【ヘタリア】歴洪さん8月20日建国記念日+まとめ

建国記念日のイベントツイートと補足の王冠についてのツイート、前日8月19日に出来なかった汎ヨーロッパ・ピクニックについてのツイートのまとめです。少し長いです。
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歴洪さん @rekihun_bot

"Do sagittis Hungarorum libera nos Domine."邦訳は「ハンガリー人の矢から、主を、我らを救いたまえ!」…これはブルツが遠征してた時にキリスト教徒が祈った時の言葉。それだけ強かったのね。それでもレヒフェルトでオットー1世に負けちゃうんだけど…

2011-08-20 09:00:17
歴洪さん @rekihun_bot

ちなみにブルツを倒した功績もあってオットー1世は戴冠して神聖ローマ皇帝になるのよ。反対にマジャール側はかなりダメージ食らっちゃったから、もう西方への遠征はしなくなったけど。しかもずっと続けてたビサンツ帝国への攻撃も失敗するしさんざんだったのよ!

2011-08-20 10:00:16
歴洪さん @rekihun_bot

ビザンツはドナウ河まで国境広げるし、神聖ローマはポーランドとボヘミアを宗主権下において強大化するし、東はペチェネグ族がいるしで結局マジャールはハンガリー平原に移動するしかなくてね。さらに今までのような征服活動をやめて、諸外国と友好関係を築くように方策転換することを決めたわ。

2011-08-20 11:00:17
歴洪さん @rekihun_bot

方策転換をした、というよりせざるをえなくなったんだけど…その後970年タクショニュは息子のゲーザに地位と政策を受け継がせたわ。自分の民族には冷酷、外来者には寛大だったっていう少し変わり者だったの。だからあんまりマジャールの貴族からはよく思われなかったらしいのよ。

2011-08-20 12:00:17
歴洪さん @rekihun_bot

だから彼の軍隊の中核は国外から集めた家臣軍で成り立ってたのよ。主にロシア騎馬兵だったけど、のちのちはドイツイタリアに頼るようになったらしいわ。国内評判はよくなかったゲーザだけどちゃんとやることはやってたのよ。

2011-08-20 13:00:16
歴洪さん @rekihun_bot

例えば973年にはオットー1世んとこに大使を派遣して同盟締結を提案したこと、それと宣教師を送るようお願いしたこと。キリスト教に改宗すれば治世強化も出来るし、周りにだって「もうこっちは好戦的外交はしない」ってアピールにもなるからね!

2011-08-20 14:00:16
歴洪さん @rekihun_bot

宣教師が来てゲーザ一家は洗礼を受けたんだけど、マジャール古来の民俗信仰を禁じてはなかったから、あんまりキリスト教は広まらなかったの。このことなどであくまでゲーザは新国家形成の基盤づくりをしたに過ぎないって言われてるわ。

2011-08-20 15:00:17
歴洪さん @rekihun_bot

そのあとさらに東のマジャール部族を服従させるために、トランシルヴァニアにいた「ジュラ」家から妻を娶って、その娘を「ジュラ」とは主従関係にない上ティサ河地域の部族長に嫁がせもしたわ。息子のヴァイク…のちのイシュトヴァーンにはバイエルン公ギゼラを妻に迎えさせてね。

2011-08-20 16:00:16
歴洪さん @rekihun_bot

イシュトヴァーンはハンガリーに滞在してたプラハ大司教のアダルベルトとその弟子によって教育されたわ。これもゲーザの政策の一環だったんだけど、部族長たちはこれに不満気でバラトン湖南部にあるアールパード家所領で相続権を持つ最年長、ゲーザの大伯父にあたるコパーニュの王位継承を支持したの。

2011-08-20 17:00:22
歴洪さん @rekihun_bot

イシュトヴァーンはその親戚たちを討つためにプロイセン…ドイツ騎士団を差し向けたわ。これでコパーニュは戦死、遺体は四つに裂いたわ。三つはイシュトヴァーンの支配に抵抗する人たちへの見せしめに西部の門に釘付けに、残る一つは叔父であるトランシルヴァニアの「ジュラ」に送ったらしいわ。

2011-08-20 18:00:16
歴洪さん @rekihun_bot

こうやってイシュトヴァーンは武力で持って権力を固めて王冠の承認を要求したわ。諸説あるんだけど、ちょうど1000年のクリスマスの日に神聖ローマ帝国皇帝オットー三世の同意を得て、ローマ教皇から送られた王冠でハンガリー王の戴冠式をあげたのが始まりね。

