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『プリンセスチュチュ』泉信行( @izumino )さんの考察【ネタばれ】 #ptutu ☆
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プリンセスチュチュ、残すところ最終話のみ。メタ的なファンタジーとしてものすごくいい。ジュエルペット てぃんくる☆を理解する参考にもなりそう
2011-08-27 04:32:24![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
まさかのカップリングでしたねー。 RT @izumino: 見終わった……。寝たほうがいいので感想書こうか迷う。最終二話は泣いた
2011-08-27 04:59:45![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
チュチュの感想ではなく、ファンタジー論になってしまうけど、ファンタジーの物語空間は、心の鏡であり、よく出来たファンタジーであるほど人の心を侵食する。その「ファンタジーは人の心を侵食する」という側面をメタ的に巧く表現できているのがチュチュだと思う
2011-08-27 05:01:47![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
てぃんくる☆の場合、どちらかというとジュエルランドの物語は「内面世界そのもの」を表していて、それは私たちの現実の鏡として現れる(だから登場人物は私たちの心の副機能を表していたり、現実の知り合いにモデルのいる人物だったりするだろう)。チュチュの場合は、むしろ
2011-08-27 05:05:38![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
「物語を読む(創る)」ことで、物語のキャラクターが私たちの内面世界と融合するようすを描いてるように感じる。もっとも、てぃんくる☆の場合もそういうメタ描写を省いているだけで、ファンタジーとしては「主人公の心の中の空想(作話)」が物語となっている、と言えるのは同じ。
2011-08-27 05:08:53![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
チュチュにおいて「心の中の物語」と「物語を心の中に持つ私」の区別がはっきりするのが終盤、絶望の湖で「物語を終わらせよう」と決意するシーンで、「物語をハッピーエンドにしなければ空想にとらわれたままで、現実に帰還できない」というファンタジーの大前提に従おうとしていることがわかる
2011-08-27 05:13:01![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
配役をちょっと簡単に当てはめると、あひるとふぁきあが「人間」であり、同時に「物語における人間に最も近いキャラクター」である。感情移入しやすくて、読者が望んでいる展開を、読者が感じるのと同じように願ったり、懸命に行おうとしたりする脇役。
2011-08-27 05:18:19![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
物語の中には、心の中を希望を表すヒーロー(みゅうと)と、心の弱い部分を表す悪役(大鴉)、その間で揺れ動くヒロイン(るう)が存在していて、象徴化された人の心であるこれらを、救わなければならない、と本能的に感じてしまうのが「人間」で、しかし
2011-08-27 05:22:21![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
そう願う本能の想いと、「物語を空想する機能(ドロッセルマイヤー)」は乖離して切り離されている、というのが自己言及的なファンタジーとてしも面白い。なぜなら、人間はいろんな物語を読んだり聞いたりしているうちに「こういうお話はこうなるもの」という想像力を植えつけられるわけで、
2011-08-27 05:25:19![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
そもそも他人の書いた物語を読むときに思い通りにコントロールできないのは勿論のこと、内面的な葛藤を自分自身で物語化しようとしたときも、コントロールできないのは当然だと思う。そして、そんな状態を、俗に「空想に落ち込む」と呼ぶわけで、人間はこの「空想に落ち込む」状態から抜ける必要がある
2011-08-27 05:28:12![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
ヒーローとヒロインを愛して我が身を省みないあひるは献身的に映るし、そういう自己犠牲(いわゆる「身を引く恋」のような)の物語として読んでもいいのだけど……、最終的に「物語のヒーローとヒロイン同士が結ばれることを一番に願う」という読者はものすごく自然なことだし、
2011-08-27 05:31:38![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
物語のキャラクターを好きになるということは本来そういうものだよな、と感慨深く考えさせられた。その描写はちょっと逆転していて、「ただのアヒルに戻ろう」と言って動物に変化(へんげ)することが、象徴的には「空想の人格から現実の生活に戻る」ことを示唆しているのがイメージを豊かにしている
2011-08-27 05:37:21![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
そしてそうやって「なかなかケリのつかない内面世界にケリをつけること」が何よりも現実に立ち向かう力となるし、そして、その「ケリをつける力」というのはどこから湧くのかというと、「誠実な物語の書き手と出会えること」と、「自分の内面世界に対する私の無償の愛」なんだ、という見立てができて、
2011-08-27 05:42:56![](https://tgfile.tg-static.com/static/web/img/placeholder.gif)
その「自分の内面世界への無償の愛」を持つあひるの心というのは、てぃんくる☆のあかりちゃんの優しさと同じものだと思う。てぃんくる☆との違いは、「無償の愛」をまず表現するのはジュエルペットのルビーなのに対して(そのルビーに愛されることであかりも優しさを解放することができる)、
2011-08-27 05:46:54