南泰山先生と歴史談義(8)〜南先生が選ぶベストスレッド〜満州事変
- koichi_kawakami
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@koichi_kawakami なお、自分で書いた連作ツイートの中では、以下のツリーが一番気にいってます。ただ、最初から最後まで人文系の学者しか登場しないので、生物学や医学の方々にとっては、あまり面白く感じないかもしれません(苦笑) mobile.twitter.com/Pekinno_okayu/…
2021-10-11 14:10:37近代東アジア史の研究書や当時の報道をめくっていると、満州事変は日本と中国両国にとっての「地獄への門」だったと思う。あの瞬間、両国はひきかえせない空域に突入してしまった。未来の日中正面激突を、あの事変が決定してしまったと思う。→続 pic.twitter.com/c6mXK1EUS7
2021-09-09 11:46:19近代東アジア史の研究書や当時の報道をめくっていると、満州事変は日本と中国両国にとっての「地獄への門」だったと思う。あの瞬間、両国はひきかえせない空域に突入してしまった。未来の日中正面激突を、あの事変が決定してしまったと思う。→続 pic.twitter.com/c6mXK1EUS7
2021-09-09 11:46:19→“自衛戦争だった”とか“侵略だった”とか、色々定義をめぐって議論をあるのは知っているし、それをいちいち評論するつもりもない。正直、あそこまで複雑化した研究内容について、英語と中国語しか読めない僕には、個別の論文を論評する能力がない。→続 pic.twitter.com/0A0JrBLvI5
2021-09-09 11:48:34→ただ、史料をめくっているだけの人間にとって、当時の民間、特に両国大学の「日華友好主義」者たちの満州事変の前後の消息を伝える文章を読んでいると、涙が出てくる。ここまで報われない学者たちって、いないんじゃなかろうか。(写真は戦前の北京大学)→続 pic.twitter.com/vTRtypZZUq
2021-09-09 11:52:05→知っている人は多いと思うが、あの当時、中国(中華民国)のインテリの半分以上は日本留学経験者、知日派だった。政治家も軍人もそうで、中華民国総統の蒋介石も留学経験者で(写真右、和服姿)、大好物は親子丼だったという。→続 pic.twitter.com/iPxEA7pEDH
2021-09-09 11:54:44→大学の中も同じで、いくら革命派の運動家たちがアジっても、東京や京都で青春を過ごした、あるいは必死に日本語を勉強をして研究を進めていた中国人教授たちは、反日運動にはある程度距離を置いていた。(写真は魯迅の弟、知日派代表の周作人。北京大学教授。)→ pic.twitter.com/NKVHubXqT3
2021-09-09 11:58:05→当時の日本の研究者たちも同じで、小さい頃から学んだ『史記』『唐詩選』等の母国の文明と戦争など、考えるのも嫌だったらしい。特に、北京や上海に留学した研究者たちはそうだった。だからあの飛行機のない時代、先生方は一生懸命に北京に出張して国際学会を開いたりして友好関係推進に努めた。→ pic.twitter.com/fmKohEJEsB
2021-09-09 12:01:17→もう消え去った研究所だが、北京のド真ん中、王府井通りに1920年代末、日本により「北京人文科学研究所」いう機関が創設された。日本も中国も同じ漢字を学ぶ国家、だから日中両国の研究者が仲良く一緒の研究所で、古典や歴史を同僚として研究しましょう… という夢のプロジェクトだった。→続 pic.twitter.com/iVNie9mH56
2021-09-09 12:06:19→所長と図書館主任には、それぞれ当時の日本の漢学を代表する若手研究者、橋川時雄と杉村勇造が就任。両先生は、中国を第二の祖国と思う親中派で、漢文の知識は中国人研究者が驚くほどの高レベル。彼らは一生懸命、北京人文研の運営にかけずりまわった。(写真は戦後撮られた旧北京人文研)→続 pic.twitter.com/eI96kW29nS
2021-09-09 12:12:47→すでに五四運動が起った後だったから革命派の運動員が中国中のキャンパスに侵入。そのため、日本側の呼びかけに対して、中国側の教授たちも動きがとりにくい時代だった。しかし学問に対する情熱は中国側も同じだから、徐々に前向きに動き出した。(写真は中国側協力者、北京図書館館長徐鴻宝)→続 pic.twitter.com/SnMz1UNQua
2021-09-09 12:17:46→この時期は、北京大学には何人も日本人留学生がいた。中国人の老師たちは懐が深いから、反日運動をさけぶ学生運動家がキャンパスにいることを承知しながら、喜んで日本人留学生を研究室に、家に招き入れて歓迎した。(写真は当時の北京市内)→続 pic.twitter.com/kmQ4IgAyzp
