「絶対的な善はある」とキリスト教が主張する理由

何が善で何が悪なのか、立場、時代、文化で変わるはずでしょ?そう。じゃあ、なんでキリスト教はそれでも絶対的な善があるなんて主張するの?善悪の基準を決める権威についての話。
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Hokuto Ide @Hokuto_Ide

善悪とは、真理とは何か? イエス・キリストは自身を真理と呼び、聖書は彼を「すべての人を照らすそのまことの光」と呼んだ。ここで言うまことの光とは、真理を可視光に例えた表現だ。近づき見れば善悪の区別のつかない状態である闇が消え善悪の峻別が可能になる存在、これがキリスト教の示す真理だ。

2021-10-18 23:09:35
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

白を善に、黒を悪に例えよう。可視光のない閉ざされた部屋では白も黒も区別できない。黒を白と呼び、白を黒と呼んでも検証できない。偽善に隠蔽された悪はまかり通り、泣き寝入りと冤罪に善は苦しむ。光が灯ると悪が暴露され晒され、善は名誉を回復する。イエス・キリストはそんな光として世界に来た。

2021-10-18 23:09:35
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

無神論者の高校生だったころ、自分はキリスト教への無知と誤解のため、目が見えていても真理の光が見えない状況にいた。しかし、完全な善に憧れ、善い人になりたいと願い、暗中模索を繰り返し、どれだけ自分の中に善を探しても、見つかるのは大量の悪といくつかの偽善だった。自分の中の悪に絶望した。

2021-10-18 23:09:36
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

今思えば無謀だが、絶対的な善である神を認めるためには、必要な蛮勇だったと思う。病気を自覚する者だけが医者を求めるように、悪を自覚した自分は善への飢え乾きを覚えていた。自分の中で善悪は混沌とし真理が見えない苦しみの中、聖書に出会い、その中で描写される光、イエス・キリストに出会った。

2021-10-18 23:09:36
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

イエス・キリストは「心の清い人々は幸いである、 その人たちは神を見る」と教えた。イエスの心は清い。その清い心から善い行いは出てくる。神の子イエスの生き様を肯定的に受け入れる姿勢、つまり清い心で観る人は、彼を通して目に見えない天の父なる神を観ることができるという。自分も見たかった。

2021-10-18 23:09:37
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

真理とは善悪を峻別する権威のありかでもある。その権威は世間であったり、自分の知識や感情であったり、科学であったりするだろう。イエス・キリストを通して神に出会う前は自分も自分なりに善悪を決めていた。いや、神に本来属する善悪の決定権を神から奪って悪びれもせずのうのうと開き直っていた。

2021-10-18 23:09:37
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

聖書は神が人を愛し、人と人が互いに愛し合うために世界と人を創ったと記録している。だが、愛は自由意志を前提にしている。人に誰かを無理やり愛させることはできないし、それは本当の愛ではない。その自由は善と愛の代わりに、悪と無関心、憎しみを選ぶ自由でもある。神は人の善を信じ自由を託した。

2021-10-18 23:09:38
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

世界と人を創った当初、人と愛の関係を結んだ神はこれをみて「非常に良かった」と言ったと聖書は記録する。善しかない理想の世界だった。では、なぜ人には悪が生じたのか?神が善悪の基準であることを疑わせ、神が善悪の決定権を人から不当に奪っているように誤解させ、憎しみを植え付けた存在がいた。

2021-10-18 23:09:39
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

「善悪の知識の木の実」として描写されているもの。それを食べれば死ぬとされているもの。それが善悪を決定する権威のありかだ。人は到底自分のものにはならないはずのその権威を、神から取り返したつもりになり、神を心から追い出し、神無き世界観へと自分を追い出した。自分も神の失せた世界にいた。

2021-10-18 23:09:39
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

イエスに出会う前、自分はある意味死んでいた。生きてはいても、死んだように生きていた。生きても希望が無かった。生きることに意味を見いだせなかった。善悪が混沌とし、不明瞭で、正しく生きる道がどこにあるか分かっていなかった。しかも、その状態が死だと自分で明瞭に認識できてすらいなかった。

2021-10-18 23:09:40
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

自分の中に善がないことを自覚し、神が全ての善の根源であることと、その善がどういうものであるかを教えと、生き様と、十字架での死に様、そして復活で示した方こそ、神の子救い主イエス・キリストであることを受け入れた時、ようやく自分の人生に光が差した。何かが見え始めそれが真理だと分かった。

2021-10-18 23:09:40
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

イエス・キリストの教えや生き方、最終的には死に様、復活も、最初は聞くだけ、読むだけだった。それは自分などにできるわけのない無理難題で超人的な姿だった。それほど自分のものとして受け入れるには抵抗感があった。できなくても当たり前だと開き直りたかった。それが真理だとは認めたくなかった。

2021-10-18 23:09:41
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

イエス・キリストが真理だと認めると自分はどうなる?悪いことは悪いだろうが、それほど悪くないと思っていたところまで全部悪いことが明らかになってしまう。それほど、イエスは清く、眩しく輝く光で、善が何で悪が何かの基準を示し、自分の中の悪を全部照らし、明らかにし、恥ずかしくも露呈させた。

2021-10-18 23:09:42
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

聖書は「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ない」と記す。光は真理であるイエス・キリストだ。自分も自分の悪が明るみに出されるのを恐れた。しかし恐れよりも、愛が勝った。ちっぽけなプライドは、イエスの十字架での犠牲の死と復活で示された愛に負けた。

2021-10-18 23:09:42
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」これがキリスト教の示す愛の真理だ。神は愛であり、神の子の命を、人に差し出し、神の子イエス・キリストもその命を人のために捨て、人の悪の代償として罰を受け復活された。

2021-10-18 23:09:43
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

人は神に与えられた愛のための自由を濫用し、善悪の決定権を神から奪い、やりたい放題に悪を行った。悪を行っているのに、善悪の判別がつかないのをいいことに、悪を善だと言いくるめ、暗闇の中で黒を白だと言い張った。人に神が出した答えは、人に見える光、人として来た神、イエス・キリストだった。

2021-10-18 23:09:43
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

世界の外側で世界を創り、時間も空間も超えた全知全能の存在である神が、創られた側の世界の住人にすぎず、時間と空間の制約の中でしか存在できない人の能力で見えるわけがない。人に神は見えない。しかし、神が人に自身を見せるなら、見える。神はイエス・キリストとして、人として自身を人に示した。

2021-10-18 23:09:44
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

キリスト教の言う善悪が知りたければイエス・キリストのように生きてみようと一度やってみればいい。イエス・キリストの生き様に近づいて見ようとすればいい。できるできないに関係なく、そうやって光に近づくことができる。自分の善も悪も明瞭に見えてくる。その後イエスから去るのも従うのも自由だ。

2021-10-18 23:09:44
Hokuto Ide @Hokuto_Ide

自分はイエス・キリストに従って歩んで行くことを真理として選択した。イエスの真似をしようとしてみて、できずに、挫折し、転び、のたうち回り、苦しむ。しかし、それでもついていきたい。それでもイエスは正しいと思うから。イエスの十字架と復活を通して、神に愛されていることを受け入れたからだ。

2021-10-18 23:09:45

これを書いた人:キリスト教、プロテスタント、福音派の信者で、キリスト教のニュースサイト、クリスチャントゥデイの編集長。

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