- gekidan_shin
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劇団森『きよしこの家』観劇。自分の音響はICUに多い王道演劇に向いてると思うが、観るのならこういうわけわからんの好きだ。
2011-12-01 21:12:48きょうは無益にだらだらしてるからさいごになにかと思ってきよしこの家をみたら浮わついちゃって傘ささないで左手にガリガリくん梨味を右手にガリガリくん梨味の袋を持って馬場歩きして電車内なう
2011-12-01 21:21:40きよしこの家観てきた。アンケートしっちゃか書いたけど、違うわ。たけだの負けだわ。ぼくは敗北を認めざるを得ない。とにかく観て感じてください。すごいよ、これ。日曜日まで。あと6ステ、どうぞお体をお大事に。
2011-12-01 21:22:16早稲田大学学生会館にて劇団森のきよしこの家を観た。観客の想像力を試すかのように次から次へと刺激的がシーンが展開。また役者の限界に挑戦するかのような演技にも感動。演技を超えたところに魅力があった。
2011-12-01 21:26:28ひとはなぜ慣習を好むのだろう。たくさんの“終わり”が数珠繋ぎになって、輪を結ぶ。循環する。死んでも本当は終わっていないのに、“終わった”ことにされている。悲しいことも嬉しいことも終わらせて、眠らせて、また目覚める。「きよしこの家」12月1日~4日@早稲田大学学生会館B203
2011-12-01 21:55:37「きよしこの家」観劇してきた。内容を理解できる人と見にいけて本当によかった。一人で見に行ってたらきっと何もわかってないのにわかった気になって勝手に満足して帰ってたわ。おかげでとても有意義な時間だった。今もう一度見たい。
2011-12-01 23:05:39今日、劇団森の片方の天才、天野峻が脚本・演出をつとめる「きよしこの家」を観劇した。なんて圧倒的なんだ。「再燃現象マウントフジ」をみたときから天野峻という男は間違いなく(作演出における面でも、役者としての面でも)天才だという確信を持っていたが、この作品でその確信は信念に変わった。
2011-12-02 03:41:22今日ってかもう昨日か。何にせよ自分自身、心から人を褒めることなんてあまりないものだから、久々の「究極的な人物」の登場に驚いてる。「きよしこの家」では一貫してリピートシンドロームとパターナリズムの双方拒否をおこなっていた。
2011-12-02 03:43:30はじめは自己分析を行い始める女の独りがたりで、はいはいフロイト的な自我とか超自我とかそういうやつね、大学生の演劇に多いよなそういうの〜とかそういう目で見ていたのだが、その憶測はあまりにも甘すぎた。
2011-12-02 03:44:03突如ロボットのように同じ動きを繰り返し行う「感情」たち。そのときから僕は何か「繰り返し」「円環」をテーマにしてる気がしてならなかったのだが、それは結局当たっていた。でもそれだけじゃなかったんだ。というか、グルグル回るってのは、なんともわかりやすく劇に描かれていた。
2011-12-02 03:46:00女医とのやり取りで女が追いかけられるときも、犬のように回り続ける男も、輪廻転生として死と生を繰り返す女も、最後の何度も繰り返される場面だってそうだ。むしろその意向が読み取れないのが難しいほどにわかりやすい。
2011-12-02 03:47:39同じことの繰り返しを行いながら、そこから「解脱(劇中で使われた言葉だ)」することにどこか恐怖を持っている彼ら。変化に怯えながらミニマリズムを根底に生きる人間、確立する社会。それこそが「きよしこの家」という題における「家」であることは間違いない。
2011-12-02 03:48:55広井龍太郎(劇団森のもう片方の天才)の演じる男が途中で「よくある家庭」を不自然に描写するシーンがあるが、それはどことなく共産主義的で、パターナリズムに対する考察が見受けられる。ところで広井さんやっぱり演技うますぎだねえ。彼に誘われて観に行ったけど、やっぱ演者としてのオーラが違うわ
2011-12-02 03:50:18パターナリズムって言葉がパターンの連続とかそういう意味じゃなくて父権的な干渉のことをいうのは承知の上で誤解を恐れずにいうと、先人が残した先例や慣習、日常というミニマリズムに個人が駆逐され、その象徴としての家(住所)やクリスマスという国家的イベントに全てが収束するところが、
2011-12-02 03:53:31僕にはこの作品で天野峻という男がパターナリズムの拒否を一貫して訴えているようにしか思えないのだ。ラテン語のパテル(pater)とpatternをかけているのかは知らないが、同じことを繰り返しながらもそれを拒否したい、円環から抜け出したいという、リピートシンドロームもかいまみえる。
2011-12-02 03:54:11この劇には、現在という現実の存在を俯瞰して未来に希望を見いだすことでしか生きられない、木村敏の言葉を借りれば(よく借りますね。木村さんいつもありがとう)「アンテ・フェストゥム的な人」しかいないのだ。彼らは自己を自己とは思わないし、自己を制しようともしない。
2011-12-02 03:55:41もしくは制しようとするけれども、結果は悪化する。原因はどこにも求めないが、いつか解脱できると信じて且つ怯えながら生きている。でもやっぱり、そのリピート(繰り返し)から抜けだすことはできないのだ、何か大きな変化がない限り。その変化は演劇的な「転換」としてこの劇に存在している。
2011-12-02 03:57:08脇道にそれるけど、結果に原因を求めるという構造にも注目すると、結果と原因は実は構造主義的な観点からいえば同じ円環上に存在しており、結果は原因の結果であり原因はその結果の原因にすぎない。その無限ループこそがこの作品の構造とも通じないだろうか。
2011-12-02 03:58:58…閑話休題。パターナリズムの拒否すなわち父権的なものに対する抵抗というのは、これこそフロイトの提唱するエディプスコンプレックス。父親を殺し母を愛したいというその欲動を描いてるかと思ったら、おやおや、母親の象徴が一向にでてこない。これは見当違いかと思えば、最後のシーン!
2011-12-02 04:00:18朝焼けを皆で求めて浴びる。終劇。朝焼けは太陽であり、母の星である。天野峻はフロイトかベンヤミン(持続という時間に対しての考察)の研究でもしているのだろうか。
2011-12-02 04:01:14これだけじゃない。ウロボロスの輪というよりはメビウスの輪(数学的に不可能性の象徴なのだ)としての特性が強いこの劇における「繰り返し」には、マクロの視点でみれば宇宙や世界、歴史、社会、人生。具象的にいえば「身体」に基づく全ての事柄をパターナリズムとして取り上げている。
2011-12-02 04:02:31あ、宇宙における繰り返しってのは公転などの周期で、劇中には「恋人」が金星の役割であったし、最後のシーンで衛星の「月」が降ってきたことからも、円環の記号として機能してることは間違いない。
2011-12-02 04:04:03まず身体ということで、五感を全て効果的に取り上げた。視覚的にはダンス(と演劇をみている観客の存在そのもの)。聴覚的には歌(広井さんのクリスマスソング)。味覚的にはセミを食べるという行為(しかも美味しくて溶けている=当人と融合している)。
2011-12-02 04:05:34