2021-09-09 12:20:47→もしもあのまま、なんとかギリギリの線で日中関係が持ちこたえていれば、北京人文科学研究所は発展し、日中の研究員がともに中国語・日本語をごちゃまぜで使いながら、楽しく新しいアジア学の創造したに違いない。写真は1920年代末、大連郊外の遺跡を日中合同調査隊が仲良く掘っている様子。→続 pic.twitter.com/snqhPH9hC1
2021-09-09 12:24:02→その可能性を、満州事変は全て吹き飛ばした。北京人文科学研究所は、中国側の委員が全員辞任。夢の城は事実上、消えてしまった。それどころではない。日中合同で組織していた幾つかの学会は全て消滅。誕生したであろう様々な書物は、計画だけ残して消えてしまった。→続 pic.twitter.com/HqClA1mxBr
2021-09-09 12:26:15→それどころではない。「日本は侵略者ではない!友邦だ!」と必死に革命派の学生たちを説得していた親日派教授たちを、一瞬にして「漢奸」にしてしまった。以後、中国国内の知識人のほとんどすべてが「抗日」の立場に回ってしまった。→続 pic.twitter.com/S4eZxiJAVN
2021-09-09 12:30:37→中国は「文字」の文明である。古代より、文章を書く知識人を「読書人」と呼び、何よりも尊重する文明の国である。その読書人たちを全て「抗日」の立場に追いやってしまったのが満州事変だった。 北京人文科学研究所は、図書館だけがあるただのオフィスになってしまった。→続
2021-09-09 12:32:39→しかし、太平洋戦争中も北京在住の中国人研究者たちは、個人として橋川所長への友誼は守り、原稿料を謝絶した上で約束した論文の執筆をつづけたという。 気の毒なのは、満州事変直前の時点まで、日本側に協力して学術交流につくした中国人の研究者たちだ。→続
2021-09-09 12:33:48→1960年代、文化大革命時に「漢奸」と追及されて殺された、或は自殺に追い込まれた方が多数いる。 満洲事変は、東アジア全体の文明の進歩をさまたげ、多数の優秀な研究者を破滅に導く遠因になった。そして、両国ともに政治的な才能しかない、三流の教授たちが跋扈する原因も造り上げたのである。→続 pic.twitter.com/4mCUIdwd8c
2021-09-09 12:37:35→そんなわけで、「満州事変は自衛戦争だった」という主張を読むと、私はいつもしかめっ面をするしかない。満州事変で失った両国の可能性は巨大だった。十年先の損得しか計算できない軍事官僚に国家の命運を託した代償は余りにも大きかった。(写真は石原莞爾)→続 pic.twitter.com/LGWxabjIhv
2021-09-09 12:42:19→安彦良和さんの名作『虹色のトロツキー』に、大連機関の安江仙弘大佐が “(満州事変を計画した)石原(莞爾)は、今頃(事変を起こしたことを)後悔しているのではないかな…” と呟くシーンがある。これは漫画ならではの創作だろうが、これは事変後の石原の心境を言い当てている気がする。(完) pic.twitter.com/whmcxlLQpY
2021-09-09 12:45:59@Pekinno_okayu @koichi_kawakami 拝読しました。知らなかった歴史。二千年近く倣ってきた中華文化を何故日本はあそこまで残虐に叩き落とそうとしたのか、不思議に思っていました。
2021-09-09 22:28:25@Pekinno_okayu 連ツイ拝読。日本語と中国語をごちゃ混ぜで使う研究者たち。夢のようです。 なくしてしまったのが残念でなりません。
2021-09-09 22:57:05@agDO58DCaymYppw 気分転換に、論文では書けない事をツイートしてみました。私たちは、無数の「消え去った可能性」の上に生きているんだとシミジミしながら書きました。
2021-09-09 23:23:51@TakakoKurosawa @koichi_kawakami 目を通して下さり、ありがとうございます。 残虐に叩き落とそうとした日本人もいましたが、必死に中国の為に闘った日本人研究者や軍人もいたのも確かなんです。中国側も全く同じ。報われなかった人々に光を当てるのも、ささやかながら歴史家の務めかと考えています。
2021-09-09 23:28:52@mieno 北京人文研が歴史の嵐の中で沈んだのは、つくづく残念です。ただ、当時ここを根城に奮鬪した日中の関係者が戦後も連絡を取りあい、それが間接的に、1972年の日中国交回復に繋がるというドラマが待っていました。彼らの晩年の貴重な置土産なんです(涙)。 pic.twitter.com/8jktGiK7fw
2021-09-09 23:37:06→補遺 --北京人文研関係者のその後-- 私の知る限り、北京人文研の日中首脳部が一緒に写った映像というのは、寂しいことに一枚しかない。昭和3年の北京、「東方文化事業部」という北京人文研の準備機構の中庭で撮影されたものである。三人とも実に明るい顔をして写っている。→続
2021-09-11 18:37:02