真田語りをしてみました。 ①

真田家のこれまでをご紹介してみました。
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真田左衛門佐信繁 @s_n1567

後年、先方衆ではありながら武田家中では、大変重用して頂けたご様子。そうして信を預けてくださる信玄公に、幸隆公も心酔しお仕えされました。信玄公が御出家し、晴信様から信玄へとなられたと同時期に、幸隆公も御出家され、『一徳斎』と名を改められたと言う逸話が残っています。 #真田語り

2011-09-02 22:45:18
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

やがて信玄公が身罷られて一年の後、1574年5月、祖父幸隆殿永眠。病床に…と、信玄公の御嫡子・勝頼公は医師を派遣くださったりとご配慮いただけたとか…。見舞い状もお送りくださったそうです。現存する資料の中にも、祖父幸隆を思ってくださったであろうお心遣いが伝わります。 #真田語り

2011-09-02 22:49:24
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

武田家への忠義はやがて、幸隆公から次世代の真田家の面々へと引き継がれて参ります。今夜の語りはこれまでにし、次回は真田家二代目当主となられた、我が父・真田昌幸殿について語らせて頂こうかと… #真田語り

2011-09-02 22:53:21
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

その智謀、鮮やかな戦略、後世色々と評のある父ですが、人として大変尊敬し、父子としても、お慕いしております。父上も色々と武勇や逸話をお持ちの御仁。てんしょんが上がりますね(*´ ∇`)  #真田語り

2011-09-02 22:54:35
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

長々と失礼しました。ご清聴かたじけのうございます。 #真田語り

2011-09-02 23:01:33
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

昨日は祖父・幸隆公の事をかいつまんでお話ししました。今日は我が父・真田安房守昌幸殿の事を少々…。苦手な方は回避策をお取りください #真田語り

2011-09-03 14:47:42
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

我が父・真田昌幸殿は、祖父幸隆公の三男としてご誕生。幸隆公が武田家に臣従し、ご奉公されていた中、7歳の頃に武田家へと弟君・源次郎信尹殿と共に、人質として入られました。やがて奥近習の一人として抜擢されます。近習には武芸や才智ある者が選抜され、主君の警護などを務めます。#真田語り

2011-09-03 14:54:54
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

『甲陽軍鑑』によれば、父・昌幸、曽根昌世殿、金丸昌続殿、三枝昌貞・信十郎殿、曽根与市之助殿の六名がその任を務めました。常々信玄公よりどのような事に注意して人物を見るか、と言う事を言い含められ、牢人を新規に召し抱える際の面接や人物評価等も行っていたとか。 #真田語り

2011-09-03 14:56:39
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

戦時においては『使番』という信玄公の御命令を各部隊長に伝令したり、戦況状況の報告等の任務が。そして、平時においては『奉者』として、甲斐国の政務窓口や信玄公への取次などを行う、現代で言う所の政府の行政官僚…のようなものでしょうか。 #真田語り

2011-09-03 15:03:51
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

奥近習として、幾つもの信玄公と父・昌幸殿の逸話を見る事ができます。敵討ちを果たした者への褒賞の配分について、信玄公主催の歌会での事、戦での活躍の事など…。常に信玄公のお傍近くにあった為、その政治手腕、戦の采配を拝しご指導頂き、充実した日々だったのではないかと思います #真田語り

2011-09-03 15:08:01
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

武将としての成長していった父・昌幸殿に転機が訪れます。それが、初陣となった大四次川中島の戦。その時、父は信玄公の本陣の守備に就いておられたそうですが、この戦はかなりの激戦でした。やがて、その戦の後、信玄公の御生母の御実家である武藤氏の養子となります。 #真田語り

2011-09-03 15:13:43
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

名を武藤喜兵衛尉昌幸と改めます。信玄公の周囲を固める譜代の御家臣衆は、ほとんどが甲斐国出身の方々。弟君の信尹殿もまた、武田一族の加津野氏へと養子に入ります。主家筋に養子に入り、後に武田氏の奉行人衆へとご出世されるのですが、これは当時では異例の事だったと言えます。 #真田語り

2011-09-03 15:15:58
@munesige_1603

正座で拝聴なう→ RT @s_n1567 : 昨日は祖父・幸隆公の事をかいつまんでお話ししました。今日は我が父・真田安房守昌幸殿の事を少々…。苦手な方は回避策をお取りください #真田語り

