ほぼ漫画業界コラム

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石橋和章 | Zoo | 漫画編集者&原作者&経営者🎨 @mikunikko

ほぼ漫画業界コラム⑨。本日のお題は 【著作権】 歴史的に日本の出版社は著作者の著作権を、他のどのエンタメ業界よりも重んじてきました。漫画家や小説家の大切な原稿をお預かりし、本という商品に複製し販売する。著作者を「先生」と呼び、丁重に扱ってきました。本と言う商品は出版社のもの。ですがその作品の権利自体は著作者のものであり、もし著作者と出版社の関係が壊れてしまった場合出版社はその本をもう出版出来なくなる事を受け入れていました。それは原稿料という形で制作費を支払っていたとしてもです。作品は著作者の物だっだとのです。 たまにAと言う出版社の雑誌で連載していた作品が途中で終わり、Bと言う出版社の雑誌で突然始まるということがあります。 それはA社と著作者との関係が壊れたからです。著作者はB社に移籍し、そちらで連載を続けます。例えA社はこれまで原稿料を払い、共に著作者と作品を育ててきたとしても関係ありません。A社は潔く移籍を認めます。下手を打ったのはA社です。著作者の信頼を失ってしまった自らに非があると認めるからです。僕はそんな、日本の出版社の潔さが好きでした。それこそが資金も権力もある出版社が、個人である著作者とフェアな関係を築いている証明だからです。ですが近年、その関係が変わってきました。その関係を変えてきたのがWEBTOONスタジオです。 WEBTOONスタジオの多くは自分達が製作費を出している作品を自社IPと呼び著作権を自己保有していると主張しています。個別の契約関係は分かりませんが、実際にそうなっているのでしょう。ゲームやアニメ業界では当然な事なので、それ自体に異議はありません。僕の会社もそうです。僕らが電子配信している多くの作品が、著作権の半分は僕の会社に所属しています。僕や社員が実際にシナリオやネームを書いているからです。もちろん作画者にも著作権はあります。著作権を均等な割合で所有しています。それがフェアな関係だと考えているからです。ただ著作権を持っている会社が、直接電子書店に作品を卸す、つまり著作者自体が出版社化しているという状況が始まり、そのきっかけはWEBTOONスタジオだという事です。ここまでが前置き。さて本題に行きましょう。 https://t.co/2To9Ck1MG6 で、この問題。今回の『小悪魔教師サイコ』の問題です。色々調べました。peepというチャットノベルアプリを運営しているtaskey株式会社がそこに掲載されていたチャットノベル『小悪魔教師サイコ』の著作権を【管理】していたそうです。そして、それらを原作に漫画を作りませんかと出版社であるぶんか社に営業しました。ぶんか社は漫画家である合田蛍冬先生に作画を依頼し、漫画版『小悪魔教師サイコ』を自社レーベルで連載させました。ここまではよくある形です。ですが、ここから異変が起こります。なんと著作権を管理していたはずのtaskey株式会社がWEBTOONスタジオを立ち上げ『小悪魔教師サイコ』のWEBTOONを連載開始したのです。つまり著作権を管理していただけのはずのtaskey株式会社が著作権者になり、しかも自社で配信し始めちゃったんですよね。今の時代にしか起こり得ない事態です。  この件自体の是非は僕は述べません。(※もちろん思うことはあります‼️)taskey社、ぶんか社、合田蛍冬先生、それぞれの言い分があるでしょう。それを判断するのは裁判所です。ただ、今後の漫画業界、WEBTOON業界のためにも3者はそれぞれの主張を是非、隠匿することなく公開していただきたいです。いや、著作権をtaskey社に預けている原作者である三石メガネ先生の見解も是非聞きたいです。そしてそれを法がどう判断するのか? その判決はこれからの時代を決める大切な判例になります。 新時代の悩めるクリエイター達にエールを送ります。株式会社コミックルームは全てクリエイターを応援する会社です

2023-08-30 09:23:48
石橋和章 | Zoo | 漫画編集者&原作者&経営者🎨 @mikunikko

ほぼ漫画業界コラム⑩ たまには漫画編集者っぽく創作の種になようような事を書きましょうか。今回のお題は【アイデアの出し方】 最初に僕の中の答えを言っておきます。ズバリ、インプットとアウトプットのバランスです。これでピンときた方は以降読む必要が無いくらいです。でも、丁寧に書きます。インプットとは入力作業です。本を読む、漫画を読む、映画を見る、人の話を聞く、色んな体験をする、このような事を繰り返して脳に様々な情報を詰め込む事です。アウトプットは逆でこのように文章を書く、シナリオを描く、絵を描く、人に自分の事を話すなど外の世界に情報を出力するという事をです。 で、創作が上手く出来ないって方は、インとアウトのバランスが悪いって人が殆どです。インプットが少ない人は分かりますよね。漫画も映画も小説も読んでなくてアイデアが出ないのならば、読めば良いでしょう。観れば良いでしょう。でも、経験上、創作者志望の方で何年も燻っている方は、大抵アウトプットが少ないです。つまんなくても、評価されなくもどんどん書きましょう、作りましょう。食ってばかりで出さないから、体の中に溜まってぶくぶく太って動けなくなるんです。 僕は原作者としては多産な方だと思います。週刊連載4本、短編や読切も月に2、3本書きます。新企画の1話目とか大量にストックがあります。最近はこうやってコラムもほぼ毎日。僕以外の弊社の幹部も全員それぐらいアウトプットしてます。じゃあ、どれぐらいインプットしているのか? そう言われると少なくとも僕は、大してしてません。最近は映画も月に1、2本程度、小説は1冊。漫画はトレンドを追うために読んでますが、流し読みです。もちろん最近は経営本やマネジメントやマーケティングの本を大量に読み漁ってますが、ある程度身に付いたら読まなくなるでしょう。創作ノウハウの本も、殆ど読まなくなりました。飲み会で人に会うのは好きですが、アル中なので翌日ろくすっぽ覚えていません。アウトプット過多なので、脳がスッカスッカになる感覚がたまにあります。インプットが少なすぎるのです。そうなった時に、慌てて本を読んだり、興味ある人に取材したりします。そうすると情報が感情が脳に染みいるように入力される。あの感覚が好きです。サウナの後の水風呂みたいな。違うか。体が飢餓状態の時に食べた食物はしっかりと栄養を摂取できるじゃないですか。そうすると多少、少食でも生きていけるんです。つまり創作なんかう○こみたいなモノなんです。食べ過ぎも良くないのです。必要食材を必要な量摂取すれば良いのですそうすれば良いうん○が出ます。以上うんこの話でした。・・・・!? 違う!以上創作の話でした! 悩める創作者にエールを送りたいと思います。株式会社コミックルームは全ての創作者を応援する会社です。

2023-08-31 07:40:44
石橋和章 | Zoo | 漫画編集者&原作者&経営者🎨 @mikunikko

ほぼ漫画業界コラム11 本日は趣向を変えて僕の回顧録とします。お題はそうだな…僕が編集者になった2001年〜2003年をテーマを書きましょう。回顧録第1章【エニックスお家騒動】です。 1・就職活動 僕が漫画編集者を志したのは、大学4年。当時は就職活動も中盤を超えた4月ぐらいの事だった。当時、大流行していたパチスロ4号機で学費も生活費も十分に賄えたため、バイトもせずに、自堕落な生活を謳歌していた僕は焦っていた。前年の2000年に起きたITバブル崩壊の煽りをうけ、採用状況が最悪だったからだ。そもそも自分がどんな仕事をしたいかも分からず、何かを頑張った記憶なんて受験ぐらいしか思いつかないダメ人間だった僕は、様々な業種を受け、面接に落ち続けていた。 一番の問題は自己PRだった。本当に何も頑張っていない学生だったのだから。だが、就職せねばならぬ。来年から働かねばならぬ。何か一つくらい、人より秀でていることはないのか、自問自答の日々の中で、唯一僕が辿り着いたのが漫画だった。 描いているわけではない。ただ読んでいるだけだ。でも自信があった。TVも民放2局しかない田舎の福井県坂井市三国町で育った少年時代、インターネットも無かったその時代。親も厳しく、ゲームも制限されていた僕にとって唯一の娯楽は漫画だった。手に入るあらゆる漫画は全て熟読していた。ジャンプ、マガジン、サンデー、チャンピオンなどの少年誌を初め、ヤンマガもヤンジャン、ヤングサンデーも漫画ゴラクやアクションも男性向けは全て読んでいた。妹が買ってくるリボンやなかよしや少コミも目を通していた。浪人時代には古い漫画に興味が出て生きた。手塚治虫に石ノ森章太郎、永井豪作品に夢中になった。 大学時代も漫画は大好きだった。漫画喫茶に入り浸り、コンビニではあらゆる週刊漫画誌を読んでいた。当然立ち読みである。別に仕事にしようと思っていなかった。単に漫画を読んでいる時が幸せだっただけなのだが。 とにかく僕は就職活動の自己PRにこれを取り入れた。相手が銀行だろうが、商社だろうがメーカーだろうが関係ない。誰よりも漫画を読んでいますというのをPRした。尊敬する人は範馬勇次郎氏と答えた。馬鹿な解答だと思う人も多いかもしれない。だが、これが面接で大ウケした。面接官も皆漫画が好きだったからだ。そこから僕は内定を取りまくった。面接で落ちることは無くなった。倍率1000倍越えの企業でさえ次々と内定を貰えるようになった。 その時、ふと思った。漫画を仕事に出来ないかと。僕は漫画を描いたことはない。だが漫画は描けなくても、漫画に携われる仕事があるのを知っていた。漫画編集者だ。土田世紀さんの『編集王』という作品を読んでいた。何のスキルもなくてもやれるし、漫画を沢山読んでいる僕ならやれるという自信もあった。だが季節は既に3月。大手出版社は採用を終了していた。 諦めて内定が出ていた新聞社にでも入ろうかと思っていた時に、株式会社エニックスの求人を見つけた。ドラクエの会社だ。僕はゲームはあまりやらないので、ゲームのコミカライズが多いガンガンはほとんど知らなかったが『ロトの紋章』と『南国少年パプワくん』だけ好んで読んでいた。エントリーシートの受付は5月。まだやれる。僕は応募し、見事に内定を勝ち取った。倍率は3000倍だったと思う。漫画を沢山読んでいるPRで乗り切った。漫画ありがとうマジで。でも一番ウケたのは『グラップラー刃牙』の最大トーナメントでデントラニー・シットパイカーVSズールの話をした時だ。もしかして感謝すべき対象は『グラップラー刃牙』であり、板垣恵介先生なのかもしれない。 2.ガンガンWING 2001年晴れてエニックスに僕は就職した。配属先はガンガンWING編集部。え? ガンガンWING? 初めて聞く雑誌なんですけど。僕は基本、月曜日から金曜日まで毎朝コンビニで漫画誌を立ち読みするのが日課だった。毎日何かしらの漫画雑誌が並んでいて毎日の楽しみだった。気に入った作品を見つければ単行本で買うというスタイルだった。ちなみにこの経験が後のWEB漫画サイト『裏サンデー』の構想に繋がるのだが。 そんな僕にとってコンビニに置いてない『ガンガンWING』は未知の存在だった。読んでみても面白さが分からない。当時のエニックスの漫画は明らかに大手出版社の漫画とは違う文法で作られていた。今から思えば名作揃いだったのだが読み方が分からなければ、それは理解できない。そうガンガンWINGはゲームユーザーの嗜好に合わせた漫画作りをしていたのだ。僕はゲームユーザーではなかった。 3エニックスお家騒動 とはいえ漫画雑誌は漫画雑誌。とにかく面白い漫画を作れば良いだけだ。桃井環八(※編集王の主人公)のように熱い気持ちで漫画家さんにぶつかろうと燃えていた。だが、現場の上司たちの熱が低く感じた。特に編集長。僕に対して明らかに興味がない。そうか新入社員は放置プレイというのが、エニックスの教育スタイルなのかと納得していた。が、おかしなことが起き始めた。ガンガンWINGの人気作品が上から一つ、また一つと終わっていくのだ。そして当時の編集長は2001年5月の後半のある日、会議で切り出した。エニックスを辞めるということ、そしてこれまでの作家さんを全員連れて新しい会社を作るということを。そして6月、7人いた編集部は3人になっていた。主要な連載作家はほぼいなくなった。これはガンガンWINGだけでなく、本誌の少年ガンガンや、女性向け漫画誌のステンシル、峰倉和也氏の『最遊記』が載っていたGファンタジーでも起きた現象だ。当時の編集長たちは自分の担当作家を連れだして起業した。この事件は僕に取って漫画編集者の力の強さを教えてくれた。そうか、漫画家は会社でも雑誌でもなく編集者に着いてくるのだと。残された社員たちが怒りと悲しみで騒然としている中、僕はガッツポーズをしていた。これはチャンスだと。人がいなくなった以上、新入社員だろうが僕を打席に立たせるしかない。 4中村光 入社して3ヶ月。実は既に複数の担当作家を確保していた。コミケなどの同人誌即売会で名刺を配ったり、当時、黎明期だった個人サイトで漫画を公開していたWEB漫画家達に声をかけていたからだ。特にWEBマンガサイトは穴場だった。まだネットで作家を探すという行為はどの編集者もしていなかった。また、編集部の新人賞に送られてきた新人作家さんに達も片っ端から声をかけた。デビューにはまだ少し早い新人さん達が殆どだったが関係ない。作家が殆どいなくなったのだ。このままでは白紙が延々と乗るとんでもない雑誌を発行するしかない。大手出版社の新卒編集者は3ヶ月は研修期間。その後、3年くらい雑用をこなして、ようやく担当編集をやらせて貰えるという、そんな時代に、僕は入社して3ヶ月で5本の担当をさせてもらえる事になった。2本は先輩からの引き継ぎ作品。『テイルズオブエターニア』と『ヴァルキリープロファイル』のコミカライズ作品だった。これを担当するために久しぶりにゲームをやり込んだ。辛かった。ゲームは苦手だった。 ただオリジナル作品の立ち上げ作品もやらせてもらった。そのうちの1作品は、のちに『荒川アンダーザブリッジ』を共に立ち上げる中村光の作品だった。 当時、中村光はまだ15歳の中学生だった。ただ、投稿作からとんでもないセンスがあった。エニックス作品というより、モーニングやスピリッツに載ってそうな雰囲気だったが、この後紹介する新しい編集長を説得し、連載企画を通した。『中村工房』というショートギャグの盛り合わせだ。楽しい作品だった。各作品や各作家の話を入れてしまうと、話が終わらないために、その辺は割愛するが中村光はともかく天才だった。その天才のデビュー作に携われたのは幸運だった。 5くぼやん だが、そう上手くは事が進まない。社会人経験も編集経験もゼロの僕が、同じく初連載の新人作家と組むのだ。当然作る作品、作る作品人気が出なかった。商業漫画は漫画家の力と編集者の力の掛け算で数字で結果が出るのだ。僕の実力が足りなかった。いくらやる気があってもどうしようもなかった。作品は次々と打ち切りに合い、僕は失意のどん底に落ちた。作家さん達にも申し訳なかった。すぐに打ち切りにする当時の編集長を恨みにも思った。ガンガンWINGは残された編集者が必然的に編集長になった。窪田健一編集長だ。『妖狐×僕SS』の藤原ここあ氏や『まほらば』の小島あきら氏を世に出し、廃刊寸前のガンガンWINGを存続させ、その後継誌であり、今もなおヒットを出し続ける『ガンガンJoker』の後の編集長だ。スクエニ初のWEB漫画サイト『ガンガンONLINE』の初代編集長でもある。僕が最も尊敬する編集者の一人である。ただ、当時はやることなすことにダメ出しをする憎き敵だった。彼は常々言っていた。ヒット作を出していない編集者に価値はない。つまりお前に価値は無いと言い放った。その時は随分憎悪した。まさか20年後には家族ぐるみで付き合うくらいに仲良くなる彼だったが、くぼやんと気軽に呼べるようになるとはこの時は知らなかった。ちなみに今の僕はヒット作を出せない漫画編集者に価値は無いと考えている。もちろん人として価値がないと言うわけでは無い。要はプロであれと言う事だ。 6死にたい まあ、当時はそこまで考えは及ばずに僕はあっという間に僕はメンタルを崩した。オリジナル作品はすべて打ち切られた。自分では面白いと思う作品ばかりだったが、続けさせてもらえなかった。記事ページや広告ページ、プレゼントページ等、全ての雑用は新人だった僕一人の仕事だ。月刊誌とは言え、アナログでそれらの作業を一人でこなすのは完全にキャパオーバーだった。さらに予算をクリアするために一冊146Pのゲームアンソロジーを年に8冊一人で手がけた。ある日、限界が来た。涙が止まらなくなるのだ。僕は転職活動を始めた。大手教育系の出版社にすぐさま内定が出た。面接の腕は落ちていなかった。が、僕はその内定を辞退した。内定が出た頃に、立ち上げた新連載がアンケートで2位を取ったのだ。希望が見えた。漫画家と二人三脚で行う漫画作りという仕事自体は本当に楽しかったのだ。漫画編集者の仕事を続けたかった。だが、その作品もすぐに打ち切りが決まった。何故!? アンケートは相変わらずいいのに!! 【単行本の1巻が売れていない】打ち切られた理由はそれだった。せめて2巻の結果まで待ってくれと窪田編集長に懇願したが、ダメだった。作家さんに泣きながら謝った。限界を超えた。入社から3年が経った2003年。僕は完全にやる気を失った。もう漫画編集はやりたくなかった。だってどうせ打ち切られるのだから。人間に大切なのは自己肯定感だ。それがゼロになると、人は生きていけなくなる。僕のそれはゼロになる寸前だった。僕は、自己肯定感が元々低い人間だ。ここまで擦り切れると、常に死にたい気持ちになってくる。「死にたい」といって、若くして結婚していた僕は当時の妻を困らせていた。なんとか再び転職活動に取り組もうとしていた所、当時ガンガン本誌にいた、ある先輩編集者が声をかけてきた。新しい雑誌を作らないか? 次号第二章 【ヤングガンガン】を書きます

