陸前高田市を訪れて

8月4日に岩手県陸前高田市を訪れたまとめです。拙い文章で、誤字脱字も多いですが、たくさんの方に読んでいただけると嬉しいです。
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水波 @Mizuha13

立っていられないほどの大きな地震、迫りくる津波に背を向けて避難所へ急いだこと、途中で近所の人が波にのまれてゆく様を目撃したこと…本当は思い出すことも辛いであろう事実を赤裸々に私たちに話して聞かせてくださいました。それはなぜなのか、その時点では私にはわかりませんでした。

2011-08-05 21:39:21
水波 @Mizuha13

私も、一緒に話を聞いていた仲間たちも、頷くしかできませんでした。最後に、私に話を聞かせてくださった方は、握手を求めた私の手を両手で強く握り、「貴方の手はとてもあたたかくて安心できる手だね。将来一人前のお医者さんになったら、この手でたくさんの人を救ってあげてね」とおっしゃいました。

2011-08-05 21:47:57
水波 @Mizuha13

私はあの方の手の温もり、まなざしと言葉をずっと忘れることはできないでしょう…避難所の方々がなぜこうして部外者である私たちにご自身のつらい体験を話して聞かせてくれたのか。その答えは避難所の訪問を終え、私たちの滞在する宿で行われた高田病院の先生方との交流会で明らかになりました。

2011-08-05 21:54:33
水波 @Mizuha13

私たちは、この疑問をストレートに先生方にぶつけました。すると、意外な答えが返ってきました。それは、私たちが被災者ではないからだというのです。被災者同士では辛い震災体験の共有はできます。しかし、共有というのはお互いの辛さをそれぞれ自分も背負ってしまうことになるのです。

2011-08-05 21:58:08
水波 @Mizuha13

「私はこうだった」「うちはこうだった」という情報の共有は、ただでさえ辛かった自分の体験に加え、更に別の被災者の体験を会話をする中で追体験することになり、心理的な負担が増えてしまう。その点、私たちは実際にあの地震と津波を体験したわけではないですから、何も言わずに黙って話を聞くだけ。

2011-08-05 22:07:18
水波 @Mizuha13

だからこそ、私たちのような存在は自分の今までの苦しみ、恐怖感などを吐き出す相手として最適だったのだろうというのです。避難所では、周りにいるほとんどの人が同じ被災者です。そのため、私たちのような人間はなかなかいなかったのだろうということでした。

2011-08-05 22:11:25
水波 @Mizuha13

他にも、避難所では様々な問題があったといいます。そのことについては、避難所の代表者の方に説明していただきました。まずは人間関係について。今では仮設住宅への入居や、別の場所への転出などが進み、避難所に暮らす人の数は減ってきましたが、かつてはたくさんの人が暮らし、働いていました。

2011-08-05 22:14:56
水波 @Mizuha13

多くの人がいるということは、そこには多くの考え方が存在しているということと同義です。それによる対立もなかったわけではないそうです。例えば、避難所で身体を動かさずにじっとしていては、心身の健康が損なわれると朝のラジオ体操を企画、実行してみても「音がうるさい」などの苦情が出てしまう。

2011-08-05 22:23:45
水波 @Mizuha13

避難者だけにとどまらず、スタッフ間でも考え方の違いからすれ違いも起きたそうです。しかし、それを乗り越えて避難所の運営を成功させることが出来たのは、人と人とのつながりだと強くおっしゃっていました。陸前高田市の地域性、人々の心の強さ、「和」を重んじる姿勢だったと言います。

2011-08-05 22:28:35
水波 @Mizuha13

ここから少し避難所の医療についてのお話です。一番助かったのは、日赤医療チームが避難所に24時間体制で常駐していてくれたことだと言います。実際に避難していた方々も、体調を崩したらすぐに診てもらえるという環境は精神的にも安心できたそうです。

2011-08-05 22:31:58
水波 @Mizuha13

また、避難所で特に重要だったのはインフルやノロ等の感染症対策。狭い空間に多くの人が暮らしているということもあって、集団感染が起こりやすい環境だったためです。手洗いやうがいの呼びかけ、換気などを広く呼び掛けたとそうです。

2011-08-05 22:35:13
水波 @Mizuha13

しかし、そこまでしても感染症は起こってしまいます。避難所で多かった健康被害は、感染症、発熱、脱水、腰痛だそうです。他にも、現在は解消されているとはいえ、薬不足から毎日飲んでいた薬が減らされてしまったりするなどの状況もあったそうです。

