- indigo_nuo
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…む、また元長がこのあかうんとを使ってたのか?いや、どの道もう一度くらいは貸してやる予定だったが…うん、元清とも喋ったのか。良かった
2011-08-02 18:04:56せいちょういたしますRT @hoidada: さて、語りの続きでもぼちぼちとやっていきましょうかね!(前回)http://togetter.com/li/166263
2011-08-02 18:23:03秀吉公の一字を頂き、京都で宮松丸は右京大夫秀元となりました。そして妻の死没後に佐波氏の千代が私の継室となり、廿日市五もじを授かりました。その後千代は私の死後嫁いだ先で黒田騒動に巻き込まれた後、秀元の元に身を寄せ九十四歳まで生きたりするわけですが…逞しい嫁でございました。
2011-08-02 18:26:41そして文禄元年、朝鮮出兵において輝元様が病気にかかり秀元が呼び戻され、私が軍事指揮をとることになった際、秀吉公は私に「あること」を言ったのです。
2011-08-02 18:30:45私は朝鮮へ出向き二頭の虎を生け捕りしました。私の持ち帰った虎は京洛において評判となり、後陽成天皇も物見に訪れたといいます。そういうこともあり私は一時期ほんの少し名を馳せることとなったのですが、四十二歳の厄を異国で過ごしたのが災いして慶長の役の頃に病床につくことになります。
2011-08-02 18:37:30その後、どっちが早く死ぬかという不謹慎とーくをする程度に元気な私と隆景様は、一ヶ月違いでこの世を去りました。後追いと言われますが全然そんなことないです むしろ先陣をきってたはずだったのに、いつの間にか景様がまーた陣頭指揮とっちゃってた的な…
2011-08-02 18:39:47私の娘達は家臣の元通に、熊谷の直貞殿に、宮松丸の嫡男の毛利元鎮殿、宍戸広匡殿と、そして後妻との子は多賀氏に嫁ぎました。どれも馴染み深い家の方ばかりでございます。
2011-08-02 18:44:50我が法名は洞雲寺殿笑山常快禅定門といって一風変わった楽しい名でございます。苦労もありましたが、多くの人に育て上げられたこの元清は、後世では「地味だがよく笑い家臣とも仲が良い温和な男」と言われております。今では毎日政務と一騎打ちをやる元気な460歳です
2011-08-02 18:47:26おわりでございます!宗勝殿と四国に行ったり、輝元様とつるんだり、まあ後日談はいろいろあるのですが省略いたします( ´`)ノご清聴ありがとうございました!
2011-08-02 18:51:25