2023-09-01 10:48:29
石橋和章 | Zoo | 漫画編集者&原作者&経営者🎨 @mikunikko

ほぼ漫画業界コラム12 まとめたりnoteに投稿したりは後にします。まずは量産。回顧録第2章2004年〜2006年のお話です。タイトルは【ヤングガンガン】 1【鋼の錬金術師】 声をかけてくれたのは後にヤングガンガンの編集長になる中野崇氏だった。 びっくりするほどのイケメンで社内で異彩を放っていたガンガンの編集者だ。当時、ガンガン編集部はとても活気があった。エニックスお家騒動後、空白化したガンガンで連載をスタートした荒川弘氏の『鋼の錬金術師』が大人気作と化していたからだ。鋼の錬金術師は1話を読んだ瞬間に衝撃に震えた。そして僕は激しい嫉妬を覚えた。あんな王道作品が作れるなんて。ジャンプでもアンケート1位をとれそうな本物の少年漫画だ。悔しかった。当時のガンガン編集部は、お家騒動で作家の入れ替えが起きた結果、連載ラインナップがガラリと変わった。『鋼の錬金術師』以外にも大久保篤氏の『ソウルイーター』や、『ナルト』の岸本斉史氏の双子の弟・聖史氏が作った『サタン』など、ジャンプに乗りそうないわゆる王道少年漫画が始まっていた。僕が一番作りたいジャンルだった。僕は漫画オタクではあったが、いわゆる世間がイメージするオタクではなかった。当時は『あずまんが大王』や『らぶヒナ』などの影響で、美少女が沢山出てくる、“萌え系”と呼ばれる作品がトレンドだった。ガンガンWINGのようなマイナー氏には、そういう作品が求められた。だが、当時の僕はそんな作品が作れなかった。腐って漫画作りを諦めて、社内で雑用や作りたくもないゲームアンソロジーの仕事を黙々としている僕にとって、ガンガン編集部の活気ある姿は目に毒だった。編集者達がイキイキと仕事をし、売上が伸びていく。アニメ化や映画化の声が次々と聞こえる。やめてくれ、そんな姿見せないでくれ、そんな声聞かせないでくれ。ひたすら自分が惨めに思えた。そんな時にガンガンにいた中野さんの「新しい雑誌作らないか?」という声は神の声だった。  話を聞くとどうやら中野さんは、部長に新雑誌『ヤングガンガン』の企画書を通したらしい。ヤングガンガン! 良いじゃないの! 当時の僕は25歳。ヤング誌はストライクだ。ヤングマガジンやヤングジャンプそしてヤングサンデーの愛読者だった。すぐさま異動を希望した。そしてすぐに受理された。既にガンガンWINGの窪田編集長とは関係が完全に悪化していたし、オリジナル作品はすべて打ち切り。なんの未練もなかった。それどころか僕は漫画編集者をやめるつもりだったから常に不貞腐れて、常に反抗的な態度をとっていたのだから。 2【ハリウッドリライティングバイブル】 会議室で新雑誌創刊会議が始まった。最初のメンバーは5人。皆、30代中盤で僕一人だけ20代だった。10歳近く年上の、大人の編集者に囲まれた僕は気分が高揚していた。今度は絶対に結果を出してやろう、そう心に誓った。ヤングガンガンを本格創刊する前に、いつのまにがスクウェアと合体してスクウェア・エニックスと化していた会社から1年間の準備期間が与えられた。その間に4冊の増刊を出す事になっていた。その雑誌の名は『ガンガンYG』。ヤングガンガンを名乗らなかったのは、あくまで実験雑誌でヤングガンガンの名前は温存したいとかそんな理由だったと思う。1年間の準備期間は僕にとって編集者青春時代だ。毎日のように中野編集長に連れられて夜の街を飲み歩いた。新創刊メンバーと夢の雑誌について語り合った。だが、楽しいだけではすまない。1年後には戦いが始まる。僕は念入りに準備を始めた。まずは増刊で結果を出さねばならない。必要なのは作家と自身のスキルアップだ。僕は書店に駆け込み、あらゆる脚本の本を買い漁った。僕が担当してきたのは新人作家だ。新人作家は総じて構成が苦手だ。自分が描きたいものを上手く規定のP数に落とし込めないのだ。そして僕も構成が理解できていなかった。起承転結の意味がわからない。日本の脚本や小説の教科書も役に立たなかった。どれも漫画には落とし込めなかった。が、そんな時に出会った一冊の本がそれを変えた。その『ハリウッドリライティングバイブル(愛育社刊)』は僕に取って衝撃的だった。ハリウッドで使われる脚本学をまとめたそれは3幕構成を分かりやすく解説し、読者の感情を思い通りに動かす手法を明かしていた。僕はよく出来ている漫画の1話を3幕構成で分解してみた。なるほど、よく出来ている漫画は例外なく構成が完璧だったのだ。僕は構成力をすぐに身につけた。これで構成が苦手な作家をサポートできる。 3【ヤングガンガン創刊メンバー】 僕は作家を探していた。ガンガンWINGからは中村光氏だけ連れ出した。彼女の作風はヤング誌ならバッチリマッチすると思ったからだ。だが一人じゃ足りない。ガンガンWING時代に削られてしまった、自己肯定感を回復させるためには圧倒的な結果を出さねばならない。アンケート1位から5位くらいまで僕一人の担当作で独占しようと、強者揃いの先輩編集者の中でいきりたっていた。ネットを巡回し、良さそうな作家さんを探した。『WORKING!』の高津カリノ氏や『マンホール』の筒井哲也氏は執筆を快諾してくれた。さらに当時、大好きだった小説家、原田宗典氏の『平成トムソーヤ』をコミカライズするために、後に『お前はまだグンマを知らない。』をヒットさせる井田ヒロト氏に声をかけた。だが、まだ足りない。そんな時に、当時のスクエニマンガ大賞で大賞を取った作家がいた。大高忍、当時19歳だった彼女は全編集部から満場一致で大賞に押された。すごい作品だった。とにかく荒いがエネルギーに満ち溢れている。頭の中に『鋼の錬金術師』がよぎった。彼女となら、あれに並ぶ作品が作れるかもしれない。僕は中野編集長に担当になりたいとせがんだ。最初は断られたがしつこく頼み込んだ。最後に中野さんが折れた。僕は大高忍の担当になった。 4【すもももももも〜地上最強のヨメ〜】 大高忍と出会い打ち合わせを重ねた。彼女は間違いなく本格的な少年漫画を書ける才能がある。本人も描きたがっていた。だが、まだ早いと思った。才能があるとはいえ19歳の新人だ。本格的な王道作品を作るには画力が足りないと思った。それにそもそもヤングガンガンはまだ、これからの媒体。どんなものが主流になるか分からない。それに大賞作家の初連載、絶対に失敗するわけにはいかない。僕が彼女のデビュー作に選んだジャンルは、僕が毛嫌いしていた美少女ラブコメだった。何がなんでも勝たねばならないのだ。『鋼の錬金術師』のようなトレンドを作る作品を目指すのはリスクが高い。トレンドを作るのは力をつけてから。僕はトレンドに乗る事にした。だが、トレンドに乗るのはあくまでもジャンルだけ、漫画の構成は少年漫画を意識した。あとからジワジワ人気が出るタイプではなく、1話目で1位をとるような作品を作る事に決めた。だが、それが難しかった。頭の中に検索をかけた。ワンピースもコナンも1話目から凄かったが1話目で感動までは行かないと思った。物語はいかに読み手の感情を動かすかどうかだ。では1話40P前後で人の心を動かす作品ってどんな作品だろう。1作品だけ思いついた。雷句誠氏の『金色のガッシュ』だ。2001年にサンデーで連載を開始したそれは僕には『鋼の錬金術師』以上に衝撃を与えた。1話目を読んだ時に号泣してしまったのだ。今でもあれ以上に完璧な1話の作品はないと考えている。僕は金色のガッシュ1巻を数冊買って、1話を切り取った。そしてそれを1Pずつノートに貼り研究を続けた。そしてその構成を完全にトレースしてラブコメを大高忍に作ってもらおう事にした。その結果出来たのが『すもももももも〜地上最強のヨメ〜』だ。そしてついに創刊したガンガンYGに掲載されたその1話は看板だった藤原カムイ先生の『ロトの紋章〜紋章を継ぐ者達へ〜』を抑え読者アンケート1位を取った。 5【ヤングガンガン編集部】 ヤングガンガンが創刊された。僕の立ち上げた担当作は中村光の『荒川アンダーザブリッジ』、原田宗典先生の『平成トムソーヤ』を原作にした井田ヒロトの『戦線スパイクヒルズ』、筒井哲也宇氏の『リセット』『マンホール』、高津カリノ『WORKING!』そして『すもも』だった。どの作品も順調だった。すももは常にランキンング1位をとっていたし、他の作品もまずますの人気だった。唯一、『荒川ダンダーザブリッジ』は苦戦していたが心配していなかった。いつか世間が気付く日まで淡々と連載を続ければ良い。そもそも中野編集長が中村光を気に入っていたので打ち切りの心配はないだろう。忙しくも楽しい日々だった。すももは1巻が出てすぐ重版。アニメ化のオファーも来た。他の作品も徐々に人気が上がり、単行本は続々と重版がかかり始めた。編集部にも人が増え始めた。皆、優秀な編集者だった。中でも現在はLINEマンガで編集長をしている藤田健馬氏を僕はライバルと捉えた。年も近いし、藤田さんが立ち上げた『黒神』はすももの後ろに2位として常に張り付いてきた。この作品には藤田さん以外にも韓国人の担当編集がついた。後に『俺だけレベルアップな件』を日本で展開し、今WEBTOONでトップクラスのスタジオ株式会社レッドセブンを起業するイ・ヒョンソク氏だ。今ではWEBTOONの第一人者として講演を続ける彼だが、その時は毎夜、歌舞伎町で共にはしゃぐ飲み友達でもあった。なぜか僕とイさんは、すぐに仲良くなった。僕に初めてできた外国人の友達だ。勉強熱心で作品作りに真摯でちょっとエッチなところもまた魅力的だった。さらに、もう一人面白い先輩がいた。北村敦氏という編集者だ。若干思想が右寄りで竹島問題なんかでイさんと居酒屋でよく論争をしていた。僕は二人の論争を聞くのが好きでしょっちゅう3人で飲みに行った。目の前で『朝まで生テレビ』をみている気分だった。北村さんはシナリオを自分で書く編集者だった。後に僕がシナリオを書いて担当作家に渡すようになったのは彼の影響だ。彼の代表作には、ダークファンタジーの名作『ユーベルブラット』がある。ちなみに最近でも僕とイさんは飲みにいく事がある。北村さんの話もする。ただ、北村さんはそこにはいない。理由はいつか語る。 藤田さんやイさん、北村さん以外にも、ヒット作を手掛ける編集者は沢山いた。『セキレイ』や『バンブーブレード』『少年探偵犬神ゲル』『死が二人を別つまで』『咲』などヤングガンガンから次々とヒット作が生まれた。だが編集部で圧倒的に結果を出している編集者は僕だった。周りからエースだなんだと言われて、僕は調子に乗っていた。ガンガンWING時代に失った自己肯定感、自尊心を取り戻し調子に乗りまくった。 6【上がらない給料】 だが、ある日気づいた。僕の給料は入社以来6年間全く上がっていなかった。額面430万ほど。初任給としては高かったが、全く上がっていない。僕の同期に相談した。僕の同期は二人だけで、そのうちの一人は『黒執事』の担当編集で有名な熊剛くんだ。もちろん優秀な彼だったが、驚愕の事実を知った。熊くんの給料は僕より全然高かったのだ。 人間というのは面白いものだ。あれだけ高まっていた僕の、自己肯定感は一瞬で地に落ちた。担当作家はいつの間には大金持ちになっていた。同期も年収は上がっている。僕は貧乏のままだ。編集長や部長に猛抗議した。抗議の結果、月給が3万円上がった。が、手当が3万円削られて総支給額は変わらなかった。僕はとにかく上に噛み付く性格だった。まともな社会人教育もされずに現場に投入されたため、目上に対する礼儀や、配慮に欠けていた。協調性などの査定が悪かったのだ。ガンガンWING時代に僕の査定は最低になっていた。それはヤングガンガンになっても変わっていなかった。ガンガンWING、ヤングガンガン、二人の編集長から思えば扱いづらい部下だったのだろう。だが、結果を出す部下だ。もっと上手く使えばいいのにと考えた。今度は中野編集長を恨んだ。ヤングガンガンに呼んでもらった恩はとっくに返したと思っていた。編集長には編集長しかない苦悩がある事を当時の僕は知らなかった。彼らが味わっていた苦悩を後にマンガワンの編集長になった僕も味わうのだが。ただ、当時はそんな事はわからない。ただ漫画編集者の査定をどうあるべきか? それはこの頃から考えていたと思う。 7【そして転職へ】 僕は転職を決意した。馬鹿馬鹿しくてやってられなくなった。周りの編集者も好きで、作家さんも大切だった。可愛い後輩は入ってくるし、人間関係的には申し分ない。だが編集長も部長も気に食わない。僕を評価しない会社の元では働けないと、さっさと転職先を探した。三大出版社の小学館が中途採用を募集していた。すぐさまエントリーシートを書き、激務の最中に面接を重ねた。面接は僕の特技だ。分かりやすい実績もある。すぐに内定を貰った。年収は1200万ぐらい、つまり突然3倍近くになった。小学館、集英社、講談社。いわゆる三代出版社の給料が高いのは知っていたが、まさかここまでとは。しかも査定は一切なく給料が保障される。20年勤め上げれば生涯年金も貰える。福利厚生も沢山ある。夢のような環境だ。躊躇いなく辞表を出した。最初は慰留されたが、小学館の名前を出したら終わった。同じ待遇は出せないのだから。そして貰った6年間勤めた結果である80万円の退職金全額をモルディブ旅行につっこみ僕のスクエニでの編集生活はハッピーエンドを迎えた。実は、その時はもう小学館で頑張るつもりはなかった。漫画編集は十分やった。憧れだった水上コテージの上でカクテルを飲みながら、あとは緩い環境でのんびり人生を送ろう、そう考えていた。その後、僕は地獄を味わう事になるのだが・・・

