真田語りをしてみました。 ①

真田家のこれまでをご紹介してみました。
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真田左衛門佐信繁 @s_n1567

沼田城は岩櫃城の城代を務めておられた、昌幸殿の縁戚筋にあたる、海野幸光公・金子泰清殿らに在番衆をお命じになられました。在番衆とはいわばお留守居役のようなもので、城主不在の間の一切の取り仕切りを任される事になります。 #真田語り

2011-09-03 15:55:24
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

天正9年1月。勝頼公は城を置かなかった信玄公代々の地、甲斐国に防衛の為、新府城を築城。その工事に、昌幸殿も携わり色々と采配を振るわれました。甲斐と上野国を往復し、忙しく立ち回られていました。この頃の私と兄は未だ幼く、母上と共に甲府の地に人質として留め置かれていました #真田語り

2011-09-03 15:56:44
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

が…。兄さん、事件です! 同年2月。沼田城に留め置いた在番衆の一人、金子泰清殿が旧城主・沼田景義殿の城奪還の挙兵に呼応。この時、父・昌幸殿は謀略をもって金子殿を懐柔。沼田景義殿を謀殺。最小の被害で事を収めます。沼田城に纏わる真田の因縁の始まりです #真田語り 

2011-09-03 15:59:23
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

その後11月に入り、今度は同じく在番衆の一人、海野幸光殿が謀反を起こします。これに対して、昌幸殿は叔父・矢沢頼綱殿と協力し、これもまた謀略を持って海野殿を自刃に追い込み、同族間の内紛に終止符を打ちました。 #真田語り

2011-09-03 16:01:06
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

内部の争いが収まったと思った、翌・天正10年。「天目山の戦い」が勃発。劣勢に立たされた武田家。昌幸殿は主・勝頼殿に岩櫃城に落ち延び、再挙を促しました。一旦はその策を了承した勝頼殿でしたが、結局家臣の小山田殿を頼り、其方へと避難を試みます。 #真田語り

2011-09-03 16:03:33
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

父・昌幸殿は戸石城へ一旦軍勢を連れて入り、織田軍へと備えます。この時、勝頼殿の許可を得て私達兄弟と母上は甲府から離れ、共に戸石城へと戻ってきたのですが、時すでに遅し。結局小山田殿を頼られた勝頼公は裏切りに合い自刃。名門武田一族はついに滅亡しました。 #真田語り

2011-09-03 16:05:44
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

勝頼公自刃の知らせを受け、父・昌幸殿は「自分が傍にいれば勝頼殿を死なせなかったのに!」と涙を流して悔やんだ、と『古今沼田記』に記されています。怒りに任せ、裏切った小山田家を滅してやる!と戦支度を始め、あまりの勢いに、家臣たちに止められたという逸話も… #真田語り

2011-09-03 16:07:36
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

その後、主家が滅んだ真田家。抱えている領地と民を守るべく、岐路に立たされた父・昌幸殿。武田家滅亡直後には北条方から帰属を促す書状がもたらされます。家を守る為、天下の情勢を検討した結果、信長殿へ信濃の牧で産出した名馬を贈り、真田家は織田家への従属の道を選んだのです。 #真田語り

2011-09-03 16:10:51
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

織田家へ従属した真田家でしたが、天運は目まぐるしく変化。間もなく再度の窮地に立たされます。『本能寺の変』が起き、信長殿自刃。織田家へ従属した真田家は、織田殿家臣・滝川一益殿の驥下にあったのですが、北条氏直殿の軍勢に攻められ、神無川の合戦で滝川殿は敗れて逃亡。 #真田語り

2011-09-03 16:14:08
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

これを受け、北条家への帰属を決意した父・昌幸殿でしたが、密かに滝川殿に接収されていた沼田城の奪還と岩櫃城の確保に動きました。ここでも地元の国人衆達と結び、北条氏に明け渡さぬよう仕組み、我が兄・信之殿を岩櫃城に入れて、吾妻郡の武士達を掌握させました。 #真田語り

