さらには変身薬を服用し続けた結果、しだいに表と裏が入れ替わり始めた。勝手にハイドへ変身するようになり、薬を飲まなければジキルへ戻れなくなってしまった。ジキルでいられる時間も次第に短くなっていく。指名手配犯としては致命的だ。
2023-06-18 00:16:54追い打ちをかけるように、重大な事実が発覚した。長年の研究が実を結んだ変身薬の完成が、実は偶発的なものだったと判明したのだ。変身薬の材料のうち、コカイン塩酸塩が尽きたので新たに補充して調合してみると、まったく効能が表れなくなってしまった。
2023-06-18 00:16:54どうやら最初に成功したのは、材料に含まれた不純物のおかげだったらしい。不純物の正体が何だったのか、結局ジキルには特定することが叶わなかった。
2023-06-18 00:16:55そして変身薬の秘密は、ハイドの死とともに葬り去られたはずだった――しかし、それを墓から掘り起こした者がいる。その人物とはシャーロック・ホームズの兄、マイクロフトだ。
2023-06-18 00:16:56人間なら誰しも心に善悪をあわせ持つ。悪人だろうと例外ではないはずだ。たとえそれが芥子粒程度に過ぎないとしても。ならばその抑圧された良心を解放してやれば、監獄を空にすることも夢ではない。実際ジキルの仮説でも、服用者の本性が善ならば、悪魔ではなく天使になるだろうと唱えられていた。
2023-06-18 00:16:57薬のレシピはジキルの手記に残されていたが、問題は不純物の正体だ。彼がモー商会から仕入れたコカイン塩酸塩の製造過程では、万が一にも不純物が混入する余地はなかった。
2023-06-18 00:16:58となると、原因は運搬中以外に考えられない。ジキルが最初に購入したコカイン塩酸塩の入荷ルートを追跡した結果、ロシア船籍の貨物船デメテル号が浮かび上がって来た。
2023-06-18 00:16:59ブルガリアのヴァルナから出港したこの船の貨物スペースは、コカイン塩酸塩を除くと、そのほとんどを肥土の詰まった大きな木箱で占められていた。実験用という名目で、その数なんと五十箱にも上る。
2023-06-18 00:17:00首尾よく不純物の正体を突き止めたマイクロフトは、プラハ大学のローウェンシュタイン博士を聖バーソロミュー病院の秘密研究室へ招聘した。不純物と同じ成分を採取するために、優れた血清学の知識が必要になったからだ。
2023-06-18 00:17:01採取先は何を隠そう、エドワード・ハイドの遺体だ。信じがたいことに、その時点で死亡から半年以上経過していたにもかかわらず、棺桶に納められた彼の遺体は、腐敗していなかった。
2023-06-18 00:17:01そうして変身薬の再現自体には成功したマイクロフトだったが、残念ながら期待していた成果は得られなかった。というのも、良心を押し殺した犯罪者など、現実にはほとんどいなかったのだ。条件に該当するのはせいぜい、空腹のあまりパンを盗んだ浮浪児くらいだった。
2023-06-18 00:17:01そもそも犯罪者というのは、おのれの身勝手な欲望を理性で抑えられない人間であって、当然そんな連中は本性が邪悪なのだ。いや、たとえ善人であっても、心根まで清らかなわけではない。
2023-06-18 00:17:02かつてプラトンが言ったように〝善人とは、他の人、すなわち悪人が現実で行なっていることを夢に見て満足している人〟なのだ。本性のままに生きてきた犯罪者という人種に、本性を表出させる薬など無意味だったわけだ。
2023-06-18 00:17:02結局、マイクロフトの計画は頓挫し、変身薬の存在はふたたび闇へと葬られそうになった。だがその研究成果を、モリアーティがかすめ取ったというわけだ。犯罪計画に必要な手駒を用意する上で、これほど便利なものはない。例えるなら、日本の将棋のようなものだ。欲しい駒があったら取ってしまえばいい。
2023-06-18 00:17:03この続きはKindleで好評配信中。変身薬で若返ろうとしたのになぜか女体化してしまったモリアーティ教授が、過去を変えないために奮闘する(ホームズのストーカーになる)物語。 amzn.asia/d/8FzGOVb
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