2023-09-02 09:21:22
石橋和章 | Zoo | 漫画編集者&原作者&経営者🎨 @mikunikko

ほぼ漫画業界コラム13  回顧録第三章【週刊少年サンデー】です。一気に書くぞ! 1【溶けた脳みそ】 2006年10月、僕は小学館に中途入社した。中途の同期は8人。皆、中堅出版社などからの転職だ。ただ漫画編集者は僕だけだった。同期は皆美人ばかり。しかもお洒落。当時、蛯原友里さんなどの人気でCanCanなどの女性誌が絶好調だった。小学館は女性ファッション誌の編集者や広告の営業マンの採用を強化していた。同期は皆華やかで爽やかで、小汚い漫画編集者の僕とは全然違った。でも、爽やかな彼女達は僕にもとても優しく接してくれた。そこから1ヶ月間も、彼女達と楽しく研修を過ごした。そもそもスクエニから小学館に転職する間に2ヶ月ほど、僕は有給消化で働かずに過ごしていた。海外旅行に行きまくり、何も考えず豪遊していた。さらにそこにこの1ヶ月の研修期間が加わった。漫画編集者を辞めて3ヶ月である。たった3ヶ月でスクエニでの僕の激闘の日々は遠い過去になっていた。簡単に言うと僕の脳みそは溶けていた。顔つきは穏やかになり何のストレスもない毎日に、あっと言う間に順応した。3ヶ月間、漫画も読まなかった。研修が終わり、配属が決まるその日、僕は何かの間違いでCanCan配属になったりして〜とかさえ考えていた。蛯ちゃんに会いたかった。そして僕の配属が決まった。週刊少年サンデーだった。顔が曇った。まあ、漫画編集部に配属になるのは仕方ないとしても週刊誌は嫌だった。ガンガンWINGは月刊誌でヤングガンガンも隔週誌だ、毎週、原稿が上がるイメージが全く湧かなかった。しかも僕の脳みそは溶けている。週刊連載を立ち上げるなんか無理だ。 だが、またこうとも思った。必ずしても立ち上げる必要はない? 例えば引継ぎは?そうだ、既に週刊連載を回しているヒット作家の担当を引き継いで貰えば良いのだ‼︎ それに週刊少年サンデーには僕が大好きな作品を書く漫画家が4人もいた!! 人生のバイブルとしている『今日から俺は!』の西森博之先生、高校時代に泣かされた『うしおととら』の藤田和日郎先生、『名探偵コナン』の青山剛昌先生、そして何より僕に漫画編集者としての初めての成功体験のきっかけとなった『金色のガッシュ』の雷句誠先生がいる! この4人の先生の誰かの担当を希望しよう! 絶対に楽しい。おそらく話を僕が考える必要もない天才達だ。担当しているだけで、仕事してるっぽく見えるに違いない。どうせ働いても働かなくても年収が変わらない会社だ。出来るだけ安楽な環境で安楽に過ごしてやる!  そう強く心に念じて僕は編集部の扉を叩いた。僕はすでに漫画編集者は6年目だ。ヒット作も出しまくっている。少年サンデーとは言えこれだけ実績を持っている20代はいるはずもない。ある程度のポジションは約束されるだろう。そう思いながら編集部の扉を叩いた。配属されたその日、まだ人がまばらな編集部で編集長は僕をちらりと見て僕のネームプレートを持ってきた。そしてそれを編集者の名前が羅列してあるホワイトボードに貼った。一番下であった。この並びになんの意味があるのか?それは編集部の序列であった。その日から、僕は編集部のカーストの最底辺に置かれた。 2【サンデー編集部の洗礼】 雑用から、記事ページから、飲み会のセッティングから、弁当とりからすべてやらされた。それに対する僕の仕事は最低レベルだと毎日のように怒られ、怒鳴られた。得意なはずの記事ページも、ラフの書き方が下手すぎると何度も直しを要求された。編集部に一人残って深夜まで雑用をこなしていた。TVからアニメ化されたすもものOPが流れてきた。涙が出てきた。ちょっと前までエースだ何だと言われて調子に乗っていたのに、ここでは僕は最底辺だった。毎日怒られ続ける内に、僕の自己肯定感は再びゼロに近くなってきた。 流石に中途入社だからと僕には連載作の引継ぎが与えられたが、僕には面白さがよく分からないシュールなギャグ漫画だった。アンケートも元々ビリ近くであった。漫画家と会った時に漫画家は僕に「どうぞ」といった。??? 話を聞くとこの作品は、毎回話を担当が考えるらしい。その漫画家は僕に次回の話のネタを出すように要求するのだ。戸惑いながらも僕は主人公が巨大なカブトムシと相撲を取るという話はどうかと言った。よく分からなかった。良いですねと漫画家は答え、帰っていった。・・・良いのか。ネームが出来、原稿になり校了に回した。副編集長にゲラをチェックしてもらった。副編集長はその漫画がつまらない、お前は何も漫画を分かっていない。コマ割りもテンポも全然ダメだ。レベルが低すぎる!と説教を始めた。 これは毎週続けられた。長い時は2時間立ちっぱなしで怒られ続ける。シュールなギャグ漫画なので何が正解かわからない。アンケートは多少は上がっているが、僕が担当になってから全然つまらないと毎週、立ちっぱなしで説教を受ける。おかしくなりそうであった。サンデーの先輩方はスクエニで僕の立ち上げた作品はどれも知らなかった。彼等が見ているのはジャンプとマガジンの作品だけだった。そして毎日のような飲み会。飲み会は2次会、3次会とあり、新人の僕には帰ることは許されない。そこでもひたすら説教を受けた。僕のあらゆる仕事のレベルが低いと。僕の自尊心はその時、地の底まで落ちていた。脳みそも溶けていたので何も良い返さなかった。もう何も言わぬロボットのようになっている自分を見て、ある編集者が僕に言った。 『やっぱりゲーム会社の編集部ではまともな編集者教育を受けていないんだろうなと』 この言葉が、脳みそが溶けてロボットになっていた僕にようやく火をつけた。この言葉を許せなかった。僕だけではない、僕が尊敬する過去のスクエニの編集者達もバカにされているような気がした。そして、僕にこのように接してくる編集者の全員が過去にヒット作を立ち上げた事がない編集者ばかりだった。むしろサンデーのヒット編集者は、こんな飲み会に来ていなかった。忙しくて作家の元にいるのだ。ヒット作を出せない編集者には価値がない。尊敬するスクエニの窪田さんの言葉だ。こんな価値もない人々にこれ以上バカにされて良いはずがない。僕は心の中でスクエニの代表作『鋼の錬金術師』の有名な台詞を呟いた。 【立てよド三流 オレ達とお前との格の違いってやつを見せてやる】 3【林正人編集長】 覆す方法は知っている。ヒット作を立ち上げればいいのだ。漫画編集者なのだからスクエニ時代と同じだ。だが、サンデーでの難易度は高い。まず一番の難関が“サンデー純血主義”。基本、余程の例外を除いてサンデーの企画はサンデー生え抜きの作家にしか企画提出すら許されてなかった。サンデー生え抜きとは即ち、サンデーの新人漫画賞を受賞した作家である。つまり新人賞を受賞した作家の担当になるしか企画を提出出来ないのだ。だが、中途の僕がいくら担当希望を出そうと、作家が割り当てられる事はなかった。サンデー純血主義は編集者に対しても発動される。仕方がないのでスクエニで担当していてまだデビューしていない作家達に、サンデーの新人賞に出してもらった。でも他の編集者に取られるわけには行かないので、自分が仮担当と書いて出した。だが、彼らが受賞する事は無かった。新人賞の評価欄には5段階評価で1点がならんでいた。僕が仮担当の作品に誰も点を付けないのだ。新人賞が取れないのでその作家たちは企画が出せない。彼らはその直後スクエニでデビューして人気作家になっていった。やばい打つ手がない。まずはこの延々と続くいじめ行為をやめ手もらわねば。 僕は流石に当時の編集長に相談した。林正人編集長、藤田和日郎氏の『からくりサーカス』などを立ち上げた敏腕だ。僕にとっては3人目の編集長。僕はスクエニ時代のように一方的に上を攻め立てるのをやめた。編集長だって人間だ。一方的に詰めてくる部下を好きになれるはずがない。林編集長はまだサンデーの編集長になりたてだった。強烈な個性の編集者や漫画家をまとめるのに四苦八苦していた。そのせいで僕が置かれている状況に気付いていなかった。僕は編集長の気持ちに寄り添って話をしようと考えた。30前にして僕は少し大人になっていた。編集長には、このままだと僕は潰れるという事。高いコストを払って採用したのに、勿体なくないですか?と交渉を始めた。僕は企業体質が違う場所で育った編集者だという事、自分のこれまでの実績などをもう一度話した。さらに新卒扱いは辞めてほしい、僕は必ずヒットを出す。一度でいいから打席に立たせてほしい旨を伝えた。林編集長は連載中の作品で引き継ぎたい作品はあるか聞いてきたが、僕はNoと答えた。引き継ぎだと実力が示せない。僕は立ち上げ専門の編集者だと。誰か一人、可能性がある作家を担当させてほしいと伝えた。 編集長は、しばらく考えて一人の作家を提案してくれた。これが失敗したら、次は無いと言った。僕は大丈夫です。100%ヒットさせますと答えた。そして、ようやく担当をさせてもらえたのが・・・・若木民喜氏だった。 4.若木民喜氏と神のみぞ知るセカイの話 紹介された若木さんは僕より5歳上の男性だった。京都大学卒のインテリでエロゲが大好きでエロゲサイトの管理人もしていた。僕は若干の不安を覚えた。男性作家は殆ど担当したことがないのだ。一人いたが酷く怒らせて担当を降りた事がある。僕は作品に対して歯に衣着せぬ物言いをする。多くの作家を傷つけてきたが、作品作りには率直な物言いが必要だと考えているので考えを改める気はなかった。作品がヒットする事が、なによりもその作家のためになるのだから。男性同士、歳上、学歴も僕より上、何より僕が苦手なゲーム好き。僕の話を聞いてくれるのか。だが、やらねばならない。絶対にヒットさせる。僕は若木さんに、僕は命がけで作品をヒットさせる事を誓った。だから無礼なやりとりや、繰り返されるであろう直しの指示もこらえて聞いてくれと頼んだ。若木さんは了承してくれた。若木さんは前作を打ち切られていた。30半場の若木さんにとっても、命懸けの戦いの始まりだった。毎日のようなやりとりで僕は成功を確信した。若木さんは圧倒的に頭がいい。理が通っている話ならば、確実に聞いてくれる。ただし僕が言語化できない、感覚的な提案は拒否される。だからできる限りロジカルに、感覚を混ぜず、全てを言語化する事を徹底した。若木さんと打ち合わせをしていると、こちらのスキルも上昇していくのを感じた。入社時に溶けていた僕の脳みそは復活し、進化を始めた。この感覚は後にも先にも若木さんとだけだ。そして入社から半年たった頃『神のみぞ知るセカイ』は連載を開始した。コナンに負けて1位は逃すも初回のアンケートは2位だった。その後、何度か1位もとった。単行本1巻が発売されてすぐに重版がかかり、サンデーの看板作に一つになった。そして次第に、編集部の空気も変わってきた。ようやく僕を対等な仲間の一人として扱えてもらえるようになった。林編集長が結果を元に、周りに上手く話してくれたのだろうと感じた。そんなある日、編集部に激震が走った。『金色のガッシュ』の雷句誠先生が編集部を提訴したのだ。