2011-08-05 22:40:50
水波 @Mizuha13

そういった場合、一般のスタッフからの説明では不安にさせてしまうので、そういった場合も日赤医療ボランティアスタッフにお願いして患者を不安がらせないようにしていたそうです。続いてはボランティアに関連したお話です。

2011-08-05 22:48:26
水波 @Mizuha13

今回、第一中学校避難所では、建物内へ被災者以外のボランティアの受け入れはしなかったそうです。他所から来てもらってもいつかは帰ってしまうから、自分たちで避難所が運営できるようになるための配慮だったそうです。また、被災地に入る目的がはっきりしない個人のボランティアは困ったと言います。

2011-08-05 22:53:07
水波 @Mizuha13

センターを通さない個人のボランティアは、身元がわからず避難所の安全などを考慮した結果断ったそうです。また、救援物資は被災者への公平性を確保するために個人宛にしないで欲しいと呼び掛けても個人名でに荷物が届いてしまったり、不要と言っている物資も大量に届いて置き場に困ったと言います。

2011-08-05 22:57:10
水波 @Mizuha13

特に衣類はいらないとひたすら呼びかけても全国各地から大量に届いたそうです。善意であっても、被災地のニーズや組織を考えないものはむしろ迷惑となってしまいます。何か行動を起こす際は、それが本当に被災地で必要とされていることなのか十分に調べ、考えてからにするべきだと思います。

2011-08-05 22:59:20
水波 @Mizuha13

最後に、高田病院の先生たちとの交流会から特に印象に残ったお話をいくつか。先生方が今一番欲しいものは病棟だと言います。高田病院は仮設診療所に病棟を持ちません。自分が診療し続けていた人を別の入院施設のあるところへ移してしまって、自分たちで面倒を見られなくなることが何より辛いそうです。

2011-08-05 23:06:50
水波 @Mizuha13

しかし、それは医師としての立場を踏まえた時の話であって、そういった立場を取っ払い、一被災者としては、津波に流されてしまった奥さんとの婚約指輪を見つけ出したいそうです。医療者という立場上、あまりそういったことを言い出せないとはいえ、先生たちも被災者であることに変わりはないのです。

2011-08-05 23:12:19
水波 @Mizuha13

また、マスコミの無神経さにも強い憤りを感じたと言います。医療スタッフの中には愛する人を失った人ももちろんいます。それなのに、そこに配慮をせず、インタビューなどでずけずけと傷口を抉るような質問をされることも多かったそうです。

2011-08-05 23:21:00
水波 @Mizuha13

あと、震災当時のことを思い出そうとしても、先生自身はあまりよく覚えていないと言います。あまりの恐怖と辛さに、無意識的にそれを忘れようとしているのかもしれないとおっしゃっていたのが印象的でした。

2011-08-05 23:25:26
水波 @Mizuha13

私は被災地に入るまで、ただの医学生である私が被災地に入ったところで全く被災地のためにできることはないし、むしろ今を必死に過ごしている被災者の方々にとっては邪魔なだけなのではないかと思っていました。

2011-08-05 23:28:55
水波 @Mizuha13

また、震災当時もTVの前に座って津波の映像を見ているだけの無力な自分に罪悪感を感じていました。被災地のために何もできない、ちっぽけな自分の存在意義はなんなのだろうかと、日々思い悩んでいました。

2011-08-05 23:31:57
水波 @Mizuha13

しかし、そんなことをつぶやいた私に先生はおっしゃいました。「そうして被災地のことを思って悩んでくれたことが何よりも嬉しい。今回こうして見て、聞いて、感じたことは、実際に現地に来ないと絶対にわからないことばかり。映像とは異なる生の被災地の姿を是非たくさんの人に伝えてほしい」

2011-08-05 23:37:52
水波 @Mizuha13

先生がおかえりになる間際に、「私たちのように被災地から離れて暮らしている者に、何かできることはありませんか?」と聞きました。

2011-08-05 23:41:25
水波 @Mizuha13

「忘れないでほしい。こうして大地震があって、津波が来てたくさんの人が苦しんだという事実をどうか忘れないでほしい。機会があったらいろんな人に直接被災地に入ってほしい。そして、被災者じゃない立場から見て、聞いて、感じたことをたくさんの人に伝えてほしい」とおっしゃっていました。

2011-08-05 23:44:45