【20110923】fuzakerunaさん キャロル・ダンカン(川口幸也訳)『美術館という幻想』(水声社)読後のつぶやき
「…美術館全体をひとつの舞台として見るのである。そこでは、訪れる者は何らかのパフォーマンスを演じさせられる。もちろん、実際の来館者が美術館を舞台とみなすかどうかはわからないし、パフォーマンスを演じるべく心づもりをしているかどうかもわからない。…」p.16
2011-09-23 07:45:33「多くの儀礼空間の例に洩れず、美術館という空間は精神を集中するための特別な場として周囲から周到に切り離され、文化的にはっきりと示されている。この場合、精神の集中とは沈思黙考と学習を意味している。そこでは、人はある特定の礼儀作法のもとにふるまうことを要求される。」p.34
2011-09-23 07:49:51「…儀礼的なパフォーマンスは、見世物として目に見えるものである必要はない。それはあらかじめ示された順路に従い、祈りを繰り返し、物語を思い起こし、その場所の来歴もしくは意味(または何らかのモノか、その場所に存在するモノ)に関係のある物語を体験することによって、
2011-09-23 07:54:22「美術館では、儀礼を演じるのは来館者である。次々に立ち現れる美術館の空間、モノの並べ方、照明、そして建築的な細部は、舞台と台本の双方を提供している。…このような条件はいくつかの点で中世の大聖堂に似ている。そこでは、巡礼者たちは組み立てられた物語の順路に沿って内部を一巡し、
2011-09-23 08:00:06美術館に行くときって、出来るだけ心をからっぽにして準備してから出かけている気がします。ある特定の作品を目当てに行くときでも、その作品がどの位置に、どんな作品の合間に展示されているかで全然印象が違うから。びっくりさせて欲しい、からっぽの心でそう願う。
2011-09-23 08:00:24@pankomedia なるほど、そういう楽しみ方もあるのですね。ある作品がどこに、どのような状態に配置されているか。
2011-09-23 08:07:37「…モノをほかから分離し光を当てることで、来館者は本来なら別の場所にあったかもしれないモノに注意を集中させるようになる。」p.50
2011-09-23 08:10:15「美術館というリミナルな空間では、あらゆるもの――ときにはどんなものでも――がアートになりうる。消化器、温度計、そして湿度計でさえも、壁にぽつんと配置されて美術館の空間という審美的なレンズを通して見ると、
2011-09-23 08:13:53ほんの一瞬にせよ、美術品として展示されている作品と同じように、どこから見ても面白いものに見える。この場合、肝心の美術品の方は、消化器や温度計とさして違って見えるわけではない。」p.51
2011-09-23 08:15:38作品と対峙する者、ではなく、美術館に来た人、美術館の中にいる人。美術館という空間は、あるいは、美術館という空間に来ることは、人をどのように変容させるか。
2011-09-23 08:24:57@amayadori そういうもののほうが、興味深い物体であることがありますよね。生きてはいないけど、生命のようなもの、その名残を感じるからでしょうか。
2011-09-23 08:28:17アメリカの美術館が、公共性を謳っているくせに、お金持ちの私物コレクションの開陳スペースになっていたと批判されてる。お屋敷の中の「俺の部屋」を、美術館の中に再現するというドヤ顔。「ほら、いい趣味してるだろ?」 寄付はしていたけど、ひも付き補助金のようなもの。
2011-09-23 12:53:40「原題のCivilizing Ritualsは、直訳すれば「文明化するための儀礼」、あるいは「洗練させるための儀礼」ということになるのだろう。・・・civilizingというのも扱いにくい言葉である。
2011-09-23 12:57:41「ふつうこの言葉には、文明化する、都市化する、洗練されるなどの訳語が当てられることが多いが、本書では具体的に、貧しき下々が金持ちに、無学なものが教養ある人士に、脛に傷もつ誰彼が善意の篤志家に、成金の有象無象がエスタブリッシュメントに、
2011-09-23 12:59:52「はたまた新興国が一流国に、非西洋の国が西洋的価値を体現した国にと、よくいえば洗練されていく、悪くいえば成り上がっていく、なりすますというニュアンスが込められている。」訳者あとがき p.309
2011-09-23 13:01:53