2023-09-03 09:43:05
石橋和章 | Zoo | 漫画編集者&原作者&経営者🎨 @mikunikko

ほぼ漫画業界コラム14 回顧録第4章。タイトルは【雷句誠先生】です。 【純血主義、生え抜き主義】 少し時間を戻す。そんな風に『神のみぞ知るセカイ』がヒットし始めた頃、僕にはサンデー編集部で親しく連む編集者達が出来始めた。ほぼ皆、同じ歳だった。ガーくん、ヅカさん、ムッちゃんとしておく。その中でヅカさんは僕より一つ上の中途入社社員だった。つまりサンデーは2年連続で中途入社社員を編集部に迎え入れたのだ。これは上層部なりにサンデーの変革を期待していたという事だ。ガーくんも、ムッちゃんもサンデーの本流ではなかった。ガーくんは、最初は青年誌に配属されていたし、ムッちゃんは生え抜きだが、一度編集部を出たので生え抜き扱いされていなかった。キャラが増えてめんどくさいので以後全員“同期”と表記する。つまり僕の同期達は【純血主義、生え抜き主義】のサンデーで本流ではない人達だった。 サンデーで本流になれるのは、新入社員の時にサンデーに配属され、そのまま3年間編集部に残れた人だけだ。それが本流。いわゆるエリートだ。そして編集部へ投稿された作品は、エリートから優先に担当になる権利が与えられる。エリートは作家を育て、連載を次々と起こす。そして立ち上げた作品は、いずれエリート以外の編集者に引き継がれていく。そういうシステムが完成していた。立ち上げを沢山こなせるのでエリート達は成長が早い。実績が積み重なる。成功率が高くなる。ちなみにこのエリートの筆頭格が、有名な市原武法氏、後にゲッサンを立ち上げ、後にサンデー編集長になる人である。 逆に、エリート以外の編集者の仕事は決まっていた。進行が厳しくなったり、人気が出なかった作品の引継ぎ担当と雑用だった。エリートではない僕の同期は全員ヒット作を出せていなかった。当然だった。引継ぎ作品ばかり渡されて、新人がもらえないのだから。そんな中で僕はルールを破り編集長に直訴し、有望な若木民喜氏を担当させてもらいヒットさせた。もし僕がスクエニで立ち上げ経験が無ければそれは不可能だったであろう。その点で今回の事例は異例中の異例と言える。 同期たちはそんな僕に興味を持ってくれた。もちろん【純血主義、生え抜き主義】は明文化されたものではない。日本社会によくある、慣習、不文律、そういう奴だ。それはずっとそこで育った人間にはおかしな事かどうかは分からない。だが、外から来た僕にははっきり、おかしいと分かる。生え抜きだろうが、中途入社だろうが平等に打席に立たせるべきだ。そして結果を出せるものが重用されるべきなのだ。寿司屋の修行じゃあるまいし。いや、寿司だって最近はYOUTUBEで学んで独学で、素晴らしい職人になる人もいる。 僕は同期と共に編集長と交渉した。生え抜きではない僕たちにも有望な新人作家を担当させてくれと。神のみの成功で僕を信用してくれた林編集長は、快くOKしてくれた。 【純血主義、生え抜き主義】はサンデーというブランドを真に愛し、誇りを持っている編集者と作家だけがコンテンツを生み出す立場にいる事で、サンデーというブランドを強化するための手法らしい。馬鹿馬鹿しい。生え抜きだろうと、中途だろうとヒットを出す事が重要でしょと詰め寄った。すると意外にも林さんは「だよな」と答えた。林さんも前々からおかしいと思っていたようだ。慣習なんかそんなものだ。おまけに誰が作ったルールなんだと首を傾げ出した。誰かが生み出した謎ルールが、なぜかそのまま使い続けられる。日本社会でよくある単にそれだけの話だった。そもそも林さん自身、ジャンプから鈴木央先生を引き抜いて連載させていたのだから。真っ先に【純血主義、生え抜き主義】を破った編集長である。僕はこの人の下でなら、本気で働けると思った。 そして林編集長は当時、低迷しつつあった編集部を改革するために上層部が送り込んだ編集長だった。彼にとって、僕たちは改革を行うコマとして有望な存在だった。僕たちは林さんの下でサンデーの改革を行おうと毎夜話し合った。これは楽しそうだ。仕事とはイノベーションを起こすこと。当時はハマっていたGoogleの偉い人が言っていた。俺たちでサンデーにイノベーションを起こそう。僕たち同期4人は強く誓った。仕事が楽しくなってきた。・・・そんな矢先に事件が起きた。 2【雷句誠先生の訴え】 2007年、僕がサンデーにきて1年経たない時期にそれは起きた。雷句誠先生が、少年サンデーが原稿を失くしたと提訴したのだ。僕はかなりショックを受けた。ガッシュの1話は僕のバイブルでもある。だから僕は雷句先生を敬愛していたし、担当編集にいつか一度会わせて欲しいとせがんでいた。だが、その願いは叶わなかった。 確かに原稿を無くす事は良くないが、話し合いでなんとかならなかったのかと悲しく思った。現場の編集者達は訴状に実名を出されネットでバッシングを受けはじめた。 そこには同期の名前もあった。既に仲間となっていた彼らがそんな目に合うのは心が痛かった。訴状には一方的に、サンデーの編集者の無礼が書かれてていたが、それが真実かどうかは分からない。ただ大人気作家の雷句誠さんが言えば、それは事実になるのだ。TV、新聞あらゆるメディアが、一色に染まってサンデー編集部を叩いた。 編集部は騒然となった。心を病む人もあらわれた。僕も親からも心配の電話をもらった。地元の友人達からも、原稿無くすなと怒られた。SPA!のライターが、極悪編集部に潜入!なんてタイトルの記事で新人のフリをして持ち込みにきた。ある日など、僕に秋葉原の警察署から連絡が入った。職質で日本刀を持った男を捕まえたと。その男はサンデー編集部に持ち込みに行く予定だった。その日の持ち込み担当は僕だった。極悪編集部員の僕を斬り殺すつもりだったのか? 僕が入った頃、確かにサンデー編集部の空気は悪かった。だが皆、単なるサラリーマンなのだ。会社の命令で動いているのだ。本来会社の上層部が前に立ち、編集部員を守るべきだ。だがその会社も個人の編集者を守ってはくれなかった。この時はまだ編集者が個人のSNSアカウントで発信する事がなかった時代だ。バッシングされている編集者たちは、ただただサンドバッグになるしかなかった。 そしてこの事件以来、サンデー編集部への新人持ち込みは極端に減ってしまった。編集部は生え抜き以外にも、平等に新人作家を回してくれる体制に変わったが、そもそもその新人作家が殆ど来なくなったのだ。僕たち同期4人は振り上げた拳をどこに持っていけば良いか分からなくなった。僕たちが掲げたイノベーションは早々に頓挫した。さらにその時期で、日本の出版社はどこも減収減益、最終損益になる会社が続出した。小学館もそうだった。だが、ピンチはチャンス。僕は当時、エニックスお家騒動で作家も編集者もいなくなったガンガンが、すぐさま復活し『鋼の錬金術師』を産んだ奇跡を知っている。それを次は自らの手で起こそうと考えはじめた。 3、【大高忍と再会】 スクエニを退社する時に僕はスクエニとある約束をしていた。退社して2年間は作家を引き抜かないと。もちろん口約束だが仁義はある。だた、ちょうどその頃、退社から2年が経とうとしていた。僕は大高忍を飯に誘った。『すもも』もそろそそろ終わるそうだ。いよいよ、王道少年漫画をやってみないかと提案した。本人はかなり迷ったと思う。ヤングガンガンはすでに、雑誌としてメジャーになりつつあり、居心地も良いだろう。だが、本当に世間を変えるような連載をするならばメジャー誌でやったほうがいいと説得した。すもものヒットで、金銭的な余裕もあるし、優秀なアシスタントも雇える。折角なら王道ファンタジーをやらないかと。最終的に大高さんは了承し、打ち合わせが始まった。大高さんから古代ローマの剣闘士を舞台にした作品を提案された。 キャラクターは悪くない。だが暗い。僕は自分の手持ちの企画と融合させる事を提案した。この頃から僕は自分でシナリオを書くようになっていた。それは僕の中でボツ企画だったが以下のような内容だ。考古学を学んでいる大学生が青森県の戸来村を調査したら、ソロモンの隠し洞窟を発見し、そこに埋葬された金属器を触ったらアラジンよろしく、聖霊と契約することになり・・・のような馬鹿な話だ。ただこの時、ソロモン王やユダヤ教やアラビアンナイトの話などを調べまくっていたのでこのネタの話をした。大高さんはアラビアンナイトに反応した。大高さんと打ち合わせを重ねるうちにローマから中東に舞台は移った。主人公はアラジンとアリババの二人組に変わった。二人の関係はドラえもんとのび太だ。カラーイメージは見比べてみれば同じだとわかるだろう。さらにユダヤ教の神話をベースに世界観のイメージを共有していった。 主人公二人以外にも大高さんはすももの合間に、魅力的なキャラ表を次々と描いてきた。そしてマギの1話目のネームが完成した。そして僕はそれを企画書と共に提出した。林さんは絶賛しマギの企画は通った。大高さんを、サンデーの人気作家と同レベルに丁重に持ち成した会食を開いてくれた。 もし編集長が林さんではなかったらマギは通らなかったであろう。いや、雷句先生の提訴がなくても通らなかったかもしれない。運命とは不思議である。大高さんのデビュー作『すもももももも』も、『マギ』も雷句さんがいなかったら産まれていなかった。いや、僕自身も編集者として存在していなかったかもしれな。つまり、僕が関わって出来たその後の作品や、メディア、会社もなかったことになる。運命は繋がっている。これもルフの導きである。雷句誠先生ありがとうございました。 次号は『マギ』そして『銀の匙』。2008年〜2010年ぐらいのこと書きます。

