佐藤正美Tweet_20110922_30

16~21日抜け
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佐藤正美 @satou_masami

モデルは、ユーザが直接に事業の中で実感した手続きに較べれば、事業を形式化するからには、本物(実物)ではない。しかし、SE が私的概念に漬(つ)かっていて、「論理」で「現実」を形式化しなかったら、構造はだらけて、ふやけて、私(わたくし)物になるのは必然の結果ではないか。

2011-09-21 06:12:04
佐藤正美 @satou_masami

モデルがユーザを惹き寄せる故は、現実の裡に存するように錯覚されている法則を描いているからではない、ただ現実が溢れているからなのだ。モデルは、まるで現実がユーザの言葉になって表現されたかのような感を与えるのである。モデルがユーザの実感ででもあるかのように思われてくるのである。

2011-09-21 06:13:03
佐藤正美 @satou_masami

私は、言語に依って表現されるモデルを定義して、「概念(意味)」の形式的な構造であると言おう。モデルは「命題」の集合体である。そして、その命題形式の「最後の審判」は、ただ現実的事態(真とされる値の充足)のみである。モデルの本体は、ただ「現実」を「論理」で写像する他にない。

2011-09-22 13:56:03
佐藤正美 @satou_masami

「概念」は、現実的事態の「意味」であるが、ただそれは、「論理」において初めて完全な真実となる。「概念」は、言語使用と論理法則に依る産物であり、その限りにおいて現実的意味なのである。誰かの描いた概念図を たむろして品評している連中の審美眼には見えない現実の写像物である。

2011-09-22 13:56:39
佐藤正美 @satou_masami

私的な概念図については、つまりこう考えればいい、それは論理を使えない連中の限界だと──自分の力で運びうるものしか描けない。モデルとは、論理によって得られる世界像である。モデルにあっては、論理的形式が「妥当な」構造を決めて、「真とされる」値がそこへ来て位置を占める。

2011-09-23 18:34:36
佐藤正美 @satou_masami

エンジニアには、唯ひとつの規範として現実的事態があるだけであり、唯ひとつの導きとして論理があるだけである。モデルは、もの云わぬ「現実」である。「現実」は、ものを言うモデルである。論理は「論理」自体をしか持たないが、われわれは論理に依るモデルを通して「現実」に到達する。

2011-09-23 18:35:23
佐藤正美 @satou_masami

よいモデルの特長が「論理」を基底にしているのと同じように、悪いモデルの欠点は「論理」を喪失している。悪いモデルは、SE の私(わたしくし)概念をつぶつぶと言い続けて、SE の眼に事業が如何に写っているかの講談を聞かなければならないけれども、なお事業の「事実」を述べてはいない。

2011-09-24 07:15:44
佐藤正美 @satou_masami

真のモデルは形式で読まれなければならない。言葉のニュアンスから解放されるのみならず、意味の多義を排除する。この点において、モデルは、ユーザが使う言葉を文字列として計らい正しく論理で演算されたものである限り、必ず明確な表現をとる。モデルの文体とは論理そのものである。

2011-09-24 07:16:36
佐藤正美 @satou_masami

つねにロジシャンであれ、たとえ事業分析の場合にも。事業過程に論理の形式を与える──こうしたことを望むのは おそらく馬鹿げたこととして見えるだろうが、これこそ私が常に考えていることである。だが、おそらく これは「分析」という意味では、非常に平凡な企てであろう。

2011-09-25 01:25:17
佐藤正美 @satou_masami

適切な場所に置かれた適切な語句(値)というのが文体である。「概念」に凝ってあくせくしていると「現実」を見失う。それに粉飾を施してしまう おそれがある。モデルは、定着されるべき事象を変質させたりしてはならない。モデルは、美しく構成された物語(フィクション)ではない。

2011-09-25 01:25:49
佐藤正美 @satou_masami

よいモデルを構成するというのは、鋳型(パターン)を適用することでなく、論理法則にしたがって構成することである。そして、よきモデルの基本条件は、その生成規則が常識のように自然であり単純であること──モデルの文体とは、論理が あるがままの現実に与える秩序にほかならない。

2011-09-26 13:13:14
佐藤正美 @satou_masami

無論、論理はモデルの規則・価値をなす。しかし、それは自然言語の文法のように意識されずに過ぎるような性質でなければならない。図式の構造が論理に合わないという事は、モデルの規則を無視する事ではなく、頭脳の構造を無視する事になる。「意味」の通有性を無視することになる。

2011-09-26 13:14:00
佐藤正美 @satou_masami

私はユーザの役に多少とも立ちたいためにモデルを作ってきた。けれども、問題意識なき人たちにとっては、モデルは ただ衒学趣味に見える。モデルは、たかがツールではないか。そしてツールに徹した使いかたをした場合のみ、また、モデルは単なるツールでないと言い切れるのである。

2011-09-27 11:23:30
佐藤正美 @satou_masami

「論理」と「形式」とは区分することができない。「論理」を使うにつれて「形式」が出来、「形式」が整うにつれて「論理」は正確になる。「論理」が正確であるとき「形式」も落ち着く。エンジニアは「意味」を示すに「形式」をもってする。モデルは「現実」の再現ではない。「現実」の見かたである。

2011-09-28 09:09:46
佐藤正美 @satou_masami

「現実」に興り、「論理」に立ち、「形式」に成る。モデルは「現実」の形式である。「論理」は人間の、真の共通語である。「現実」では、空間は時間の中で推移するが、モデル(「形式」)は時間を空間に変ずる。モデルは「位相(抽象空間)」の観念を与える。モデルは、「論理」と同値である。

2011-09-29 14:05:25
佐藤正美 @satou_masami

「論理」は普遍的な言語であって、誰でも使うことができる。それは「論理」の本質に関する知識如何に依るのではない。「論理」が我々の言語に与える性質は、伝達の明確さである。「論理」だけは世界語であって翻訳される必要がない。論理形式の中で「意味」は「現実」と照合される位置を占める。

2011-09-29 14:05:56
佐藤正美 @satou_masami

言語は、「概念」と「現実」との間に立っている記号として、精神と物質との間に立っている。それは二つのもの(「概念」と「現実」)と三位一体であるが、二つのものの接点(媒体)である。「概念」そのものを弄っていると、愛すべき愚につかないことを生真面目に言いたくなるらしい。

2011-09-30 11:29:48
佐藤正美 @satou_masami

「論理」の驚嘆すべき所以は、言語が他の場合には純然たる利己的な概念(すなわち脳髄の中の私的概念)の符牒であるが、言語に対する制御として作用する点にある。「概念」そのものに興味を示してはならない。私は、「現実」を「関係の形式」という以外の形では了承することができない。

2011-09-30 11:30:28