これに関して言うとわたしもメンタルがアレでだいたい彼氏が理解ある彼氏くんやってくれてるから全く後悔はないんだけど ここまで書いて思ったけどもしかして内実はそういう感じなのでは
2021-01-28 09:44:53つまり理解ある息子くんとして育った結果メンタルを拗らせて共依存的になってしまい、それがないと自己肯定ができず、結果同じようにメンタルを拗らせた人の面倒を見てないと生きていけないとか、あるいは同族に惹かれ合う形で付き合ってしまうとか、そういう…
2021-01-28 09:46:26うちの母はワーカーホリックのヒス持ちだったけれどお見合い結婚で理解のない男を打算で選んだ結果娘2人のうち1人はメンヘラにならなかったのでメンヘラは感情に流されず理解のない男と結婚すると五分の勝負に持ち込めるのでは
2021-01-28 10:52:08好きでやってるからまあいいや twitter.com/tamejirou/stat…
2021-01-28 11:16:14息子くんはちゃんと解放されるといいですね。これまで観測されたケースでは、女の子ママの理解ある息子くんをやってた男、高確率でメンヘラと交際して理解のある彼くん、夫くんをやる羽目になります。そういう因果なんです。うちは親子3代そう
2021-01-27 22:18:22祖母はねえ…… 不妊治療でアラフォー出産した後、名前は伏すけど戦後に流行った新興仏教にハマって支部長?だかになるくらい熱心に布教した人でしてね。叔父は40過ぎまでその呪縛から逃れられませんでしたね。 twitter.com/Tamejirou/stat…
2021-01-28 08:11:28これはねえ、もう祖母が自分で言ってましたからね。「大農家の末っ子でお嬢様育ちだったから、都会に出てきて結婚してからもおじいさんにはワガママばかり言って、今思うと申し訳なかった」って。そういう血筋~~
2021-01-28 08:01:47でも父親を「弟を見捨てた非常な男」とは思わないでほしい。彼自身もお見合いで半メンヘラを引き当ててしまって男児2人の子育てに苦慮したのだから。
2021-01-28 08:11:28祖父については色々書いたけど、綺麗事を取っ払ったら彼もまた「理解のある夫くん」の一人であったのだ twitter.com/Tamejirou/stat…
2021-01-28 08:12:59爺さんにはもっと昔のことを聞いておけばよかったといつも思う。物心ついてから一緒に過ごしたのは76歳と78歳のとき、それぞれ数日間だけで、その二年後には餅を喉につまらせて死んでしまった。
2019-11-02 11:07:07関連 twitter.com/Tamejirou/stat…
2021-01-28 08:13:38長男(つまりうちの父親)は「嫁が宗教にのめりこんでしまう」という相当厄介な属性を受け継いでしまっているし、やっぱり「本来なら産まれてくるはずのなかった子どもたち」という意識が常に付きまとう
2016-12-13 13:48:36関連 twitter.com/Tamejirou/stat…
2021-01-28 08:14:57ワイの父親がカルトにハマらなかったのはしかし、そういう素養のためというよりは、幼い弟(ワイの叔父)の手を引いて布教に勤しむ母親(ワイの祖母)の姿を見ていて半ば嫌悪していたから、なんてことも考えられるな
2019-09-03 08:51:54関連 twitter.com/Tamejirou/stat…
2021-01-28 08:15:56祖父さんが80で死んだ時、父親は41だったんだよね。じいさんは32で終戦・復員して結婚、不妊でなかなか子供が生まれず、長男の父親が39歳のときの子。次男の叔父は更にその7年後なので46のときの子。叔父さんが大学入ろうという歳に64。26歳の兄が学資を出すのはまあ不可避だったわけだ
2019-10-30 11:05:34@na0mix_1Z3 いや、R4さんは本来無関係で、ツイートしたときは息子の受験先に干渉する母親の話を念頭に置いてました。たまたま同時にR4さんの息子さんの話が流れてきて……
2021-01-28 09:14:50関連する過去ツイ(時系列
祖父が28歳くらいの時に日米開戦して、終戦の年には32歳だった。招集され、アッツ島に送られようかというところで守備隊が全滅し、増援は取り止めになった。終戦後7年の間に祖母と結婚し、父が生まれた。8年後に叔父が生まれた。苦労したんだろうな。
2010-07-26 10:22:19この辺、身近な人がどういう立場だったかで意見が別れるのは当然で、私の曽祖父(-祖母-父の系統)などは福島は相馬のあたりで庄屋をやっていたが戦中戦後のゴタゴタで没落したのだそうで、「日頃から皆の面倒をずっと見てやっていたのに……」とぼやきながら酒ばかり飲んでいたそうだ。
2016-02-22 17:06:35ちなみにこれが大正8(1919)年生まれの祖母が若いころに見ていた姿だというが、20歳上(1899年生)の一番上の姉は都会へ出て看護婦長をやっていたというから子弟の教育には結構力を入れていたようだ
2016-02-22 17:23:21