2023-09-04 17:20:56
石橋和章 | Zoo | 漫画編集者&原作者&経営者🎨 @mikunikko

ほぼ漫画業界コラム15 今早起きしたので早めに投稿! 出来れば回顧録は1章から読んでほしいです。 回顧録5章【マギThe labyrinth of magic】 1.【プライベートの話】 僕がマギの準備を始めた頃。2009年ぐらいから話は始まる。僕は30歳になっていた。まずプライベートでは僕には双子の娘が産まれた。保育園がなかなか見つからず、見つかっても双子が別の保育園にしか決まらない。どっちの親も遠方に住んでいるので助けてくれず、日本死ねと思っていた。そのタイミングでリーマンショック。仕事の傍らガラケーで必死に株の売買を続けたりと記憶がないぐらいプライベートがしっちゃかめっちゃかになっていった。さらに30を超えて持病が悪化。逆流性食道炎や謎の蕁麻疹などに苦しんでいた。マギのおまけ漫画で僕が血を吐いている描写があるが、あれはそれを揶揄したものだ。まあ、そんな中でも僕は仕事に集中していた。いや、仕事に逃げていたのかもしれない。それはいずれ高いツケとなって返ってくる。まあ、愚かな男の回顧録をご覧あれ。 2.【サンデー編集部新体制】 仕事は順調だった。僕はマギのネームを着々と溜めながら『神のみぞ知るセカイ』のアニメの準備をしていた。その頃の少年サンデー編集部の話をしよう。僕と3人の同期は、それでも諦めずにサンデーの革新を狙っていた。残念なことに林正人編集長は退任した。雷句さんの事件の責任を取る形だったのかもしれない。代わりに就任したのは縄田正樹編集長だった。『史上最強の弟子ケンイチ』などのヒット作を立ち上げ、過去には手塚治虫を担当したこともあるベテランだ。だが20年近くサンデーに在籍していて、僕の入社時に編集部で息を巻いていた人でもある。なので就任直後は僕は彼を警戒した。だが立場は人を変えたのか、彼はなんでも相談に乗ってくれる良き上司になっていた。いつのまにか【純血主義、生え抜き主義】の空気は無くなっていた。大きかったのはエリート筆頭の市原武法氏が月刊誌『ゲッサン』を立ち上げるために編集部を離れたことだ。それにより編集部のパワーバランスが変わった。市原氏に残されたサンデー生え抜きエリート達は雷句先生の事件のショックから、なかなか立ち直れなかった。それを尻目に、ガーくん、ヅカさん、ムッちゃん、僕の同期達は逆に次々と作品を立ち上げ始めた。新人作家が応募してこない? 関係ない。ネットから引っ張ってくればいいのだ。他社や同人から引き抜けばいいのだ。それでも残ってくれた新人作家を急いで育てればいいのだ。スクエニや中小出版社が当たり前にやっていることをエリート達は出来なかった。戦時下に必要なのは雑草魂だ。逆にサンデー生え抜き以外の編集者達は生き生きと仕事をしだした。それはいずれサンデーの新たなヒット作になっていく。また、それまで目立たなかった編集者も台頭してきた。 3.【シナリオを書く編集者】 まず勝木大氏。元々はビッグコミックで『岳』などを立ち上げた敏腕編集者だった。僕が入った頃と同時にサンデーにやってきた。その男がついに動き出した。彼の編集スタイルは独特だった。なんと彼が担当する多くの作品は全て彼がシナリオを書いていたのだ。そしてそのシナリオを若手編集者に渡して作画者を探させると言うやり方だ。またそのシナリオがどれも面白い。彼がサンデーで立ち上げたのは『ギャンブル』『KING GOLF』など。僕も担当していた新人に『KING GOLF』のコンペに参加させた。結果は落選。だが漫画シナリオの書き方をその時、僕は盗んだ。ちなみに今、僕が経営している株式会社コミックルームはほぼ全ての作品を僕も含めた編集者がシナリオを書いている。それはこの体験が原点である。 勝木さんは担当交代や部署異動のタイミングでシナリオ作成をやめる。彼のシナリオ作成は原作者ではなく、担当編集としての仕事だからだ。それらの作業は新しい担当に引き継がれる。次の担当はシナリオが書けるわけではないので、非常に苦しむことになる。作家も毎週渡されてたシナリオが突然なくなるので同様に苦しむ。ただ連載は続いているので、それでもなんとかなるのだろう。現在、彼は小学館を退社し、原作者として大活躍している。尊敬すべき編集者だ。 4.【天才編集者】 そして、ある人物が編集部に異動してきた。その名は坪内崇氏。後にビッグコミックスピリッツの編集長になり業績を急上昇させる人物だ。元々はビッグコミック編集部に配属され、その後、少年サンデーに移動。そこで『ファンタジスタ』や『ハヤテのごとく!』を立ち上げて、またすぐに『ヤングサンデー』に移動。ヤングサンデーでは『とめはねっ! 鈴里高校書道部』を立ち上げ、このサンデーの危機に呼び戻されたのだ。面白いのが彼が『ハヤテのごとく!』を立ち上げた時のエピソードだ。彼はサンデー生え抜きではないので、なかなか新人賞をとった作家があてがわれなかった。なので連載企画が出せない。困った彼は、まだ受賞していない畑健二郎先生が、すでに受賞作家していると嘘をついて企画を出した。当時の編集長はそれをちゃんと調べずに企画を通してしまった。が、結果的にハヤテは大ヒットした。【純血主義、生え抜き主義】体制の中で、生え抜きでない編集者が、新人とヒット作を作った数少ない事例である。この人は、僕がこれまで出会ってきたあらゆる編集者の中で、群を抜いて優秀だった。というか天才であった。なぜ天才なのかは後述する。後に僕は彼と、彼が連れてきた作家と、サンデーの天辺を賭けて戦う事になる。 5.【クラブサンデー】 そういえばこの話を少し。2008年の冬、林編集長時代に僕はある企画を出した。WEBマンガサイトの企画である。元々、僕は小学館に入る時にエントリーシートにこう記入していた。WEBマンガサイトを作りたいと。僕は2001年以来ずっとWEBで漫画を読んでいた。隣の韓国でもNAVERという会社がWEBで漫画を配信していると聞いていた。しかもこの時代は紙の雑誌の部数がドンドン落ちてきた時代だ。これからは漫画はデジタル配信が主流になると確信していた。さすがにその後のスマホの到来までは予測できなかったが。いつか編集長になるなら絶対に漫画サイトの編集長になろうと考えていた。そんな矢先、古巣のスクエニが『ガンガンONLINE』を立ち上げた。編集長は・・・窪田健一氏!僕の最初の師匠! くそっ!やられた!とおもった。それまでもWEB漫画サイトはあるにはあったがどれもパッとしていなかった。だがガンガンONLINEは違った。洗練されたUI。極上のラインナップ。僕が理想としていたWEB漫画サイトに近かった。すぐに窪田さんに連絡をとり話を聞いた。出だしは上々だそうだ。くやしい〜先を越された。それで慌てて僕も林編集長に企画書を出した。林さんは素晴らしいと言って企画書を通してくれた。そして編集部から数人で企画会議を行った。ただ、僕の意見は全く通らなかった。WEBマンガの事など何も知らない上司達が片っ端から、僕の意見を否定してくる。馬鹿馬鹿しくなって僕は会議をボイコットした。その後、誕生したそれは『クラブサンデー』と名付けられ延々と赤字を垂れ流す負の遺産になっていく。だが、僕は一切関わるのをやめた。漫画サイトを作るなら自分がトップになってからだ。今は力を付ける事に専念しよう。神のみとマギを成功させて、編集部で圧倒的な力を持ってからサイトを作ろう。僕は野望を心に閉じ込めた。 【マギ】 そして2009年6月3日、『マギ』が始まった。だが、最初は驚くほど結果が出なかった。第1話こそアンケートは3位とまずまずのスタートを切れたが、話を追う事にアンケートが下がっていった。5話が載る頃には15位までアンケートが下がった。大高さんは号泣した。僕も申し訳なさすぎて泣いた。スクエニから無理やり引っ張り込んで、無理にファンタジー漫画を書かせてこの体たらくなのだ。大高さんはキャラ人気を出すために、無償で手ブログにおまけ漫画を投稿したり、僕は打ち合わせ前日までにシナリオを作ってくる事を徹底した。これまでに簡単なプロットや、シノプシスを作る事はあっても台詞まで全て入ったシナリオを毎週作るのは初めてだった。勝木さんのスタイルを真似した。だがそれはかなりの労力が必要だった。マギの打ち合わせは月曜日だ。必然的に土日が作業日になる。簡単に書ける時は良いが、アイデアが浮かばない時もある。その場合焦ってくる。家では幼い双子が泣き叫ぶ。書けない。日曜日に行くはずの家族の買い物をキャンセルする。そんな日々が続いた。そしてなんとか僕が上げたシナリオを持って、大高さんとの打ち合わせに望み、それを大高さんがチェックして、ネームにできそうならそのまま通り、ダメなら修正した。作家と担当の立場が逆転した。シナリオチェックの時は大高さんが僕の担当で、ネームチェックの時は僕が大高さんの担当なのだ。この体験は、後に僕の会社コミックルームを立ち上げる大きな原点になった。色んな要素が絡み合ってようやくアンケートは上がり始めたそしてマギ第14話になった時、ついにアンケートで1位を獲得した。やった、これはいける。歴史に残る大ヒットコンテンツになるぞと鼻息を荒くした。だが、何もかも順調にはいかないのだ。それから長い長い本当に長い苦闘が始まることになる。 そして丁度その頃、あの男、坪内崇氏があるネームを縄田編集長に提出していた。編集長の側近にいた僕はそのネームをちらみした。!! え!? ネームには荒川弘と描いてあった、、、、 天才は天才を知る。天才、荒川弘が組んだ編集者、坪内崇。彼もまた天才であった。 次号『マギ』VS『銀の匙』!

2023-09-05 09:25:34
石橋和章 | Zoo | 漫画編集者&原作者&経営者🎨 @mikunikko

ほぼ漫画業界コラム16 すみません。昨日、飲みすぎて寝過ごしました。回顧録は書くのにカロリーが高いので、本日は休載とさせて頂きます。実は二日酔いです。大変申し訳ございません。で、本日のお題は【ドラゴンボール】です。短めに行きます。ちょっと前の話題ですが書くべきだと思いましたので。 https://t.co/pIZhPMwtVm ついにこんな日が来てしまいましたね。 実は出版社というのは、作品に対してなんの権利も本来持っていないのです。作家から権利を預かっているだけなのです。だから、近年は古い作品を作者が出版社から権利を返してもらい、電子書店に直接卸すケースも増えています。まあそちらの方が儲かりますからね。商用である以上、作家活動も資本主義の仕組みからは逃れられません。そして契約期間を過ぎたら作品の様々な権利はいつでも作家は引き上げる事ができます。ただ、集英社も驚きでしょう。それを作者ではなく、担当編集者でもなく、まさかライツ担当者がそのまま権利を持って独立するとは。 この方は社員なので、問題になりませんが取締役であれば特別背任で刑事事件になっておかしくありません。正直、僕も経営者なので、その視点から本件を考えると、社員にこんなことをされたら恐ろしいです。さらにこの方はすでに20年以上集英社で勤務なさった方です。彼には集英社から企業年金が死ぬまで支給されるでしょう。出版社は社員をしっかり守る。そのために会社は社員に忠誠を誓う。御恩と奉公、そんな風に日本の出版社は社員との関係を続けてきました。封建制度が日本で根付いたのは鎌倉時代から室町時代だと言います。そしてその後、戦国時代が始まりました。そうです今、漫画業界は戦国時代に突入しようとしているのです。 血で血を洗う漫画業界に生きる武士達にエールを送ります。株式会社コミックルームは全ての漫画業界人を応援する会社です。

2023-09-06 12:38:49
石橋和章 | Zoo | 漫画編集者&原作者&経営者🎨 @mikunikko

ほぼ漫画業界コラム番外編 誤解があるようなので追記。現在の大島一範編集長になってから、今の少年サンデー編集部は空気が良くパワハラも全くない職場になりました。作家さんに対しても誠実にたいおうしているそうです。皆さん、どうぞ安心してサンデーに投稿してください。そもそもあの頃は、日本の出版社なんかどこもハイパーブラックだったのです。いやあの頃ブラックじゃない会社なんかあったのでしょうか?あったら教えてください。

