初心者向け「旧軍戦車師団の構成」の簡単なお話
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日本で戦車師団の編成が始まったのは1934(昭和9)年の独立混成旅団を除くと、1942(昭和17)年頃から始まっている。
2011-09-09 23:02:23新編された戦車師団の内訳は、戦車二個連隊を主力とした戦車二個旅団と、機動歩兵(機械化歩兵)一個連隊に機動砲兵(機械化砲兵)一個連隊が基幹となっていて、各戦車連隊は五個戦車中隊で編成されてるなど、非常に豪華なものです。
2011-09-09 23:05:48実質的な規模は当時のドイツ戦車大隊より少し大きめで、師団内歩兵部隊と戦車部隊の釣り合いが取れてた分、初期のドイツ装甲師団よりもバランスが良かったんだそうです。
2011-09-09 23:08:03大戦末期になるとこれが戦車連隊三個が基幹の戦車師団が編成されます。師団隷下の戦車連隊には、以前(http://t.co/okbTuif 参照)話したように砲戦車中隊、自走砲中隊、作業中隊などが所属し、戦車を中心とした諸兵科連合部隊を編成していました。
2011-09-09 23:13:22ただ、これは以前のような師団所属の機動歩兵連隊、機動砲兵連隊が所属していなかったため、地域を確保する力がほぼ無く、支援砲撃も軍直轄の砲兵部隊に任せきりだったようです。
2011-09-09 23:15:10しかしこれは全くの考えなしでこの編成になったわけでなく、本土作戦の作戦方針が「敵の海岸線に突入して敵を追い散らす」という水際戦術によるものなので、敵陣地突破後に地域を確保する必要がない以上、そこまで必要性を感じなかったというのが構想としてあったのだろうと思います。
2011-09-09 23:18:45ちなみに旧軍もドイツのカンプグルッペと同じように、状況に応じて戦車連隊や機動歩兵連隊を基幹とする諸兵科連合部隊「支隊」を臨時編成して戦う事があります。ガ島で全滅した「一木支隊(第7師団歩兵第28連隊基幹)」「川口支隊(第35旅団司令部及び歩兵第124連隊基幹)」などが有名ですね。
2011-09-09 23:23:20中国戦線などでは、機動歩兵の恩恵を預かれる戦場もそこまで多いわけでなく、そんな時は不整地走破性が高い戦車のみの支隊を臨時編成することもあったそうで、そこらへんは少し本末転倒なところを感じなくは無いですねー
2011-09-09 23:27:30まあ結論に入ると、日本も編成の上ではドイツと同じような運動戦主体の戦車師団や諸兵科連合部隊の編成、「支隊」など、そこまで遅れていた部隊編成ではなかったのですが、如何せんその機動戦を行える戦場が少なく、戦車の部隊どころか戦車自体の数もない状態ではそれを活かす機会もありませんでした。
2011-09-09 23:32:30また、新編された機甲軍が1年も立たずに実戦を経験せずまま解散するなど、戦況に応じて満足に部隊を揃えることが困難となっていき、最終的には航空戦が重視され、戦車の新規製造が後回しになるほど切羽詰まった戦争末期では機甲戦どころか、満足に戦車師団を運用できるほどの余裕がなかったのです。
2011-09-09 23:37:45