020-12-19 00:52:08そう答えればいいのに、中々言えなかった。 本番3日前、縁日の男がスピーチ原稿のプリントを俺の元に持って来た。受け取るものの上手く頭に入ってこない。桜月がハキハキ読み上げた冒頭一文だけがそれとなく飲み込めた。
2020-12-19 01:00:57プリントと一緒に、彼は小さな紙袋を置いて淡白に出て行った。感染ったらお前が落ち込むから、と、顛末のいくつか先を見据えて。 折角の週末を寝て過ごすのが目に見えている。かなり癪だけど、月曜は絶対に起き上がらないといけない。 大人しく色んな予定を組み替える。
2020-12-22 23:41:12楽器屋のギターレッスンも、そろそろ買おうと思っていたパーカーも、骨が見事に折れて買い替えようとしていた傘も、とりあえず後回しにしないと。 楽器屋は「死にそうになったらあたしのとこに連絡していいからね」と、大袈裟に気を配ってくれた。縁起でもない。
2020-12-22 23:45:06意外と馬鹿でも引く、正直風邪なんて柄じゃないのに。 思ったよりつらくはないけど、あの軽薄な友人がそそくさと帰る程度にはダメな感じなんだろう。 気を遣ってくれるのは嬉しいけど、誰もいないところで寝ているのはかなり堪える。
2020-12-22 23:49:21