2023-09-06 17:54:56
石橋和章 | Zoo | 漫画編集者&原作者&経営者🎨 @mikunikko

ほぼ漫画業界コラム17 回顧録第六章【等価交換】 朝からたっぷり書きました。 1【天才】 時間は少し遡る。マギが始まって少し経った頃その男、坪内崇氏は初対面からただならぬオーラを纏っていた。彼は僕の丁度正面の席に引っ越して来た。あいさつもそこそこに彼は「あれーコンセントの差し込みが口が足りねえな。お前、コンセントプラグ買ってきてくれる?」 まさかの初対面からのパシリ要求。そういえば『かってに改蔵』という作品に、坪内地丹という性格が悪いキャラクターが登場していたが。彼がモデルだった。顔も似てる。そんな性格が悪い人にいじめられては堪らない。僕は100円ショップにダッシュしコンセントプラグを両手で丁重に差し出した。僕の対応の素早さに気を良くしたのか坪内さんは、その日飲みに連れて行ってくれた。話していると性格が悪いのではなく異常なくらい頭が良い人だという事に気付いた。若木さんと話している時と同じような感覚があった。あらゆる事に彼は詳しかった。政治、芸能、スポーツ、経済、歴史、文学、科学、アニメ、SFからテクノロジーの話まで。その知識の量に圧倒された。岡田斗司夫氏のようだった。漫画編集者に必要な要素の一つは知識の土台だ。それらが分厚ければ分厚いほどざまな角度から漫画家にアイデア出しができる。あと話し上手な事。あごが立つ編集はすなわち打ち合わせが上手い。そして作家との打ち合わせには頭の回転の速さが必要だ。いや、正確には回転スピードを自由にコントロール出来る事が必要だ。高速で回転させてアイディアの量を引き出す時と、低速で回転させて深く重いアイデアを出す。そのどちらも坪内さんは、自分より高いレベルで出来るであろうと感じた。僕はその時思った。この人をライバルと仮定しよう。 本来は弟子入りを願うべきだったのかもしれない。だが、僕は本当に生意気な人間だった。昔から誰の下に着くのが嫌いな人間だった。僕は利用しようと思った。彼にさまざまな新人作家のネームを見せた。坪内さんは一瞬で的確なアドバイスをくれた。それらの作品は増刊で次々と1位をとった。そんな男が天才・荒川弘氏とついに連載を始めた。タイトルは『銀の匙』。2011年の初夏ことである。 2【神様】 再び、マギの話に戻る。順調だと思いきやその後のマギは中々伸びなかった。1、2巻同時発売で大量に刷った単行本は予想外に大量に売れ残った。雷句氏の提訴以来、ブログを中心としたネットメディアがサンデーを揶揄った。売れ残るマギの単行本をアップして【悲報:マギ全く売れず】みたいな記事が作られた。僕はイライラしていた。『神のみ』が売れているし、編集部の空気もいい。『國崎出雲の事情』『アラタ・カンガタリ』『電波教師』『ムシブギョー』『トラウマイスタ』『金剛番長』など、僕の同期たちも次々とヒット作を立ち上げ始めていた。彼らとも仲良く過ごしていたし、人間関係も悪くない。マギも相変わらずアンケートだけは良い。展開がいい時は1位悪くても7位程度を移動している感じだ。でも、単行本が売れない。アニメ化の声もかからない。苦しい時期だった。毎週月曜日の朝にアンケートが出るのだが、その日は胃痛がした。 結果が悪いと、1週間気分が塞がった。そのストレスで子育てを当時の妻に任せ飲み歩いた。土日は家族サービスを放り投げて、シナリオを書いた。神様に祈った。「神様、僕の人生はどうなってもいいからマギを売ってください」と。だが売れなかった。地獄の苦しみだった。なぜここまでマギの人気にこだわったのか。やはり自分でシナリオを書いていたことが大きい。もちろんマギは全て大高さんのものだ。僕は担当編集としてお手伝いしていたに過ぎない。ちなみに例え売れても、小学館には一切の査定が無いので給与には反映されない。でも、自分が書いたセリフや展開には僕の思想や願いや世界観も入っているのだ。僕が思う正義や友情や価値観や愛。それが世間から受け入れられないという絶望。毎日が苦しかった。そんな日々を僕は2年ほど過ごしていた。僕はその時、気付いていなかった。家で「マギが! マギが!」と狂っていく僕を見る家族の目を。 3【悪魔】 2011年3月11日。東日本大震災が発生した。TVには悲惨な映像が流れた。僕は若木さんの打ち合わせの帰り道であった。タクシーの中で異様な揺れを感じた僕はやばいと感じた。2時50分だった。メールが来て家族は無事は確認。良かった。次に頭によぎったのは株価だ。リーマンショックを根性で乗り切った僕は、細かな運用に疲れ、またマギに集中するために安定銘柄に資産の多くを当てていた。そして最も多く割り当てていたのがなんと・・・東京電力である。ガラケーを手に、一瞬全て売るか迷った。だが迷っているうちに15時になった。市場は閉まってしまった。週明け、福島の原子炉がメルトダウンし、僕が持っていた東京電力の株は殆ど紙切れになってしまった。僕は妻と溜めていた資産の多くを失った。僕と家族は妻の実家に逃げた。僕は妻の実家で数週間すごした。僕は不安な顔をしている家族をよそにひたすら、株価とマギのエゴサに没頭した。そして震災からしばらくしたころ、僕は当時の妻に離婚して欲しいと言われた。全て自業自得である。資産もなくなり家族も危機。そんなタイミングで・・・突然マギに火が突き出した。 突然だった。急にニコニコ動画でマギのMADを作る人たちが増え始めた。pixivへのイラスト投稿もどんどん増え出した。マギはバルバッド編を終え、シンドリア編になっていた。ついに1巻に重版がかかった。もう大丈夫。僕はシナリオを書くのをやめて口頭の大高さんとの打ち合わせだけで話を作るようにした。家でマギの話をするのをやめ、平日も土日も許しを乞うように家族に尽くし出した。だが、全てが遅かった。その後、それでも2年近く粘ったが最終的に僕は家族を失った。「神様、僕の人生はどうなってもいいからマギを売ってください」・・・違った。僕が願ったのは神様ではなく悪魔だったのだ。 「人は何かの犠牲なしに何も得ることは出来ない。 何かを得るためには同等の代価が必要になる。 それが錬金術における等価交換の原則だ。」 『鋼の錬金術師』の最初の名言である。 4【二人の天才】 悪魔の力でマギの快進撃が始まった。単行本はみるみる重版を重ね新刊の発行部数は10万部を超え始めた。もう仕事しかない。僕はプライベートの辛さを忘れるために仕事に全力を注いだ。半分やけくそでTwitterも始めた。Twitterはまだ黎明期だった。橋下徹さんとかが好き放題言ってて僕も真似したくなった。今でこそ漫画編集者の多くがTwitterアカウントを公開してやっているが、当時はまだまれだった。スクエニの同期の熊くんなんかが上手く使って読者の人気を得ていた。ただ、僕はそうするつもりはなかった。僕は戦うためにTwitterアカウントを開いたのだ。サンデーやマギに好き放題言ってくるネットメディアに自分の名前で反論したくて始めた。敵対的な発言を繰り返すうちに、ネットメディアから攻撃を受けるようになった。何度も炎上したが徹底的に言い返した。だが、その時閃いた。そうかSNSを使って商品を売れば良いのでは。勝機到来! 僕は温めていた企画をぶつけた。『ビックリ★ マギシール』という企画だ。僕が子供の頃夢中で集めていたビックリマンシールをもじったその企画は、マギの単行本に3枚のシールがランダムで付くという代物だった。この製作過程をTwitterにアップし、反応を待った。当たった。最終的に初速が前巻比300%と、アニメ化したって起こらない売上上昇が始まった。雑誌では人気があるが、単行本が売れないジレンマからマギは完全に脱却した。初版は30万部を超えた。神のみもアニメ放送中で絶好調。マギも絶好調。タイミングがいいとマギと神のみが1位、2位と連続フィニッシュを決めた時もある。同期の作品の調子も良いが、僕の担当作には及ばない。ただ2011年に始まった銀匙が常にアンケート高位置にあった。展開によって上下があるマギに対し、『銀の匙』は常に高順位にいた。最初は5位ぐらいにじっといる感じだった。しばらく立つと4位くらいに、さらに時間が経つと3位と上がって来ていた。展開で人気を取るマギと違って、「銀の匙」はキャラクターをじっくり育てる作り方をしていた。展開に頼らない。ひたすらキャラの好感度を高めていく。『鋼の錬金術師』とはまた違うその作りは、坪内さんの手法の一つだ。『とめはね』も『ハヤテ』も『かってに改蔵』もそうだ。それを天才・荒川弘がやると、いつのまにか『銀の匙』は1位に居座ることが多くなって来た。単行本は最初からどんどん売れた。もちろん展開やカラーなどでマギも一位を取ることがあったが平均は『銀の匙』の方がアンケートが良かった。僕と恐らく大高さんも悪魔に魂を売って何とか手に入れた地位を荒川弘と坪内崇という二人の天才は、鮮やかに軽やかに飛び越えていった… 【堕天】 そして、ついに僕はグレた。これまでの仕事が全てどうでも良くなった。サンデーでの人気争いも馬鹿馬鹿しい。てかどうでもいい。そもそも家族のために漫画を頑張って来たのに、なぜ漫画のために家族を失ったのか。アホすぎる。そもそも小学館に入る時に、出来るだけ働かないと決めていたのに何故、馬鹿みたいに働いた? なぜこうなった? マギのアニメが土曜日6時という当時最高の枠で決まり、仕事的には絶頂の中、精神的には真逆だった。毎晩のように六本木や恵比寿で飲み歩いた。誰もいない真っ暗な一戸建てに帰るのが怖かった。あれだけ好きだった漫画が急速に嫌いになっていた。漫画雑誌も一才読まなくなった。面白いと思う漫画が一つも無くなった。ただ、唯一アマチュア投稿サイト『新都社』の作品だけは読んでいた。特にお気に入りだったのがONEさんの『ワンパンマン』、そとなみさんの『ザ・ペニスマン』戸塚たくすさんの『オーシャンまなぶ』だった。

2023-09-07 08:04:47
石橋和章 | Zoo | 漫画編集者&原作者&経営者🎨 @mikunikko

ほぼ漫画業界コラム18 回顧録第7章【ワンパンマンと東京喰種】 1【新都社】 家族と別居したあたりで、僕は突然漫画が嫌いになった。一時的ではあるが、ほぼ全ての商業漫画が読めなくなった。(なぜか『ONE PIECE』だけは読んでいたが。僕は『ONE PIECE』がめちゃくちゃ好きだ。何事にも例外はある。) 商業漫画を読んでいると、何か怪しい加工肉を食べているような気持ち悪さを感じたの だ。いや、漫画だけではない。音楽もだ。TVもだ。いわゆる世の中の商業エンタメに嫌悪感を感じるようになった。そう、金、金、金。人間の感情を動かしてユーザーから金を取るエンタメ産業の仕組みが嫌になった。そんな風にちょっと(大分?)頭がおかしくなった僕を癒してくれたのはアマチュア作家達の作った作品だった。クリエイター達が生き生きと創作性を発揮しているニコニコ動画のMADや音楽が好きだった。ニコ動でヒャダインさんが公開していた様々な曲に痺れた。『思い出は億千万』とか『エアーマンが倒せない』とかを聞いて涙した。そんな僕にとって『新都社』の漫画達は衝撃だった。だって、殆どどの作品もネームみたいなのだ。商業作品の作品はどれも絵が綺麗だ。その綺麗な絵の裏には沢山のアシスタントさんの稼働や編集者の修正要求などの跡がある。それが加工感に感んじた。一時的にではあるが僕はそれにアレルギー症状を起こすようになっていた。それに対して新都社の作品達は編集者の介在なしに金銭の受授なしに漫画家達が各々、自由に書きたいものを、思うがまま書いている。だから絵は丁寧ではない。ただ、それが商業漫画にどっぷり浸かっていた僕にはとても純粋な、とても綺麗なモノに見えた。『ワンパンマン』『オーシャンまなぶ』『ザ・ペニスマン』『求道の拳』『人喰い』『世界鬼』『覇記』・・・他にも沢山好きな作品があった。「漫画って面白ええええ」と感じた。なんだろう、当時のあの感覚を言語化できない。初恋的な?うん、そんな感じの何かだ。 2【ボイコット】 商業漫画が嫌いという小学館の漫画編集者としてあるまじき精神状態になっていた僕は、当時本当に荒れに荒れていた。若くして結婚し、それまで真面目に過ごしてきた。仕事に打ち込んできた。だが家庭が無くなり、自由の身になり毎晩六本木に繰り出すような人間に変貌していた。今の川端強みたいになっていた。 ※『TSUYOSHI〜誰も勝てないアイツには〜』の主人公。陰キャだった強が突然パリピみたいになる。僕が原作者です。今月新刊出ます。分からなければ買ってみてください(笑) 仕事をやる気が本当に無くなった。マギを売る過程で気付いた。マギはサンデーに載っていたから売れたわけではない。ネットで適切にプロモーションし、ネット住民を味方にしたから売れたのだ。では紙の雑誌の意味とは? サンデーと言うブランドの意味とは? 僕は仕事時間に新都社を巡回しながら考えていた。『ワンパンマン』『オーシャンまなぶ』『ザ・ペニスマン』『人喰い』『求道の拳』。絵は雑に描かれているが、そこには紙の漫画誌には無い新しい面白さが確かに存在した。これまでもWEB漫画はあったが新都社の作品はちょっと違った。ランキングがあり、読者がコメントを書ける。・・・商機を感じる。僕は病気だ。ワークアホリックなのだ。結局仕事に繋げてしまう。だが今やっている仕事よりはこれを仕事にしたいと感じ始めた。 ただ、すぐに行動は移せなかった。手持ちの仕事が多すぎる。神のみのアニメやマギのアニメの準備、その他連載担当があり動けない。数か月ヤキモキしながら仕事をこなした。だが、ある日爆発した。バッキバッキになった目で、突然編集長に直訴した。当時の編集長は縄田正樹編集長だ。「僕をマギ以外の全ての仕事から外してください」 3【ONE】 突然の部下の直訴に戸惑う縄田さんは戸惑っていた。だが、構わず説得を始めた。すでにサンデーにはクラブサンデーと言う、漫画サイトがあるがあれはダメだと。ただ新人作家の連載が載っているだけで、サイト自体にメディアとしての魅力が無い。それに対して新都社の魅力を語り、これを再現できれば自動的に作家が集まり読者が集まり、メディアとて急速に力を失いつつあったサンデーは復活できますよと。 結果として縄田編集長は、僕をマギ以外の全ての仕事から外してくれた。何故だろう。僕はこれが通らなかったら休職するつもりだった。その覚悟が通じたのかもしれない。 若木さんには申し訳なかったが神のみも降りた。マギ以外の全ての仕事量から解放された。 そしてその日。『ワンパンマン』のONE氏、『オーシャンまなぶ』の戸塚たくす氏『ザ・ペニスマン』のそとなみ氏にメールを出した。まず最初に返信があったのはそとなみさんだ。スカイプでそとなみさんと挨拶をした。そとなみさんは残念ながら、ヤングジャンプにすでに企画を出していたそうだ。「あと、1週間早ければ石橋さんに企画見せてたんですが」なんて言われた。僕は内心その作品が打ち切られれば良いと思った。そとなみさんはすごい才能があるが、ザ・ペニスマンなんて下品なタイトルの漫画を描いているような人だ。紙の雑誌で通用しないはず、活躍すべきは僕が作る新媒体であるべきだと。・・・が、そとなみさんは作風を変えていた。ペンネームも変えていた。その後、石田スイと言うかっこいい名で『東京喰種」という超クールな漫画が始まった。まあ、そんなわけで石田スイさんは逃した。 翌日、ONEさんから連絡が返ってきた。すぐにONEさんの住む埼玉まで会いに行き、たっぷりワンパンマンの話を聞いた。ONEさんは長身でイケメンで誠実さの塊のような人だった。ただワンパンマンは村田雄介氏による作画で商業化が決まっていると言う。しまった、ぐずぐずしていたせいだ。3ヶ月早ければワンパンマンも東京喰種もやれたかもしれないのだ。だが、まだ間に合う。ONEさんに新作のネタは無いかと尋ねた。超能力少年と怪しい探偵のネタがあるとONEさんは答えた。よしそれで行きましょうと僕は答えた。ONEさんは僕の即答に逆にとまどっていたが、夜編集部に帰るとONEさんからFAXが届いた。モブサイコと書かれたタイトルのネームだ。夜なので編集部には誰もおらず、誰のチェックも貰えなかったが僕はONEさんにすぐさま電話をかけた。連載OK、原稿料も提示した。連載場所はこれから作ると答えた。僕はまだ平の編集者だった。実は連載を決定する権限も、原稿料を決定する権限も連載する場所もなかった。2011年7月。後に『裏サンデー』という名付けられるサイトがぼんやりと頭の中に形作られ始めていた。

