2021.04.18 青天を衝け(10)「栄一、志士になる」放送後の桐野作人先生による解説ツイート

坂下門外の変と老中安藤信正、皇女和宮の降嫁について解説いいただいております。
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桐野作人 @kirinosakujin

本日の大河ドラマ「青天を衝け」第10回。老中安藤信正が襲撃された坂下門外の変が描かれました。桜田門外の変はいつも詳しく描かれますが、坂下門外の変は少し触れられたらいいほうで、ナレーションだけで終わったりすることも。今回はその背景も含めて、比較的詳しく描かれました。#青天を衝け

2021-04-18 20:50:20
桐野作人 @kirinosakujin

老中安藤信正(陸奥磐城平藩主)は大老井伊直弼に引き立てられて老中に昇進。安政の大獄のさなかも水戸藩に戊午の密勅の返納を迫ったので、水戸藩などから敵視された。井伊大老の死去後、老中に再任した久世広周(下総関宿藩主)とともに幕閣の中心となり、久世・安藤政権とも呼ばれた。#青天を衝け

2021-04-18 20:50:21
桐野作人 @kirinosakujin

老中安藤は井伊大老の後継者だったが、井伊の強権政治により悪化した公武関係を修復させようとして公武一和政策に転じた。その中心が孝明天皇の妹和宮親子内親王と将軍家茂の縁組、いわゆる和宮降嫁だった。しかし、尊王攘夷派の浪士たちは幕府が和宮を人質にして廃帝を迫るものと激高。#青天を衝け

2021-04-18 20:50:21
桐野作人 @kirinosakujin

もともと老中安藤襲撃策は桜田門外の変から4カ月後、万延元年(1860)7月、長州の桂小五郎と水戸の西丸帯刀らの間で水長盟約で、品川沖碇泊中の長州藩船丙辰丸の船中で結ばれたため、「丙辰丸盟約」ともいう。しかし、翌文久元年から長州藩では長井雅楽の航海遠略策が藩論となった。#青天を衝け

2021-04-18 20:50:21
桐野作人 @kirinosakujin

一方、水戸藩浪士も高輪東禅寺の英国公使館襲撃事件を起こして幕府から弾圧されていた。その頃、ドラマでも登場した宇都宮藩の儒者、大橋訥庵が和宮降嫁に憤激して挙兵しようとして水戸藩に協力を求めたが、水戸藩有志は安藤老中の襲撃を主張したため、合同は成らなかった。#青天を衝け

2021-04-18 20:50:22
桐野作人 @kirinosakujin

その後、大橋は輪王寺宮の擁立を策したが、これも失敗したため、再び水戸藩有志と合流して、安藤老中の襲撃を計画することになった。文久2年(1862)1月15日に決行と決まった。しかし、幕府に探知されて、12日には小梅の大橋の塾に手入れがあり、大橋らが幕吏に捕縛されてしまった。#青天を衝け

2021-04-18 20:50:22
桐野作人 @kirinosakujin

襲撃は予定どおり、1月15日に決行された。しかし、老中安藤も桜田門外の変以来、警備を厳重にしていたのと、襲撃者が少数だったため、安藤は負傷しただけで、6名が闘死した。川辺だけは遅刻してしまい、あとで桂小五郎を訪ねて斬奸趣意書を手渡したのち切腹した。#青天を衝け

2021-04-18 20:50:23
桐野作人 @kirinosakujin

大河ドラマ「青天を衝け」続き。坂下門外の変で負傷した老中安藤信正の負傷の程度はどうだったのか諸説ある。「文久壬戌筆記」には「目の下耳の辺へ二処ほど疵これあり」、「福岡藩江戸詰用人書翰」には「御背に二ヶ所御疵を負いに相成り、内一ヶ所は御深さ凡そ一寸計り(約3センチ)」、#青天を衝け

2021-04-18 20:50:30
桐野作人 @kirinosakujin

興味深いのは「弘前藩喜良野某書翰」で「対馬守様(安藤)御頬にか御眉間の辺にかに御疵所御座候よし」とある。頬か眉間の傷は目に見える場所。もし事実なら、老中失脚はこれが原因の一つかも。老中安藤のその後だが、内願により老中罷免、溜間格に進み、2万石の加増を受けた。#青天を衝け