2011-09-03 16:15:37
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

北条氏に帰属した父・昌幸殿は、氏直殿と共に川中島制圧の進軍を開始。北条・徳川・上杉三家による、旧武田領の争奪戦(天正壬午の乱)が始まりです。その頃の川中島は上杉景勝殿が制圧しており、海津城主春日信達殿(高坂弾正殿の御子息)始め、各近郷の武将達が上杉に降っていました。 #真田語り

2011-09-03 16:17:29
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

よく見ると、所々文法がおかしな所がありますね…。…しっかりしなさい、私(遠い目) #真田語り

2011-09-03 16:22:28
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

やがて上杉と北条の戦が始まります。が戦況は北条方に不利な流れとなり、北条氏直殿は父・昌幸殿を上杉軍からの追撃防止と佐久・小県郡侵攻を防ぐ為に、尼ケ淵城(後に大改修され上田城に)へと残留させました。 #真田語り

2011-09-03 16:24:35
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

北条が田が甲斐へと去った後、徳川方へと匿われていた信濃国佐久郡有力国人衆のお一人、依田信蕃殿が武田遺臣たちへ呼びかけ徳川氏への帰属を促し各地を転戦。上田に残っていた父・昌幸殿へも接触を開始。何度かの文書等のやり取りをし、真田家は徳川方へ味方する事を決意されました。 #真田語り

2011-09-03 16:26:27
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

信蕃殿の説得もさることながら、父・昌幸の心を動かしたのは、家康公に帰属し、信蕃殿支援の為に奔走していた実弟・信尹殿の奔走も大きかったのだとか。やがて北条は徳川と和睦の方向に動きます。 #真田語り

2011-09-03 16:28:13
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

和睦に進むらしいという戦の気配を受けて、真田家も落ち着き、心配していた真田の領地も沼田城、岩櫃城、戸石城をそのまま持ち城とし、城領の確保にも成功したのです。 #真田語り

2011-09-03 16:29:42
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

一旦収束したかに見えた真田家の行く末。が、ここで問題が…。北条と徳川の間に交わされた和睦条件の一つが、その切欠となりました。家康殿の提示した『上野国の旧武田領を北条領にする…』と言うもの。これを履行されると、父・昌幸殿の領地がそのまま北条方のものになるというもの… #真田語り

2011-09-03 16:31:41
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

それを知った父・昌幸殿は謀略を駆使してそれを阻みます。北条との和睦を履行しようとする徳川殿。甲府に入り城と領地の空け渡しを迫るのですが、「これらの領地は戦で真田が勝ち取り得た物なので、其方の指図は受けず、徳川殿の自由にはさせません!」と父・昌幸殿はこれを断固拒否。 #真田語り

2011-09-03 16:33:29
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

代替に見合う領地や城を手にしなければ、一族郎党流浪してしまう事になるのですから…。しかも先祖代々の土地、苦労して手に入れた城と領地です。それはもう、父上はご立腹なさり、あの手この手で迫る徳川殿に応じません。 #真田語り

2011-09-03 16:36:51
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

一度は諦めて浜松に戻った徳川殿。真田の領地は関東覇権を握るには要所となる地域だった為、どうにか入手しようと謀略を巡らせます。しかし、それに負けじと父・昌幸殿も謀略を巡らせます。家康殿との決裂を視野に入れた父・昌幸殿は海津城の須田満親殿を通じて上杉家に支援を要請。 #真田語り

2011-09-03 16:38:04
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

それを受け、願ってもない事と上杉景勝殿は了承し、双方の合意を得た事で、真田家は徳川家と袂を分かつ事になりました。上杉家への帰属の証として、私は上杉家へ人質として送られることになりました。これが、第一次上田合戦の始まりでもあったのです。 #真田語り

2011-09-03 16:39:32
真田左衛門佐信繁 @s_n1567

さて、ここから父上大活躍の上田合戦に入っていく訳ですが、一旦休憩…。後半はまた後ほど、という事で。長々たいむらいんのお目汚し、失礼しました。ご清聴くださった方々、感謝いたします。 #真田語り

2011-09-03 16:43:49
武田信玄(たけのこ派) @shingeeeeen

信繁殿の #真田語り を読んで参ったが良く書けておるのぅ^^ 続きが楽しみじゃ(´∀`) 昌幸は賢くて良い子じゃったのぅ…^^

2011-09-03 18:24:19