2023-09-08 08:44:35
石橋和章 | Zoo | 漫画編集者&原作者&経営者🎨 @mikunikko

ほぼ漫画業界コラム18 回顧録第7章【ワンパンマンと東京喰種】 1【新都社】 家族と別居したあたりで、僕は突然漫画が嫌いになった。一時的ではあるが、ほぼ全ての商業漫画が読めなくなった。(なぜか『ONE PIECE』だけは読んでいたが。僕は『ONE PIECE』がめちゃくちゃ好きだ。何事にも例外はある。) 商業漫画を読んでいると、何か怪しい加工肉を食べているような気持ち悪さを感じたのだ。いや、漫画だけではない。音楽もだ。TVもだ。いわゆる世の中の商業エンタメに嫌悪感を感じるようになった。そう、金、金、金。人間の感情を動かしてユーザーから金を取るエンタメ産業の仕組みが嫌になった。そんな風にちょっと(大分?)頭がおかしくなった僕を癒してくれたのはアマチュア作家達の作った作品だった。クリエイター達が生き生きと創作性を発揮しているニコニコ動画のMADや音楽が好きだった。ニコ動でヒャダインさんが公開していた様々な曲に痺れた。『思い出は億千万』とか『エアーマンが倒せない』とかを聞いて涙した。そんな僕にとって『新都社』の漫画達は衝撃だった。だって、殆どどの作品もネームみたいなのだ。商業作品の作品はどれも絵が綺麗だ。その綺麗な絵の裏には沢山のアシスタントさんの稼働や編集者の修正要求などの跡がある。それが加工感に感んじた。一時的にではあるが僕はそれにアレルギー症状を起こすようになっていた。それに対して新都社の作品達は編集者の介在なしに金銭の受授なしに漫画家達が各々、自由に書きたいものを、思うがまま書いている。だから絵は丁寧ではない。ただ、それが商業漫画にどっぷり浸かっていた僕にはとても純粋な、とても綺麗なモノに見えた。『ワンパンマン』『オーシャンまなぶ』『ザ・ペニスマン』『求道の拳』『人喰い』『世界鬼』『覇記』・・・他にも沢山好きな作品があった。「漫画って面白ええええ」と感じた。なんだろう、当時のあの感覚を言語化できない。初恋的な?うん、そんな感じの何かだ。 2【ボイコット】 商業漫画が嫌いという小学館の漫画編集者としてあるまじき精神状態になっていた僕は、当時本当に荒れに荒れていた。若くして結婚し、それまで真面目に過ごしてきた。仕事に打ち込んできた。だが家庭が無くなり、自由の身になり毎晩六本木に繰り出すような人間に変貌していた。今の川端強みたいになっていた。 ※『TSUYOSHI〜誰も勝てないアイツには〜』の主人公。陰キャだった強が突然パリピみたいになる。僕が原作者です。今月新刊出ます。分からなければ買ってみてください(笑) 仕事をやる気が本当に無くなった。マギを売る過程で気付いた。マギはサンデーに載っていたから売れたわけではない。ネットで適切にプロモーションし、ネット住民を味方にしたから売れたのだ。では紙の雑誌の意味とは? サンデーと言うブランドの意味とは? 僕は仕事時間に新都社を巡回しながら考えていた。『ワンパンマン』『オーシャンまなぶ』『ザ・ペニスマン』『人喰い』『求道の拳』。絵は雑に描かれているが、そこには紙の漫画誌には無い新しい面白さが確かに存在した。これまでもWEB漫画はあったが新都社の作品はちょっと違った。ランキングがあり、読者がコメントを書ける。・・・商機を感じる。僕は病気だ。ワークアホリックなのだ。結局仕事に繋げてしまう。だが今やっている仕事よりはこれを仕事にしたいと感じ始めた。 ただ、すぐに行動は移せなかった。手持ちの仕事が多すぎる。神のみのアニメやマギのアニメの準備、その他連載担当があり動けない。数か月ヤキモキしながら仕事をこなした。だが、ある日爆発した。バッキバッキになった目で、突然編集長に直訴した。当時の編集長は縄田正樹編集長だ。「僕をマギ以外の全ての仕事から外してください」 3【ONE】 突然の部下の直訴に戸惑う縄田さんは戸惑っていた。だが、構わず説得を始めた。すでにサンデーにはクラブサンデーと言う、漫画サイトがあるがあれはダメだと。ただ新人作家の連載が載っているだけで、サイト自体にメディアとしての魅力が無い。それに対して新都社の魅力を語り、これを再現できれば自動的に作家が集まり読者が集まり、メディアとて急速に力を失いつつあったサンデーは復活できますよと。 結果として縄田編集長は、僕をマギ以外の全ての仕事から外してくれた。何故だろう。僕はこれが通らなかったら休職するつもりだった。その覚悟が通じたのかもしれない。 若木さんには申し訳なかったが神のみも降りた。マギ以外の全ての仕事量から解放された。 そしてその日。『ワンパンマン』のONE氏、『オーシャンまなぶ』の戸塚たくす氏『ザ・ペニスマン』のそとなみ氏にメールを出した。まず最初に返信があったのはそとなみさんだ。スカイプでそとなみさんと挨拶をした。そとなみさんは残念ながら、ヤングジャンプにすでに企画を出していたそうだ。「あと、1週間早ければ石橋さんに企画見せてたんですが」なんて言われた。僕は内心その作品が打ち切られれば良いと思った。そとなみさんはすごい才能があるが、ザ・ペニスマンなんて下品なタイトルの漫画を描いているような人だ。紙の雑誌で通用しないはず、活躍すべきは僕が作る新媒体であるべきだと。・・・が、そとなみさんは作風を変えていた。ペンネームも変えていた。その後、石田スイと言うかっこいい名で『東京喰種」という超クールな漫画が始まった。まあ、そんなわけで石田スイさんは逃した。 翌日、ONEさんから連絡が返ってきた。すぐにONEさんの住む埼玉まで会いに行き、たっぷりワンパンマンの話を聞いた。ONEさんは長身でイケメンで誠実さの塊のような人だった。ただワンパンマンは村田雄介氏による作画で商業化が決まっていると言う。しまった、ぐずぐずしていたせいだ。3ヶ月早ければワンパンマンも東京喰種もやれたかもしれないのだ。だが、まだ間に合う。ONEさんに新作のネタは無いかと尋ねた。超能力少年と怪しい探偵のネタがあるとONEさんは答えた。よしそれで行きましょうと僕は答えた。ONEさんは僕の即答に逆にとまどっていたが、夜編集部に帰るとONEさんからFAXが届いた。モブサイコと書かれたタイトルのネームだ。夜なので編集部には誰もおらず、誰のチェックも貰えなかったが僕はONEさんにすぐさま電話をかけた。連載OK、原稿料も提示した。連載場所はこれから作ると答えた。僕はまだ平の編集者だった。実は連載を決定する権限も、原稿料を決定する権限も連載する場所もなかった。2011年7月。後に『裏サンデー』という名付けられるサイトがぼんやりと頭の中に形作られ始めていた。

2023-09-08 08:45:10
石橋和章 | Zoo | 漫画編集者&原作者&経営者🎨 @mikunikko

ほぼ漫画業界コラム18 回顧録第7章【ワンパンマンと東京喰種】 1【新都社】 家族と別居したあたりで、僕は突然漫画が嫌いになった。一時的ではあるが、ほぼ全ての商業漫画が読めなくなった。(なぜか『ONE PIECE』だけは読んでいたが。僕は『ONE PIECE』がめちゃくちゃ好きだ。何事にも例外はある。) 商業漫画を読んでいると、何か怪しい加工肉を食べているような気持ち悪さを感じたのだ。いや、漫画だけではない。音楽もだ。TVもだ。いわゆる世の中の商業エンタメに嫌悪感を感じるようになった。そう、金、金、金。人間の感情を動かしてユーザーから金を取るエンタメ産業の仕組みが嫌になった。そんな風にちょっと(大分?)頭がおかしくなった僕を癒してくれたのはアマチュア作家達の作った作品だった。クリエイター達が生き生きと創作性を発揮しているニコニコ動画のMADや音楽が好きだった。ニコ動でヒャダインさんが公開していた様々な曲に痺れた。『思い出は億千万』とか『エアーマンが倒せない』とかを聞いて涙した。そんな僕にとって『新都社』の漫画達は衝撃だった。だって、殆どどの作品もネームみたいなのだ。商業作品の作品はどれも絵が綺麗だ。その綺麗な絵の裏には沢山のアシスタントさんの稼働や編集者の修正要求などの跡がある。それが加工感に感んじた。一時的にではあるが僕はそれにアレルギー症状を起こすようになっていた。それに対して新都社の作品達は編集者の介在なしに金銭の受授なしに漫画家達が各々、自由に書きたいものを、思うがままに描かれている。だから絵は丁寧ではない。ただ、それが商業漫画にどっぷり浸かっていた僕にはとても純粋な、とても綺麗なモノに見えた。『ワンパンマン』『オーシャンまなぶ』『ザ・ペニスマン』『求道の拳』『人喰い』『世界鬼』『覇記』・・・他にも沢山好きな作品があった。「漫画って面白ええええ」と感じた。なんだろう、当時のあの感覚を言語化できない。初恋的な?うん、そんな感じの何かだ。 2【ボイコット】 商業漫画が嫌いという小学館の漫画編集者としてあるまじき精神状態になっていた僕は、当時本当に荒れに荒れていた。若くして結婚し、それまで真面目に過ごしてきた。仕事に打ち込んできた。だが家庭が無くなり、自由の身になり毎晩六本木に繰り出すような人間に変貌していた。今の川端強みたいになっていた。 ※『TSUYOSHI〜誰も勝てないアイツには〜』の主人公。陰キャだった強が突然パリピみたいになる。僕が原作者です。今月新刊出ます。分からなければ買ってみてください(笑) 仕事をやる気が本当に無くなった。マギを売る過程で気付いた。マギはサンデーに載っていたから売れたわけではない。ネットで適切にプロモーションし、ネット住民を味方にしたから売れたのだ。では紙の雑誌の意味とは? サンデーと言うブランドの意味とは? 僕は仕事時間に新都社を巡回しながら考えていた。『ワンパンマン』『オーシャンまなぶ』『ザ・ペニスマン』『人喰い』『求道の拳』。絵は雑に描かれているが、そこには紙の漫画誌には無い新しい面白さが確かに存在した。これまでもWEB漫画はあったが新都社の作品はちょっと違った。ランキングがあり、読者がコメントを書ける。・・・商機を感じる。僕は病気だ。ワークアホリックなのだ。結局仕事に繋げてしまう。だが今やっている仕事よりはこれを仕事にしたいと感じ始めた。 ただ、すぐに行動は移せなかった。手持ちの仕事が多すぎる。神のみのアニメやマギのアニメの準備、その他連載担当があり動けない。数か月ヤキモキしながら仕事をこなした。だが、ある日爆発した。バッキバッキになった目で、突然編集長に直訴した。当時の編集長は縄田正樹編集長だ。「僕をマギ以外の全ての仕事から外してください」 3【ONE】 突然の部下の直訴に戸惑う縄田さんは戸惑っていた。だが、構わず説得を始めた。すでにサンデーにはクラブサンデーと言う、漫画サイトがあるがあれはダメだと。ただ新人作家の連載が載っているだけで、サイト自体にメディアとしての魅力が無い。それに対して新都社の魅力を語り、これを再現できれば自動的に作家が集まり読者が集まり、メディアとて急速に力を失いつつあったサンデーは復活できますよと。 結果として縄田編集長は、僕をマギ以外の全ての仕事から外してくれた。何故だろう。僕はこれが通らなかったら休職するつもりだった。その覚悟が通じたのかもしれない。 若木さんには申し訳なかったが神のみも降りた。マギ以外の全ての仕事量から解放された。 そしてその日。『ワンパンマン』のONE氏、『オーシャンまなぶ』の戸塚たくす氏『ザ・ペニスマン』のそとなみ氏にメールを出した。まず最初に返信があったのはそとなみさんだ。スカイプでそとなみさんと挨拶をした。そとなみさんは残念ながら、ヤングジャンプにすでに企画を出していたそうだ。「あと、1週間早ければ石橋さんに企画見せてたんですが」なんて言われた。僕は内心その作品が打ち切られれば良いと思った。そとなみさんはすごい才能があるが、ザ・ペニスマンなんて下品なタイトルの漫画を描いているような人だ。紙の雑誌で通用しないはず、活躍すべきは僕が作る新媒体であるべきだと。・・・が、そとなみさんは作風を変えていた。ペンネームも変えていた。その後、石田スイと言うかっこいい名で『東京喰種」という超クールな漫画が始まった。まあ、そんなわけで石田スイさんは逃した。 翌日、ONEさんから連絡が返ってきた。すぐにONEさんの住む埼玉まで会いに行き、たっぷりワンパンマンの話を聞いた。ONEさんは長身でイケメンで誠実さの塊のような人だった。ただワンパンマンは村田雄介氏による作画で商業化が決まっていると言う。しまった、ぐずぐずしていたせいだ。3ヶ月早ければワンパンマンも東京喰種もやれたかもしれないのだ。だが、まだ間に合う。ONEさんに新作のネタは無いかと尋ねた。超能力少年と怪しい探偵のネタがあるとONEさんは答えた。よしそれで行きましょうと僕は答えた。ONEさんは僕の即答に逆にとまどっていたが、夜編集部に帰るとONEさんからFAXが届いた。モブサイコと書かれたタイトルのネームだ。夜なので編集部には誰もおらず、誰のチェックも貰えなかったが僕はONEさんにすぐさま電話をかけた。連載OK、原稿料も提示した。連載場所はこれから作ると答えた。僕はまだ平の編集者だった。実は連載を決定する権限も、原稿料を決定する権限も連載する場所もなかった。2011年7月。後に『裏サンデー』という名付けられるサイトがぼんやりと頭の中に形作られ始めていた。

