- aconitine_NEO
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そもそも、折原は年齢相応に精神分析するものではないと思う。なぜなら年齢相応の精神ではないから。端的に言うと、そもそも折原に人格は育っていないから、精神分析の対象ではないと思う。
2011-11-26 22:35:04折原というのは、幼稚性とか感情の起伏の大きさがわかりやすいと思うけれど、年齢相応の複雑な感情というものの露出が極めて少ないと思う。静雄に対する感情も、苛立ちと表現されている。折原の中には、愉快不快の2種類の感情しかないのではないかという仮定。
2011-11-26 22:40:44不快、不愉快という発露が、年齢相応に感情を分類する人々に「苛立ち」であるようにうつる。これは、子供を見ている大人も感じていると思う。子供が不愉快を表現している時、苛々してるなとか怒ってるなとか。
2011-11-26 22:41:41年齢相応に持ち得る感情の分類で、子供が不快、不愉快としか表現できないものが、どのように分類されるか教える、そのことで子供は感情の分類を覚えてゆく。
2011-11-26 22:42:18折原の場合は、そもそも自分の感情を相手に伝えることに重きを置かない。感情を理解されることを重要としない。だから、折原の中で自らの感情を分類する必要がない。不愉快であると伝わりさえすれば、その感情がどのような経緯で発露に至ったかは大きな問題ではない。
2011-11-26 22:43:29細かな感情の襞を本人が欲していない、とも表現できる。感情の発露はそもそも外界とのコミュニケーション手段だ。自分と相手に齟齬が生じた時に、共通の感情分類で伝えあうことでコミュニケーションを図り齟齬を解消する。
2011-11-26 22:44:29折原はそれを必要としていなかった。だから折原の中で感情の分類が必要ではなかった。なぜ必要としていなかったのか。それは、折原が外界に対して「齟齬」を感じていなかったからだとすれば?
2011-11-26 22:45:03折原にとって、外界が度し難いものではなかった。外界が予定調和で、折原の予期の範囲内だから齟齬を感じなかった。コミュニケーションの必要を感じなかった。
2011-11-26 22:45:59本来、幼児期に外界との齟齬、摩擦がうまれることによって分類すべき感情を、分類する機会がなかった。そのまま育ってしまった。
2011-11-26 22:46:51幼児期は、父と母と自分という限られた世界で与えられる万能感が、外界との接触で否定されて感情が細分化される時期。だが、折原は外界との接触で万能感が否定されなかった。
2011-11-26 22:47:57折原の一巻で描写された「自分のことを理解している」という特性が、生来のものであったなら? つまり、折原は生来自分の程度を十全に把握していた。だから、限られた世界であっても万能感を持つことがなかった。
2011-11-26 22:48:58折原は外界と接する前から「自分の手に負える範囲内でだけ自分が万能であるように振る舞えること」を知っていた。だから、一般的におこるはずの外界との齟齬を持たず、感情を細分化する必要性がなかった。
2011-11-26 22:49:59それ故に、幼児期に起こるはずの人格形成が起こらなかった。幼児のみが体験し得る快不快だけでは外界とはコミュニケーションしてゆけない、という壁に当たらなかったが故の、人格不形成。
2011-11-26 22:52:02