2021-04-18 20:50:31
桐野作人 @kirinosakujin

しかし、半年後、加増2万石を没収され、さらに同年11月に永蟄居、さらに2万石削封の追罰を受け、慶応2年(1866)に赦された。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に加盟したものの城を落とされて、安藤は仙台に逃れている。戦争終結後、再び永蟄居、明治2年(1869)に赦された。波瀾の生涯である。#青天を衝け

2021-04-18 20:50:31
桐野作人 @kirinosakujin

大河ドラマ「青天を衝け」続き。坂下門外の変の一因となった和宮降嫁問題。じつはこれは久世・安藤政権の発案ではなく、井伊大老存命中、安政5年(1858)9月に井伊の懐刀、長野主膳が同じく謀臣の宇津木六之丞への書簡で、朝廷改革の一環として「皇女御申下しの一件」を提案している。#青天を衝け

2021-04-18 21:22:11
桐野作人 @kirinosakujin

これをさらに具体化したのは、翌月、京都西町奉行与力の加納繁三郎。左大臣の近衛忠煕に提案し、近衛がさらに京都所司代の酒井忠義に話したのが発端という。もっとも、当時、天皇家には皇妹和宮と皇女富貴宮がいたが、富貴宮は生まれたばかりだったので、和宮に白羽の矢が立つことになる。#青天を衝け

2021-04-18 21:22:12
桐野作人 @kirinosakujin

当時、公武間の縁組は決まり事があった。皇女(皇妹)と徳川将軍との縁組では、3代将軍家光以来、皇女が嫁した先例はないとされていた。伏見宮、閑院宮、有栖川宮などの宮家か摂関家(近衛・鷹司・一条)に限られていた。ところが、唯一の例外があった。#青天を衝け

2021-04-18 21:22:12
桐野作人 @kirinosakujin

それは霊元天皇の皇女八十宮(やそのみや)が7代将軍家継と婚約したことである。しかし、家継がわずか8歳で夭逝したために結婚には至っていなかった。一方、皇女の嫁ぎ先の先例はその多くが宮家だったから、和宮と有栖川宮熾仁親王の婚約も先例通りだった。#青天を衝け

2021-04-18 21:22:13
桐野作人 @kirinosakujin

関白九条尚忠も酒井を支持して天皇に和宮降嫁を申し入れている。その間、天皇側近の久我建通や岩倉具視が和宮降嫁は朝威回復の好機だと進言した。それは幕府に10年以内の安政条約の破棄=攘夷実行と重要政務の事前奏聞を約束させれば、幕府に対して優位に立てるという策だった。#青天を衝け

2021-04-18 21:22:14
桐野作人 @kirinosakujin

のちに和宮降嫁を推進した久我建通や岩倉具視は「四奸二嬪」として攘夷派に追い落とされるが、むしろ、現実的な攘夷論だったことが誤解されたといえよう。 一方、ドラマには登場しなかったが、有栖川宮熾仁親王にとっては婚約破棄は屈辱的だった。幕府も有栖川宮家を説得している。#青天を衝け

2021-04-18 21:22:15
桐野作人 @kirinosakujin

たとえば、有栖川宮家は薄禄(知行1000石)だから、和宮を受け入れるのは経済的に困難だろうとか、和宮が丙午の生まれなので、父幟仁親王も恐怖しているとか。説得と言うより圧力、脅迫である。有栖川宮家は困り果て、ついに和宮との縁組を「延引」すると朝廷に申し出た。#青天を衝け

2021-04-18 21:22:15
桐野作人 @kirinosakujin

大河ドラマ「青天を衝け」。このドラマでは尾高兄弟、平岡円四郎、大橋訥庵、老中安藤信正、坂下門外の変など、これまでの大河ドラマであまり光が当たらなかった人物や事件を取り上げていて、別の視角から幕末維新史の流れを理解することができる。なかなか面白いドラマになりそうな予感。#青天を衝け

2021-04-18 21:28:47