森田童子となかにし礼のお話

@OocamiInfoさんによる森田童子となかにし礼にまつわる話をまとめさせていただきました
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oocami @OocamiInfo

↓昨日記事が出たので #森田童子#なかにし礼 のことについて3年数ヶ月前に連続ツイートしたことをリツイートした デビューにあたって叔父のなかにし礼人脈が周囲にいた事は書いたとおりだが 森田童子の詩作の才能は喩も内容も なかにし礼を遥かに凌駕しているのでゴーストライター説等は全く違う

2022-01-02 10:42:21
oocami @OocamiInfo

①森田童子は、日本歌謡史を代表する作詞家のひとり、なかにし礼の姪だった。小説「兄弟」は、彼女の父親であり、なかにし礼の実兄でもあった、中西正一氏について書かれた本だ。森田童子は中西正一の次女で、その次女についても、わずかではあるがこの本に書かれている。 #森田童子 #なかにし礼 pic.twitter.com/rTvkCOm7j3

2018-09-19 20:23:55
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②(敬称略)森田童子の実像については、夫であった前田亜土について調べていくといろいろなことがわかる。前田亜土は2009年10月に亡くなっている。 亡くなる前までは、電通関係のアートディレクターの仕事や、音楽スタジオの運営とプロデュースなどの仕事をされていたそうだ。

2018-09-19 23:25:22
oocami @OocamiInfo

③森田童子の夫であった前田亜土は、60年代後半にはサトウハチロー詩画集や、当時の売れっ子詩人白石かずこ詩集の装丁などを手がけていたデザイナーであり、1969年になかにし礼の作品集「エメラルドの伝説」の装丁をやっている。70年にはなかにしの小説「昭和左膳只今参上! 」の装丁をやっている。

2018-09-19 23:29:13
oocami @OocamiInfo

④この頃が前田亜土となかにし礼の出会いだったのか、その後、なかにし礼が前田を芸能界の仕事に引き込み、なかにし礼とその実兄中西正一が取締役を務め、前田を社長にしたアド・プロモーションという芸能事務所を設立している。 #森田童子 #なかにし礼

2018-09-19 23:35:02
oocami @OocamiInfo

⑤アド(亜土)・プロモーション(アドプロ)の事務所は、渋谷駅を出て代官山方面に徒歩十分ほどの渋谷区桜丘町のマンションの一室にあった。 アドプロは、最初の仕事として、風吹ジュンを手がけたのだが、風吹ジュンに2重契約、3重契約問題が発覚して、大きなトラブルとなった。 #森田童子 #なかにし礼

2018-09-19 23:41:50
oocami @OocamiInfo

⑥この風吹ジュンをめぐる契約トラブルは「風吹ジュン誘拐騒動」として、1974年当時の日本芸能界で、もっともスキャンダラスな出来事となってしまう。 内容については割愛するが、前田亜土となかにし礼、なかにしの実兄中西正一は、この騒動の主要人物であった。 #森田童子 #なかにし礼

2018-09-20 08:34:34
oocami @OocamiInfo

⑦「風吹ジュン誘拐騒動」は1974年9月。アドプロが使っていた渋谷区桜丘町の事務所は、その一年後、1975年10月発売シングルレコード『さよなら ぼくの ともだち』でデビューした森田童子の所属する「海底劇場」となった。 #森田童子 #なかにし礼

2018-09-20 09:01:27
oocami @OocamiInfo

⑧なかにし礼の姪、中西美乃生(みのぶ)が、なぜ森田童子という芸名を使った、実生活を全く語らない謎の人物としてデビューし活動したのか? それは、森田童子自身とはまったく関係のないことだが、デビュー一年前の「風吹ジュン誘拐騒動」が尾を引いていたことは間違いない。 #森田童子 #なかにし礼

2018-09-20 09:39:18
oocami @OocamiInfo

⑨森田童子の生まれた場所については、最初に発表されたプロフィールに東京出身と記された。その後1980年11月に北海道教育文化会館で行われたコンサートで主催者から配られた「森田童子ラフスケッチ」に青森県生まれと記載されている。 #森田童子 #なかにし礼

2018-09-20 09:47:34
oocami @OocamiInfo

⑩なかにし礼と兄の中西正一の一家は1953年に青森から東京へ移住した。1953年1月15日生まれの森田童子は、青森生まれだが1歳にもならない頃に東京へ引っ越したわけだ。 つまり出生地青森県、出身地東京ということである。 #森田童子 #なかにし礼

2018-09-20 09:52:41
oocami @OocamiInfo

①森田童子となかにし礼の話の続き。森田童子が最初に所属した事務所は小澤音楽事務所だった。小澤音楽事務所を設立した故小澤惇は、菅原洋一のマネージャー兼プロデューサーをしていた。 #森田童子 #なかにし礼

2018-09-25 12:02:51
oocami @OocamiInfo

②菅原洋一が当時の日本を代表する歌手となったのは、なかにし礼作詞「知りたくないの」の大ヒットからで、この曲はなかにし礼にとっても最初のビッグヒットであった。菅原洋一&なかにし礼コンビは、68年には「誰もいない」でレコード大賞歌唱賞受賞。 #森田童子 #なかにし礼

2018-09-25 12:09:28
oocami @OocamiInfo

③そして70年には「今日でお別れ」がレコード大賞など各賞を独占受賞した。 小澤音楽事務所社長の小澤惇は、67年に所属アーティストたちの原盤管理をする会社「有限会社音楽出版ジュンアンドケイ」を、松村慶子と二人で設立している。 #森田童子 #なかにし礼

2018-09-25 12:21:17
oocami @OocamiInfo

④音楽出版ジュンアンドケイの、初期の大ヒットが「知りたくないの」である。 松村慶子は、今も尊敬される伝説的な音楽プロデューサー。森田童子のデビュー1年前に、知人(なかにし礼と推察される)の紹介で、森田童子と会い、デモテープを聞きアドバイスした。 #森田童子 #なかにし礼

2018-09-25 12:38:04
oocami @OocamiInfo

⑤元々は作家(作詞家・作曲家)志望で、シンガーとしてはやっていくつもりのなかった森田童子は、松村慶子の説得で、シンガーソングライターとしてデビューする。デビュー作「GOOD BYEグッドバイ」原盤をプロデュースしたのは、ジュンアンドケイ(小澤惇と松村慶子)だった。 #森田童子 #なかにし礼

2018-09-26 19:49:29
oocami @OocamiInfo

⑥森田童子のデビューシングル「さよなら ぼくの ともだち」の編曲をしたのは、早川博二。 日本のマイナーバラード史上屈指の名曲「暗い港のブルース」の作曲者でもある。暗い港のブルースは元々は、日本のスタジオ・ミュージシャンバンド・モダンプレイボーイズのインスト曲。 #森田童子 #なかにし礼

2018-09-26 21:21:33
oocami @OocamiInfo

⑦「暗い港のブルース」は、63年にフランク赤木の歌でもレコーディングされたが、この時にはヒットせず、なかにし礼が歌詞を完全に書き直して71年にキングトーンズの歌でリリースされ、ヒットした。 #森田童子 #なかにし礼

2018-09-26 21:37:29
oocami @OocamiInfo

⑧早川博二は、菅原洋一となかにし礼コンビで、70年にレコード大賞を獲った「今日でお別れ」の編曲者でもある。 つまり、当然のことではあるが、森田童子の最初のアルバムリリースまでは、叔父なかにし礼の人脈が、いろいろな裏方仕事をしていたわけである。 #森田童子 #なかにし礼

2018-09-26 21:42:00