- ma_chao_dai
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かといって名を呼んでいいわけではないぞ!本来姓の次に官職をつけるのが一番いい呼び方だ。RT @ma_chao_dai ちなみに、劉備殿は 姓が劉 名が備 字が玄徳だな。 字というのは仲の良いものしか呼んではならんからな!!! #359_taidan
2011-09-08 22:31:29おっと先ほど先生の名を間違えていた正しくは盧植先生だ 俺としたことが申し訳ないことをした… #359_taidan
2011-09-08 22:36:23太平道という道教…まぁ分かりやすくいうと宗教みたいなもんだ、とにかくその太平道の信徒たちを中心とした黄巾の乱が起きてな。朝廷から討伐するように命が下ったわけだ。そこに義勇軍として劉備も参加していたようだな。その辺りで関羽や張飛と言った義弟と出会ったらしい。 #359_taidan
2011-09-08 22:47:43「劉備殿と関羽殿、張飛殿は『桃園の誓い』を結んだ義兄弟なのです。 同じ志しをもって 『産まれた日は違えども死ぬときは一緒だ』と誓い合ったのです。」#359_taidan
2011-09-08 22:55:54さて、その劉備殿だが、どれくらい凄いのかっていうとだな、結論から言うと 最初は義勇軍の一人にすぎなかったのだが、そこから蜀(蜀漢)の初代皇帝になったのだ。 #359_taidan
2011-09-08 23:01:39黄巾の乱が落ち着いたと思ったら、今度は董卓という西涼の太守…あー西涼は中国の西の方だ。とにかく西涼を治めてた奴が朝廷で実権を握ってな。今度はこれに対して袁紹の馬鹿を中心にした反董卓連合が組まれた。#359_taidan
2011-09-08 23:05:21この反董卓連合には俺を含め各地の豪族やら領主やらが参加していてだな。曹操殿とかも中心となっていたな。で肝心の劉備はどうしていたかというとだ。アイツはたいした基盤もなかったからな、旧知である俺を頼って、俺の軍の客将の一人として義弟たちとともに参加していたぞ。#359_taidan
2011-09-08 23:09:17劉備殿は最初公孫瓉殿を頼るしかないほど力がなかったのだ。 しかし、そんな劉備殿も先ほど言ったように蜀(蜀漢)の初代皇帝にまでなるにはとある人物の影響が一番大きいかもしれないな・・・ #359_taidan
2011-09-08 23:15:33推挙して役職につけてやったりもしたが、その後俺の元を離れてな、あとのことは俺は良く知らんぞ。俺が知っているのは皇帝とかそんなんではなくてだな、人を惹きつけることにやたらと長けた母親思いの好漢、劉玄徳だ。#359_taidan
2011-09-08 23:18:30「転戦を繰り返した劉備殿にはとても『人徳』がありましたからね。多くの人が集まったのです。また、中山靖王劉勝の末裔とも言われています(『三国志演義』『三国志平話』)」 #359_taidan
2011-09-08 23:20:03@ma_chao_dai ああ、アイツはいつもその事を誇りにしていたな。あと家の前にある木を帝が使う馬車の傘に見立てて、いつかは皇帝になると大口を叩いていたこともあったな。 #359_taidan
2011-09-08 23:23:16@898_choshi 「そのおかげもあって、余計に『人徳』があったのでしょうね。」 実際、皇帝になってしまった辺りすごいな。 #359_taidan
2011-09-08 23:27:50「『三国志演義』は劉備殿が主人公として描かれていますね。」また、その人徳、人柄に惹かれて集まったのが、関羽殿、張飛殿をはじめ、趙雲殿達だな。 #359_taidan
2011-09-08 23:33:05趙雲の奴…劉備のところ行ったのか……白馬長史びっくり RT @ma_chao_dai 「『三国志演義』は劉備殿が主人公として描かれていますね。」また、その人徳、人柄に惹かれて集まったのが、関羽殿、張飛殿をはじめ、趙雲殿達だな。 #359_taidan
2011-09-08 23:35:59「きてますよー。聞いた話によると公孫瓉殿が亡くなってから真っ先に劉備殿探したみたいです。ずっとお会いしたかったーって。」RT @898_choshi: 趙雲の奴…劉備のところ行ったのか……白馬長史びっくり #359_taidan
2011-09-08 23:37:09