いつわさん(@ituwahako)のTwitter小説 投稿時間はバラバラですけど、上から順に読み進めてください。
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波多間津 留碑霞 @ituwahako

「何よ、これ」とブラウン管に流れ出た映像を見ながら、はつは思わず言葉を出していた。郊外にある団地は少し時代からはハズれかかっていたが、それでも住み慣れた我が家である。その六畳より少し広いかの台所のテーブルで朝食をとるはつは、大台にのる一つ手前の年齢であった。 #音

2011-09-29 23:36:08
波多間津 留碑霞 @ituwahako

当時の年齢で大台と言えば三十路、つまりは、はつは29歳であった。戦後の混乱期に生まれたはつは、自分の名前が子供の頃から嫌いであった。前近代的な響きのある、その名前は母方の曾祖母のそれをつけたものである。明治の初期の顔も知らない女の名を、何故とはつは何時も思っていた。 #音

2011-09-28 11:30:40
波多間津 留碑霞 @ituwahako

はつは特別な環境にある女ではなかった。中学生時代それなりに勉強の出来たはつは普通校への進学もありえたが、両親の考えもあり商業高校へと進んだ。そこは割合に旧くからある学校で、元は女学校であったらしい。その経緯もあってか女生徒の数は、全生徒の八割近くを占めていた。 #音

2011-09-28 12:08:25
波多間津 留碑霞 @ituwahako

昭和で言えば30年代の後半にあたる当時のその商業高校のなかで、はつはごく平凡な生徒として過ごしたつもりである。学校帰りに映画館に何人かの学友と供に入った事もあったが、映画産業自体が斜陽に差し掛かる頃でもあり、さほど厳しい規則のなかったその学校では問題にすらならなかった。 #音

2011-09-28 17:07:04
波多間津 留碑霞 @ituwahako

さりとて問題もなく学校を卒業したはつは、教師の就職指導の通りに余り名前の知られていない運送会社の事務員にとなった。この時代の女性の事務員は所謂結婚する迄の腰掛けが普通とされた。実家である郊外の団地から朝の電車を二本乗り継ぎ、駅から10分程の場所がはつの仕事場。 #音

2011-09-28 19:42:32
波多間津 留碑霞 @ituwahako

まさか、その場所に10年を越える迄通う事になろうとは、はつはもちろん両親を含む家族や周囲の人間全てが思いもしなかった。今、はつは29歳にして独身であり、結婚の予定は未定の状態。そして朝のブラウン管から流れた映像は現職の総理大臣が暴漢に殴り倒された、それであった。 #音

2011-09-28 19:55:52
波多間津 留碑霞 @ituwahako

そのひしゃげた総理の姿に、はつは自分を重ねたのかも知れない。はつが二十歳になる少し前に出会った男性がいた。その男は二十歳の大学生であり、小さな劇団に所属していた。いや、劇団とさえも呼べない素人の遊び事。当時は小劇団の黎明期と呼んでも良い時代ではあった。 #音

2011-09-28 22:26:47
波多間津 留碑霞 @ituwahako

しかし男の所属していたそれは、箸にも棒にも引っかからぬ物だった。だが、はつにはその男が眩しく見えた。自分とは対局に在るものに心惹かれる事は、世間には間々ある事である。はつの歩いていた道は、その時代の平凡な女性が歩く道であり、その男に出会う迄は疑問すら抱かなかった。 #音

2011-09-29 00:43:42
波多間津 留碑霞 @ituwahako

男の名前は晃。北陸の雪深い山村の出身である。戦後の山村と言うと困窮をした生活を思い浮かべしまうが、晃の場合は少し違った。家は農家ではあったが、晃は遅くに生まれた一人っ子。母が37の時の子供である。その時、父は既に40をまわり晃が生まれた時にはそれなりの貯えもあった。 #音

2011-09-29 19:13:02
波多間津 留碑霞 @ituwahako

周りにも農家は沢山あったが、殆どの家が子供が4、5人兄弟、7人や8人兄弟も珍しくはなかった。戦前戦中の富国強兵策を受け、産めよ増やせよが残っていた時代である。そんな中、農家ではあるが一人っ子である晃は農作業の手伝いをさせられもせず、のんびりとそれなりに勉学もこなした。 #音

2011-09-29 21:17:31
波多間津 留碑霞 @ituwahako

中学を優秀な成績で卒業した晃であったが、入学した田舎の公立進学高校は余り肌に合わなかった。古くからの伝統が残るその学校は、旧家やそれに連なる子女が多く通っており、多くの生徒が家制度にと自ずと組み込まれていた。長男は家の跡継ぎでという、その様な考え方である。 #音

2011-10-02 19:38:02
波多間津 留碑霞 @ituwahako

その中で晃は少し異質の存在であった。両親は晃に関して寛容で農家どころか家を継ぐ事すら口にせず、諦めかけていた所に授かった空からの贈り物という扱い。存外そんな所から、自分に甘い晃の性分は来たのかも知れない。眼には見えない家に縛られている、同級生とは気持ちが合わなかった。 #音

2011-10-02 19:46:37
波多間津 留碑霞 @ituwahako

そんな晃の心を掴まえたのが、少し開けた町にある映画館。バスと電車を乗り継いで、日曜日になると見に行った。特に惹かれたのは日本のそれではなく、所謂洋画。そこは若者らしく、湿ったフランス映画よりもアメリカの画を好んだ。進学が現実味を帯びた時、それらが晃を導いた。 #音

