「手の倫理」 伊藤亜紗

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GMBO2008 @GMBO2008

昨今、ダンスがさまざまな場面で見られるようになって、特に集団のダンスに対してイマイチ入り込めない違和感を感じていたのは、そこにおいてパフォーマー同士の“接触“がほとんどないからではないか、と伊藤亜紗の「手の倫理」を読み始めて思った

2021-06-06 14:02:39
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興味深いのは、コンディヤックにとって、この対称性が「体をもった物理的な存在としてのわたしの発見」という形で経験されていることです。私が、単なる精神ではなく、固有の空間を占める物体として世界に存在していること。 「手の倫理」 伊藤亜紗

2021-06-20 11:51:21
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このことは、裏を返せば、私が体として存在していることは、「発見」されなければならないほど、ときに曖昧になりうるものなのだ、ということを示しています。触覚は、そのような曖昧さの中にある私に、明確な輪郭を与えてくれます。触覚は、「魂を自己の外へと脱出させる感覚なのです。 「手の倫理」

2021-06-20 11:51:21
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一般的に、人の体にふれることは、しばしば「安心」「リラックス」といった感情と結びつけられます。「ふれあい」などという言葉がもつイメージも、まさにそのようなものです。もちろん、習慣的にふれている相手であれば、それは「安心」や「リラックス」を生むでしょう。 「手の倫理」 伊藤亜紗

2021-06-20 13:11:14
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けれども、そうでない場合、つまり「まなざし」を通して知ってはいても触覚的な関わりのなかった相手にふれる場合には、しばしば「出会い直し」のようなショックを経験することになります。「手の表面の奥」に感じたその人が、思っていたイメージを裏切るという「不意打ちや「意外性」。 「手の倫理」

2021-06-20 13:11:14
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特に、熊谷のように表面上の体の動きが健常者に比べて少ない人と接触する場合には、その驚きはいっそう大きくなるでしょう。ふれあいが常に「安心」や「リラックス」でないことは、倫理を考える上では非常に大切です。 「手の倫理」 伊藤亜紗

2021-06-20 13:11:15
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たとえば第3章で登場していただいた西島玲那さんは、19歳で目が見えなくなってから、「毎日がはとバスツアーになった」と言います。「右にコンビニがあります」「左に郵便局があります」と、介助者が言葉でいろいろ教えてくれる。 「手の倫理」 伊藤亜紗

2021-07-25 00:19:38
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それはとても楽なのだけれど、「言われたとおりのお客さん」になっていくようで居心地が悪く、かといって相手が善意でやってくれていることは分かっていたので断ることもできない。いろいろな人のガイドを「受け入れる」という感じで、自我が崩壊するようだった、と言います。 「手の倫理」 伊藤亜紗

2021-07-25 00:19:38
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自分は正解を知っていると思っている人ほど、つまりトレイナーとしての自信がある人ほど、もしかすると伝達モードに落ち入りやすいのかもしれません。倫理には、道徳と違って、いつでもどこでも通用する「一般」はありません。この意味で、倫理は常に生成的です。 「手の倫理」 伊藤亜紗

2021-07-25 00:29:49
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「こうあるべきだ」という一般則としての道徳の価値を知りつつも、具体的な状況というライブ感の中で行動指針を生み出し続けること。手の倫理は、接触を通して相手の体を生きさせることと密接な関係があります。 「手の倫理」 伊藤亜紗

2021-07-25 00:29:50
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距離を置いたままの接触としての「さわる」。「ふれる」の中に生じるこの距離にこそ、自-他が溶解する「ふれあい」よりも深い他者との関わりがあるのではないか、と鷲田は言います。村瀬の言葉を借りるならば、「尊さと畏怖」こそが可能とするような「ふれる」があるのではないか。 「手の倫理」

2021-07-25 00:45:49
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このように考えていくと、「ふれる」と「さわる」は単純に対立するのではなく、入れ子構造のような関係をなしていることがわかります。 私たちの体はしょせん物質であり、自然であり、時間的に変化していくものです。 「手の倫理」 伊藤亜紗

2021-07-25 00:45:49
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相手との触覚的なコミュニケーションが、その根底に、非人間的な、つまり倫理を超えた自然の次元を含んでいるということ。手の倫理は、この次元に対する「尊さと畏怖」を含んだものでなくてはなりません。 「手の倫理」 伊藤亜紗

2021-07-25 00:45:50
GMBO2008 @GMBO2008

さまざまな種目を翻訳する過程で痛感したのは、私たちが「観戦」と称して視覚から受け取っていた情報が、いかにその種目を実際にやっている選手の実感と違うか、ということでした。 「手の倫理」 伊藤亜紗

2021-07-25 00:54:27
GMBO2008 @GMBO2008

私たちが目で見て「これがその種目のその種目らしさだ」と思っているような質は、必ずしも選手たちが思う「その種目のその種目らしさ」とは一致していないのです。翻訳の作業には毎回その種目のプロの選手やコーチにいらしていただきましたが、話を聞くたびに、そのズレを痛感しました。 「手の倫理」

2021-07-25 00:54:28
GMBO2008 @GMBO2008

触覚は、状況に対して異質な記憶や衝動を呼び込むことにより、私たちが頭で理解していた「いまは〇〇するときだ」という状況のフレームを、別のフレームへとスライドさせたり、あるいは混同させたりする可能性を孕んでいます。 「手の倫理」 伊藤亜紗

2021-07-25 01:02:37
GMBO2008 @GMBO2008

現実のなかに存在しているという確かさを触覚が与えてくれることもある一方で、別のリアリティへと私たちを導く扉にもなりうる。触覚は誘惑的で、不埒な感覚です。 「手の倫理」 伊藤亜紗

2021-07-25 01:02:38