2011-09-03 15:18:46
浅井万福丸 @azaimanpukumaru

同じく! RT @munesige_1603: 正座で拝聴なう→ RT @s_n1567 : 昨日は祖父・幸隆公の事をかいつまんでお話ししました。今日は我が父・真田安房守昌幸殿の事を少々…。苦手な方は回避策をお取りください  #真田語り

2011-09-03 15:20:00
くろ@シシャモを食べる前に手を洗う猫 @sengoku_neko

同じくにゃー(ΦωΦ)ノ RT @munesige_1603: 正座で拝聴なう→ RT @s_n1567 : 昨日は祖父・幸隆公の事をかいつまんでお話ししました。今日は我が父・真田安房守昌幸殿の事を少々…。苦手な方は回避策をお取りください #真田語り

2011-09-03 15:21:09
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

この頃、父・昌幸殿ご結婚。後に山手殿と呼ばれる方で、私や信之兄上の母になられる方ですね。公家・菊亭晴季殿の御息女、宇多頼忠殿の御息女、菊亭晴季殿の親戚・正親町の娘、その縁者を信玄公の養女とし、昌幸殿と結婚させたのでは…という説。この山手殿という女性については諸説様々 #真田語り

2011-09-03 15:21:10
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

実に、謎めいた女性ですね…(母ですが)。母は「京之御前様」と呼ばれており、京出身の方です。父・昌幸殿御年20歳の春の出来事です。その翌年に兄・信之が誕生。その翌年に、私が生まれたのでございます。 #真田語り

2011-09-03 15:25:42
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

ちなみに、父昌幸殿には九人の子…つまりは私の兄弟姉妹ですが、兄と私以外の兄弟姉妹は母が異なります。その辺の所のお話しを詳しく…とも思いましたが、あまり言うと父上に叱られてしまいますので割愛します(*^▽^*) #真田語り

2011-09-03 15:32:55
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

…話しを戻しましょう。その後も父・昌幸殿の出世は順調に進み、奥近従衆→旗本附足軽大将へ。三増峠の合戦で一番槍、花沢城攻撃の際にはニ番槍の戦功を上げたりと官僚としてだけでなく、武将としても活躍をされました。 #真田語り

2011-09-03 15:35:56
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

武門の誉れ高い真田家に関する戦の華々しい活躍のほとんどは、実はこうした祖父や父の働きが大きいんですよ^^ ――やがて、元亀三年の三方ヶ原の戦いにも参戦。翌年信玄公が陣没されると、その御子勝頼公の側近としてお仕えしました。 #真田語り

2011-09-03 15:40:20
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

天正3年5月。織田徳川連合軍と武田氏の戦い(長篠の戦い)で運命は激変。この戦で大敗を喫した武田家。共に参戦していた真田家当主である、父の長兄信綱公と次兄昌輝公が相次いで戦死なさいます。この為、勝頼公の命で武藤家を出た昌幸殿は、実家の真田家を相続する事になったのです。 #真田語り

2011-09-03 15:42:38
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

更に情勢は動き、武田北条同盟は崩壊。ご当主の交代や情勢の変化から、武田上杉同盟が成立。昨日の味方が今日の敵となった世の中で、真田家も色々と揺れ動きます。その後、北条氏対昌幸殿の『沼田攻略戦』が起きました。関東一円支配を目論む中での上野国戦線。沼田は交通の要地です。 #真田語り

2011-09-03 15:45:08
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

この頃、駿河戦線で徳川方との戦が起こり、武田の戦線は拡大傾向。にも拘らず人材は不足気味という状況の中、必然的に上野戦線の実質的な責任者になっていった昌幸殿。叔父・矢沢頼綱公に沼田城攻撃を命じ、同時に北条方の名胡桃城の内部切り崩しに取り組み、謀略で落城させます。 #真田語り

2011-09-03 15:47:16
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

名胡桃城は利根川を挟んで対岸に沼田城を臨みます。この城へと昌幸殿は移られ、沼田城攻撃の拠点に。翌年、矢沢殿の再度の沼田城攻撃を行い、父は謀略として、祖父幸隆公からの代々の人脈や国人衆との関係等を大いに活用しついに沼田城を攻略する事に成功しました。 #真田語り 

2011-09-03 15:49:59
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

この戦功により、沼田一帯は真田領の管轄となり、本拠地真田郷はもとより吾妻郡の滋野一族はそのまま昌幸殿の配下となった為、小県から関東沼田に至るまでの領国の支配を任されるようになったのです。ここに、祖父幸隆公の夢でもあった、滋野一族による領国の統一が成されたのでした。 #真田語り

2011-09-03 15:51:48