2011-10-02 19:53:39
波多間津 留碑霞 @ituwahako

進学校とは言っても当時の北陸は交通の便も悪く、余程優秀な生徒でない限り地元の大学等に進んだ。本人に上京の意思はあっても、家族縁者がそれを良しとせぬ場合も多かった。それもあって流石に両親には上京の意思を伝えづらい晃ではあったが、ある日の夕ご飯の場で突然にその場面は現れた。 #音

2011-10-02 20:02:38
波多間津 留碑霞 @ituwahako

「おまえ、東京の大学行くか」父親がポツリと言った。続けて「この先、土いじりの時代でもないし」、母親が言った。どこか芝居じみた遣り取りではあったが、「ええ、東京の大学にします」と晃は答えた。その後、家族は何事もなく食事を続けた。そう、芝居だったのだろう。子を想う親の。 #音

2011-10-02 20:10:48
波多間津 留碑霞 @ituwahako

本音を言えば東京どころかアメリカへと行きたい晃であったが、当時の日本の、それも北陸の片田舎では現実味のない夢。少しでも文化的にアメリカに近い場所と言えば、東京であった。昭和30年代の後半では、殆どのこの国の人が晃に近い感覚を持っていたであろう。「夢のハワイ」の時代である。 #音

2011-10-02 20:19:25
波多間津 留碑霞 @ituwahako

入試をくぐり抜けた晃は、世間一般で名前の通る大学へと籍を置いた。60年安保から数年過ぎたキャンパスは、それでも鋭い空気を孕んでいた。それをすり抜ける様に生活を送る晃を捉えたのは、田舎では見る機会さえなかった演劇。いつしか、それを見る側から見せる側へと気持ちは移っていった。 #音

2011-10-01 23:05:31
波多間津 留碑霞 @ituwahako

理屈走りの演劇集団に巡り会ったのも、何かの縁だったのだろう。素人同然のそれは、晃にとって初めての「居場所」だった。居るべき場所にと居る安心感は、幸福にとても良く似ていた。それが外面にも出て来たのか、いつしか晃はモテる男にとなっていた。そんなある日、晃とはつは出逢った。 #音

2011-10-02 17:49:45
波多間津 留碑霞 @ituwahako

同い年の女性事務員が、はつの職場に途中入社という形で加わった。はつが仕事を始めて、9ヶ月が過ぎる頃だ。取引先の会社の紹介という噂だった。「まあ、コネって事です」と、数日後のお昼ご飯の時間に同テーブルで秀子は言った。はつは思わず驚いて、その秀子の綺麗な横顔を見つめていた。 #音

2011-10-02 18:18:32
波多間津 留碑霞 @ituwahako

はつの視線に気付いた秀子は、「コネって、コネクションの略よ。和訳すれは人脈。人脈を使ったてだけよ。」と屈託なく笑った。その一件があってから、はつと秀子は急速に親しくなった。何故なら秀子の様なタイプの女性は、今まではつの周りには居なかったから。それだけである。 #音20

2011-10-03 15:29:33
波多間津 留碑霞 @ituwahako

何事にも慎重なはつと、サバサバと前に進む秀子。違うからこそ仲が良くなる。出逢い方も良かったのだろう。もしも学生時代ならば、二人はすれ違っていた。働いているからこそ、話し合う事が出来る。不思議なものである。そして、この秀子の兄が脚本家志望の大学生。出来過ぎた話ではある。 #音21

2011-10-04 20:51:56
波多間津 留碑霞 @ituwahako

しかし、振り返れば軌跡は何時でもそう。予め決められていたかの如くに。こうして、秀子の兄が書いた芝居を見に行った事が、はつと晃の出逢いにとなった。暗すぎる照明に照らされた、見窄らしい舞台。そこに立って、棒読みの台詞を垂れる少し整った顔立ちの男。それが晃であった。 #音22

2011-10-04 21:03:41
波多間津 留碑霞 @ituwahako

なんて、つまらない話だろう。正直、はつはそう思った。芝居が終わり幕が降りる途中で、「ああ、全く駄目ね」と秀子が言った。「ええ、そうね」と思わず言葉が出たはつに、秀子は明るく笑った。そして、こんな言葉を吐いた。「でも、あの人はハンサムだったわね」、と。 #音23

2011-10-04 21:22:19
波多間津 留碑霞 @ituwahako

「あなたは、ああいう人が好みなの」と問い掛けるはつに、「でも、中身がなさそうじゃない」と秀子は言った。「そんなものかしら」と笑いながら、何故かはつの心は反発を覚えていた。「私は、あの人が好きなのだ」直ぐにはつは気が付いた。そして、こう思った。「ああ、つまらない」、と。 #音24

2011-10-04 21:35:55
波多間津 留碑霞 @ituwahako

「私が好きになるのは、ああいう男なのだ」そう思うと、何もかもがつまらなく感じた。自分の凡庸さを見せ付けられた様で。その癖に、心は騒ぎ始めている。はつは、小さく欠伸をした。そんなはつを見て、「そこまでだと、兄に失礼よ」と秀子は微笑んだ。数日後、はつは晃と会話を交わした。 #音25

2011-10-05 22:57:01