子安宣邦先生による「九条の会」や一部文化人による反原発運動参画に見られる「政治性の欠如」批判ツイート
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小田実がまだ生きていた頃、彼に尋ねたいことがあった。それは〈九条の会〉の呼びかけ人に名を連ねることは、〈べ平連〉の市民運動的原則とは違うのではないかと。日々生活するそこをベトナム戦争に連なる現場として自覚したもの各々が立ち上がることをいった〈べ平連〉の原則と違うのではないかと。
2011-09-23 22:58:23〈九条の会〉は平和ボケの国民を、一層平和ボケにしているだけのように思われた。国から県へ、県から市へ、市から区へと行政単位毎に〈九条の会〉は作られた。だが人びとは反テロ世界戦争への日本の加担を平然と許してきた。あれは有名人の名によって良心の免罪符を配る似非宗教組織の如く思われた。
2011-09-23 23:06:32私は小田に「なぜそこに名を連ねるのか」と聞きたかった。しかし彼の発病と死によって、その機会は失われた。〈べ平連〉がしたのは反戦的市民の政治行動であった。だが〈九条の会〉がしているのは平和主義的市民の文化運動ではないか。それは市民をますます非政治化させる。
2011-09-23 23:12:34私がいまなぜ〈九条の会〉をいうのか、すでにお分かりだろう。〈反原発〉を文化運動にしてはならないからである。原発問題とは徹底的に〈政治問題〉であることはすでにいった。これが国家の体制維持に関わる〈政治問題〉であることを知っているのは、〈反原発派〉ではない。
2011-09-23 23:18:47もし文学者が反原発運動のリーダーシップをとろうとするなら、彼は政治家たるべきである。あるいは徹底した政治性をもつべきだ。文学者であってはならない。文学者が文学者としてやる反原発運動とは脱政治的な文化運動である。もういい加減にこの欺瞞を覚るべきだ。文化的なお祭りをする時ではない。
2011-09-23 23:26:49子安宣邦先生のツイートを受けた、氏家法雄( @ujikenorio )さんの反応
(正論だとしても)先鋭化した文化運動の陥穽とは、主張者の優位性を維持した状態でのポリティカルコレクトトークンだからかも。加えてその脱政治的な文化運動主義は、力を忌諱する子供たちのごっこにすぎず、所詮現実の政治変革の力たりえない。泥水を呑む覚悟がないと、結局は変革できないてことか。
2011-09-23 23:43:53政治は「汚い」って誰もが理解している。もちろんそれを正論をもってねじ伏せていくことは必要だけど、同時に、「さわるとばい菌がうつる、えんがちょ」って遠くから批判しているだけでは何もかわらないって噺か。「汚い」ものに染まる必要はないけど、その中に分け入っていくことは勇気なんだと思う。
2011-09-23 23:45:15