2011-08-20 19:00:17
歴洪さん @rekihun_bot

ちなみにどうして今日、8月20日が建国記念日なのかというと、この初代国王イシュトヴァーン1世の聖名祝日だから。聖名祝日っていうのは簡単に言うとキリスト教における聖人の記憶日ね。イシュトヴァーン1世は1083年の今日聖人として列聖されたから、今日が聖名祝日というわけよ。

2011-08-20 20:00:21
歴洪さん @rekihun_bot

∫*リ^ワ^)リこれがハンガリー建国までの話ね。ちょっと難しかったり惨かったりしたと思うけど…ここまで聞いてくれてありがとう!しばらくしたら中の人が質問に答えたり私が補足話したりする予定だから何かあれば質問してくださいね。

2011-08-20 21:00:16
歴洪さん @rekihun_bot

∫*リ゚ー゚)リ…いかがでしたでしょうか。遅くなりましたがこれから補足に戴冠式に使われた王冠の話を少ししますね。

2011-08-20 22:58:45
歴洪さん @rekihun_bot

∫*リ゚ー゚)リええと、いま現存しているイシュトヴァーンの王冠、実は製作地も制作年代もまったく違う独立したふたつの王冠が接合されたものなんです。

2011-08-20 23:01:33
歴洪さん @rekihun_bot

∫*リ゚ー゚)リ上の部分は覆冠といって、冠のてっぺんの正方形キリスト画像を中心に八面の使徒画像と宝石の嵌められた金の飾り帯が十字に交差しています。こっちを一般的に「ラテン冠(コロナ)」と呼んでいます。

2011-08-20 23:07:16
歴洪さん @rekihun_bot

∫*リ゚ー゚)リ下の部分は輪冠といいます。正面の上の方にキリストの座っている像、後ろの正面の上の方にこれを贈ったといわれているミカエル七世の半身像が置かれています。

2011-08-20 23:09:40
歴洪さん @rekihun_bot

∫*リ゚ー゚)リこちらの飾り帯には、正面の大蛋白石をはさんで二大天使像、二戦聖、二医聖が、ミカエル七世の両側にゲーザ一世の像と皇帝の片腕だったコンスタンティノスの像が配されてます。下の部分のこちらの冠は「ギリシャ(ビザンツ)冠(コロナ)」と呼ばれています。

2011-08-20 23:12:44
歴洪さん @rekihun_bot

∫*リ゚ー゚)リそれぞれの画面にギリシア文字で像名が銘記されてるんですよ。ゲーザ一世は「ゲーザ、(トゥルキア)の忠誠なる王」、ミカエル七世は「ミカエル、キリストの忠誠なるローマ皇帝ドゥガース」です。ちなみにトゥルキアというのは、当時のビザンツ用語でハンガリーのことですよー

2011-08-20 23:19:37
歴洪さん @rekihun_bot

∫*リ゚ー゚)リ伝承によれば、ラテン冠は聖イシュトヴァーンが戴冠するときにローマ教皇シルヴェステル二世から贈与されたものとされているわ。

2011-08-20 23:21:25
歴洪さん @rekihun_bot

∫*リ゚ー゚)リでも最近の研究ではイシュトヴァーンの当初の王冠はかなり早い時期に失われてて、つまり現在のラテン冠はその後まもなく作られた別物なんじゃないかとも言われています。

2011-08-20 23:22:18
歴洪さん @rekihun_bot

∫*リ゚ー゚)リラテン冠のほうの製作地、製作年代は諸説ありすぎてちょっと…わからないと言ったほうがいいですね…

2011-08-20 23:23:43
歴洪さん @rekihun_bot

∫*リ゚ー゚)リギリシャ冠のほうはほぼ伝承どおり、11世紀のビザンティウムの作品だと言われています。

2011-08-20 23:25:23
歴洪さん @rekihun_bot

∫*リ゚ー゚)リこのふたつの王冠がいつ、なんで今の形に接合されたのかにも諸説があるんですけど、ゲーザ一世が王位に就く1074年からビザンツ史料にハンガリー王権の象徴としてこの王冠が挙げられている1166年くらいまでの約100年間の間に接合されたんじゃないかって考えられてます。

2011-08-20 23:29:58
歴洪さん @rekihun_bot

∫*リ゚ー゚)リ王冠の話はこんなところでしょうか…

2011-08-20 23:30:37