吉野山・橿原神宮へのショートトリップについて

昨日、吉野山と橿原神宮へと行ってきました。それを振り返ってのつぶやきです。 【関連】日本的なるものについての考察~歴史の立体的認識と司馬遼太郎 http://togetter.com/li/176283
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長野テル @naganoteru

昨日の吉野→橿原のショートトリップについて頭の整理します。

2011-08-21 14:17:19
長野テル @naganoteru

吉野は、奈良、京都のほかの観光地とは決定的に違っていた。世界遺産指定されているにもかかわらず寂れ方がすごく、それは吉野山のみならず市街地の荒れ方にも現れていた。同じく山中にある総本山である高野山とはまったく異なる趣きだった。

2011-08-21 14:22:43
長野テル @naganoteru

その理由は、もともと修験道の聖地として栄えていた吉野は、明治政府による神仏分離とそれに次ぐ修験道廃止によって、山伏ともども全滅させられたから。昭和に入って復興するも、断絶した影響は大きく、かつてのように日本中を山伏が闊歩する世界はもはや考えららえない。

2011-08-21 14:25:28
長野テル @naganoteru

同じく世界遺産「紀伊山地の霊場」に指定されている高野山は、真言宗の総本山としていまだに盤石の経済的基盤を持っているがゆえに、市街地には霊場としての神聖さを汚すものはまったくないし、寺々も手入れが行き届いていて美しい。対する吉野は、経済的基盤を絶たれたことによって遺跡化している。

2011-08-21 14:28:20
長野テル @naganoteru

なんとかその威容を保っているのは、金峯山寺くらいのもの。それ以外の寺はほぼ全滅し、今はただの民家になっている。馬の背のような狭い吉野山にお土産店や食事店が並んでいるのは、廃寺の後、彼らが生計を立てるためにやっているからではないかと思う。文化は、連続性を失うと遺跡になるということ。

2011-08-21 14:32:03
長野テル @naganoteru

吉野山の土地は狭い。山頂の尾根沿いに通りがあり、拓けているのはその通り沿いだけ。ここに南朝があったと言われると、それが永続するものとしてあったのではなく、一時的に避難していたものであることがよく分かる。

2011-08-21 14:34:34
長野テル @naganoteru

実際、南朝の宮廷は「行宮(あんくう)」と呼ばれ、その意味するところは仮の宮。南朝の4人の天皇はみな京を偲ぶ歌を詠んだ。後醍醐天皇が築いた宮の跡は土地も狭く、そこが仮の宮であったことをしのばせる。北朝に吉野を奪われたため、南朝の後村上天皇は、河内長野の金剛寺に行宮を移した。

2011-08-21 14:47:19
長野テル @naganoteru

吉野が明治政府によって滅ぼされた霊場だとすれば、橿原神宮は明治政府によって立てられた大神宮である。広大な敷地は森と石で掃き清められた空間で占められ、神宮に入ると直前までの市街地とはうってかわって静寂が訪れる。深田池と畝傍山、神宮の森をあわせた景観は秀逸。

2011-08-21 14:53:37
長野テル @naganoteru

ここは、初代神武天皇が執政した橿原宮があったとされる土地。すぐ脇には神武天皇稜がある。奈良盆地の平原に唐突に立つ畝傍山をかつてヤマト人たちは神聖なものだと考えたのだろうと思う。奈良は田園風景と盆地を囲む山々だけでなく、盆地の中にある小さな山がなんとも美しい土地だと思う。

2011-08-21 14:57:13
長野テル @naganoteru

てな感じで、明治政府によって没落させられた吉野山と、同じ明治政府によって再興された橿原神宮をめぐってきました。そのふたつがわずかの距離の間にあるんだよなあ。因果なもんだわ。奈良は、探検する気になったらまだまだいろいろありそうです。

2011-08-21 14:59:49