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tamagoyaki224
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「待ってたっすよ、藍子ちゃん」 真っ赤になった目と埃ですすけた顔で ちょっとひきつった笑顔を見せる沙紀さん。 午前5時。 誰も通る気配がない、 車一台ぎりぎり通れるぐらいの、 丈が低く水はけの悪い高架下。 沙紀さんはここに私を呼び出した。 GPS機能はこう使うものじゃないと思います。
2021-04-17 00:17:45![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
「ちょうど出来たとこだったんすよ」 高架下からすこし出たところで沙紀さんは待っていた。 私は思わずむっとして、 「こんな時間に、非常識ですよっ。 それに、夕べはどこに行ってたんですか?」 そう、沙紀さんは昨日の夜、夕食を食べた後、 寮に戻らずにどこかに行っていた。
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「いま言ったっすよ」 空のバケツと大きなカバンを指さして沙紀さんは笑う。 「藍子ちゃんに見せたいものがあって」 沙紀さんはバケツを手に取り、すぐそばの公園の水道に向かった。 大きなカバンに一瞬目をやって、そのあとに続く。
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「これ高圧洗浄機っす」 バケツになみなみと注いだ水に、その機械の片方を入れる。 「ちょっと離れてたほうが良いっすよ」 沙紀さんは煤けた壁に水を噴射していく。 あっけにとられた私を置いてきぼりにして、 沙紀さんはどこか規則的に水をうちつけていた。
2021-04-17 00:17:46![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
「何に見えるっすか」 沙紀さんは私の方を見た。 私が言葉を返さないでいると、 沙紀さんは目とあごで先程の壁を指した。 「ねこさん…?」 そこには、うすぼんやりとした輪郭ではあったものの、 煤けた壁が綺麗になって、まるで影送りのように 白く猫のシルエットが浮かんでいた。
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「リバースグラフィティっていうんすよ」 グラフィティ。沙紀さんの趣味。 スプレーでする落書き。 「汚れた壁、床、タイル。看板でもなんでも。 こうやって意図的に汚れを取ってつくるアートのことっす」 薄暗い早朝の曇り空の下、 沙紀さんのその姿は…じっとりと濡れていた。
2021-04-17 00:17:46![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
「どうすか」 「どう、と言われても…」 「まあ、そうっすよね。これはアートじゃないっす」 沙紀さんはバケツの水を捨てて高架下へ歩いていく。 またその濡れた背中を追って後に続いた。
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「藍子ちゃんには憧れてたんすよ」 「私に…?」 「去年だったっすかね、雑誌のコラムを読んで」 『歩くペースはゆっくりでも、決めた道を 最後まで歩ききれなかったことはない』 「アタシは…最後までやりきったこと、なかったっす」 「沙紀さんが…?」 「グラフィティって知ってるっすよね?」
2021-04-17 00:17:47![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
「15ぐらいの頃っすかね…。2日ぐらいかけて、 でかい公園のスケボーパークの壁に書いてたんすよ」 「あとちょっとで完成ってとこだったんすけど、 上書きされてたんす。アタシの絵」 「しかも…まあ、当然なんすけど。それがうまくて… それをさらに書き換えられるかっていったら、無理で
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「それからは…一応クライアントが出来て。 お金貰って絵を描いてたっすけど… そういうのはしなくなってたんすよね…」 「でも沙紀さん、それって…」 「そうっす」 「グラフィティは犯罪っすよ」 沙紀さんの目は私を見ずにどこか遠くを見ていた。
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「正直スカウトを受けたのも、自分の枠を広げるためっていうか…」 「アートの肥やしにすればいいって思ってたんすけどね…」 「毎日楽しいし、新しい発見もあって、退屈しなかったっすけど…」 「やっぱり絵が描きたいんすよね。アタシの魂で勝負したいんすよ」
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「それは、その…アイドルの中で、とか、 うーん、合法?な手段では、いけなかったんですか?」 「藍子ちゃん、グラフィティっつーのは、ブレイクダンスと同じっす」 「ギャングたちがピストルとゲンコツに頼らないで 勝負をつけようっていって始めたやつなんすよ」
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「あれっていつの間にか絵が変わってることがあるんす」 「そうなんですか?」 「正確に言うと、変えてるんすよ。次に書いた人が」 「…それって」 「そう。グラフィティっていうのは、バトルなんす。 自分のほうがうまいって自信があれば、上書きしていいんすよ」
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「正当化するつもりはないっすけど… やっぱり本物の勝負がしたくなるじゃないっすか」 「…全然、そんな風に見えませんでした」 「そっすか?」 「沙紀さんもおっしゃってましたけど、毎日楽しそうでしたから」
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「ま、そっすね。それは間違いじゃないっすよ。 ちょっとだけ満たされないところがあったってだけで」 「…それで、どうして私をここに?」 「あー、藍子ちゃん写真撮るの好きっすよね」 「?はい」
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「写真と勝負したくなったっす」 「…私の、写真?」 「カメラとアートは似たものを感じるっすよ」 「一瞬を切り取って、その一瞬を永遠にする…。 アートは、写真みたいに写実的なものはないかもしれないっす」 「だから、これなんすよ」 高圧洗浄機を少し持ち上げる沙紀さん。
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「えっと、リバース、グラフィティ…?」 「っす」 「リバースグラフィティは汚れを落として描くもの。 もし誰かが傷をつけたら?強い雨が降ったら? 砂埃が舞ったら?それともこの高架下が崩れたら?」 「落ちにくいスプレーで書くグラフィティよりも 持続性ってヤツは大きく劣るはずっす」
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沙紀さんは立ち止まった。 「多分今日しか…いや、あと1時間も見られないと思うっす」 親指をトンネルに向ける。 「…ほんとは、そうであってほしいって思ってるだけっすけど」 沙紀さんの脇を通って高架下に入る。 その壁を見て息を呑む。
2021-04-17 00:17:50![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
そこには、大きな葉っぱの下で 尻尾を少し立てて雨宿りをする猫の絵が描かれていた。 樹の幹の細かい皺、雨に濡れた草花、 雨粒の波紋が広がる水たまりを、 汚れとそうでない部分だけで再現してあった。
2021-04-17 00:17:50![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
「もちろん洗浄機だけじゃ無理っす」 沙紀さんは穴の開いた白い板を持っていた。 「これを壁に押し付けて、そこに水を当てて模様を描いていくっすよ」 それだけで描けるとは到底思えない。 沙紀さんの話を聞く限り、この絵は恐らく一夜漬け。 点いては消える頼りない蛍光灯の光を頼りに描いたものだ。
2021-04-17 00:17:50![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
「どうすか」 私は呆けたようにおもむろに頷くしかなかった。 「へへっ、やったっす」 後にしてみれば、どうしてその絵を撮らなかったのでしょう。 しかし、私の頭の中には、その絵はもちろんですが… 歯を見せて笑う沙紀さんの顔が、ずっと焼き付いています。
2021-04-17 00:17:50