2023-09-08 08:47:00
石橋和章 | Zoo | 漫画編集者&原作者&経営者🎨 @mikunikko

ほぼ漫画業界コラム19 回顧録第八章【裏サンデー】 1【編集者育成システム】 当時のサンデーメンバーから次々と連絡が入るようになりました。当時の状況をなるほどそういう風に見ていたんだなぁと知れて面白いですね。連絡お待ちしております。あと、本コラムでは実名を出すのは基本、作家と編集長と経営者だけにしています。それらは公人だからです。あと本人の許可が出ればその人も出します。それでは回顧録を始めましょう。 当時の僕たちは、サンデーで次々とヒット作を立ち上げていた。僕の『マギ』『神のみ』を筆頭に『國崎出雲の事情』『金剛番長』『トラウマイスタ』『アラタ・カンガタリ』『ムシブギョー』など。また天才・坪内さん立ち上げの『銀の匙』『湯神くんには友達がいない』 “書く編集”勝木さん立ち上げの『KING GOLF』『ギャンブル』などが誌面を彩った。たった数年でこれだけのヒット作、話題作が生まれた事はサンデーの歴史上殆ど無いはずだ。そしてこれらを起こしたのは全て、僕のような中途入社社員や、他の編集部から異動してきたサンデー生え抜き編集ではない編集者達であった。これまでのサンデーはあだちみつる先生、高橋留美子先生、青山剛昌先生、藤田和日郎先生、満田拓也先生、西森博之先生、椎名高志先生などレジェンド級の先生方の作品が常にランキング上位を独占していて、新人作家や、ましてや他社の雑誌で育った作家がそれらの作品を押しのけて入るのは難易度が高かった。安西信行先生や雷句誠先生は、そんなサンデーに食い込めた数少ない成功事例だ。(どちらも藤田和日郎先生のアシスタント出身だったのが面白い。)変化を起こさないそれは秩序でもある。【純血主義・生え抜き主義】のサンデー文化はその秩序の上に成り立っていた。レジェンド作家達がしっかりと収益を産んでくれているので、編集部はゆっくり、しっかり作家を、そして編集を育てる事ができた。ちなみに【純血主義・生え抜き主義】がサンデー編集部の教育システムはこうだった。 ・まず新入社員は1年間しっかり雑用を仕込まれる。 ・2年目からは大御所先生の担当になり、先生方への礼儀やサンデー編集者としての 心構えを学ぶ。 ・3年目ぐらいから新人賞の作家たちをあてがわられる。編集者は新人作家と読切を 作り続け増刊に載せ続ける。 ・そして読者の反応がいい読切を載せた担当編集は、ついに連載作品を立ち上げる事 ができる。そのシステムで連載を軌道に載せる事が出来たら生え抜きエリート編集として扱われる。その仕組みで生まれたヒット作もないわけではない。 そういう仕組みだった。これが育成方法として効果的かどうかは後述する。ただ一つ問題を挙げる。 それは最初の3年だ。この期間に生え抜き新人編集は徹底的な意識改造、思想教育を受ける。「サンデー愛」を叩き込まれる。それは今の時代から見れば壮絶なパワハラと言える。そして壮絶なパワハラの鞭を振るうのは大半が同じくこのシステムで育てられた生え抜きエリート編集である。中途入社の僕が受けたパワハラなど、新入社員でサンデーに入った新卒達の比ではなかった。その観念でみれぱ、その後新卒エリートが新人賞で有望な作家を回してもらうなど優遇されるのは当然といえる。僕たち外から来た編集者はその地獄の3年間を体験していないからだ。僕や外から来た同期達はそのような扱いをされる新卒達を見て聞いて恐怖した。そして身を守るために連合を組み、当時の編集長達の元で新しいやり方でヒット作を作り続けた。僕が入社して以来、出会った林正人編集長、縄田正樹編集長、そしてこの後登場する鳥光裕編集長は僕たちとともにそのような体制の編集システムを刷新し、新しい作品と売り上げとメディアを作るのに貢献した功労者だ。彼らの業績を僕は讃えたい。何故かネットにはこの時代のサンデーを暗黒期と捉える意見が散見されるが、暗黒期ではない。変革期である。 また、僕は当時のパワハラを糾弾するつもりも全くない。全員が加害者でもあり被害者だったからだ。以前も書いたが2000年台前半、当時の日本社会の殆どの会社がブラック企業だった。そしてその最大の被害者が、僕たち就職氷河期世代、ロスジェネだ。パワハラ、セクハラ、残業の付かない過剰労働は当たり前だった。そして僕たち氷河期世代がまた加害者になって行くという暗黒のループが続いたのだ。僕がいたマスコミ界隈も酷いが、広告業界も酷い、証券会社も酷い。大学の同期は何人も証券会社に就職したが彼らは「うちは同期が6人自殺したよ」「うちは7人」なんて話をしていて驚いた。今、なぜ誰も声を上げないのであろう。昨今のジャニーズ事務所の問題だってそうだ。最近まで誰も触れなかった。ようやく世の中が動いたのはなぜだ。YOUTUBEのおかげ? インフルエンサーのおかげ? 違う。ジャニー喜多川氏が亡くなったからだ。もしロスジェネ世代が受けた苦しみの責任が誰にあるかと問われば答えは、ロスジェネ世代を食い物にしてきたこの老人達だ。そしてそんな老人達はどの業界にもいる。そしていまだに現場に多大な影響力を及ぼす。老人が支配する国日本。それが変わるのは、その老人が寿命を終える時しかないのかもしれない。人生100年時代だ。90の老人もあと10年存在する。道は果てしない。 2【WEBマンガ】 話が逸れた。変革期とはいえ、その時期は負の遺産も生み出している。それが僕が企画し、ネットビジネスに疎い先輩方が設計したWEB漫画サイト【クラブサンデー】だ。この時期のサンデー自体は、ヒット作も順調に生み出していたし、収縮しつつある紙の漫画雑誌の中では頑張っていた方だが、【クラブサンデー】が生み出す赤字は厳しいものだった。開発会社に言われるままの高額な運営費を払って作られたその場には、ただひたすら新人作家の連載が掲載されるた。そこには色も、ポリシーもない。競走もない。紙と違って印刷費がかからないから連載し放題だと、そこでは殆どの企画が通った。使いづらいビューアーは読むのが面倒であった。一定期間経つと全く読めなくなるその仕様は、新規読者の流入を防いだ。作家が傷つくからと、そこにはランキングもコメント機能もなかった。それはそのメディアからライブ感を奪った。競争も奪った。ちなみにクラブサンデーの何年も前の2005年に、同様の仕様で講談社のWEB漫画サイト『Michao!』が生まれ、莫大な赤字を作り2009年に閉鎖した。その頃の出版社の人々は本当にネットに疎かった。ちなみに僕がWEB漫画に誰よりも詳しかったのは理由がある。2001年度のエニックスお家騒動で、エニックスには作家がいなくなった。その時の僕はネットで作家を探したのだ。『WORKING!』や『リセット』を僕は商業化したし、WEB漫画の名作『魔道』のリメイクを試みたこともある。特に『魔道』に僕は多大なる影響を受けた。一番好きなファンタジー漫画かもしれない。マギのアラジンの口調は『魔道』の主人公、リントから拝借したことを告白しておく。それらの作品が載っていたWCRは今はもうない。個人サイトの時代は終わったのだ。 まあ、このような事を理由に僕はWEB漫画サイトの設計には自信があった。だが、当時の僕の意見が通ることはなかった。【正しい事をしたかったら偉くなれ】踊る大捜査線のセリフだった。 3【仲間探し】 2011年夏、『モブサイコ100』のネームを手に新サイトを作るために僕は動き始めた。とはいえ最初はどうして良いか分からなかった。僕は平社員だ。部下に対する命令権はない。かと言って一人で動かすには案件が重すぎる。まず僕は周りに新都社の宣伝を始めた。『ワンパンマン』や『ペニスマン』、『オーシャンまなぶ』がいかに面白いかをオルグして回った。殆ど誰も興味を示さなかったが、一人の後輩が興味を持ち始めた。A君だ。A君はサンデーの生え抜きエリートで僕とは同年入社になる。いわば年下の同期であった。つまり6年目の社員だ。6年目となるとさすがにA君は連載を立ち上げた経験を持っていた。だがどれも上手く行かずに全て、打ち切り作品になっていた。当然だ。 もう一度いうが、サンデーの編集者教育システムは当時このようなものだった。初年度はひたすら雑用。少し仕事を覚えてきたら、大御所作家の担当にされる。当時の編集部は大御所作家の担当になれば、勝手に編集は育つと考えていたようだ。そして3年とか4年間、新人賞に投稿してきた作家を育て続け新人賞受賞を目指す。それが叶えば5年目、6年目に連載を立ち上げる。そんなやり方で人が育つであろうか?育つわけがない。もちろんごくごく稀に後の市原武法氏のような、ヒット編集が生まれる事もある。彼以外にも『焼き立てジャパン』や『最上の名医』を立ち上げた生え抜きの先輩もいる。だが、それは極々稀だ。編集者を育成する方法は作家と同じだ。即ち競争である。そんな事分かりきってるではないか。日本一の漫画ブランド、ジャンプ編集部がそうしているではないか。自分で立ち上げた作品を、作家とともにアンケートに怯え、傷付き、ライバル編集に負けるものかと努力する。そういう形でしか、編集者は伸びない。断言するが、引継ぎ作品をいくら経験しても編集者は伸びない。新人賞向けの作品をいくら作家と作っても伸びない。 僕はエニックスお家騒動があったおかげとはいえ、最初の1年で、6本は連載を立ち上げた。そして当時の先輩達の人気作にアンケートや単行本部数で戦いを挑んだ。時には負け、時には勝った。勝つためにあらゆる努力をした。最初の1年でサンデーの6年目以上の経験をしていたのだ。よく、新人にヒットの法則やノウハウを教え込んで育てようとする編集長がいるが、殆どの人はそれでは伸びない。自分の頭で考えて見つけたノウハウだけが身に着くのだ。僕はそう考える。 そんな僕はサンデーの6年目であるA君をなんとかしたかった。自分のやり方で育ててみたくなった。彼は現在大量のクラブサンデー仕事を押し付けられていた。仕事が全く楽しくないという。辛そうだった。彼は人懐っこく、理解力が高い人間だった。さらに、現在クラブサンデーを運用しているので、サイト運営の基礎的な知識がある。良い! 僕が彼がヒット作を作れるようにサポートする事で、新サイト作りを手伝って貰おう。彼にも新都社の作家に声かけを求めた。彼の呼びかけで『人喰い』のMITA氏が執筆を約束してくれた。 さらにA君と『オーシャンまなぶの』戸塚たくす氏と2011年夏に会った。彼は僕らロスジェネにとって、初めて接するミレニアム世代の典型的な男だった。全く物おじせずに自分の意見を言ってくる。新鮮だった。彼も執筆を快諾してくれた。彼は大手企業に就職が決まっていて、副業で作家をやるという。副業が許される会社も、当時ようやく出てきたのだ。たくすさんは名古屋大学大学の理系学生でもあった。頭も良かった。彼とはその後、様々な局面で共に戦う仲間となる。現在彼は『となりのヤングジャンプ』で『異世界ひろゆき』を絶賛連載中である。 さらに2011年の秋に、サンデーに移動してきた新人編集がいた。小林翔という名前でCanCan編集部から移動してきた9歳年下の若手だ。蛯原友里さんのことをエビちゃんではなく、ユリちゃんと言う彼に僕は当初驚愕した。ぎょ、業界人だ・・・ (※先日、小林翔に事実確認をしたが、本人はユリさんと言っていたと主張している。自分の記憶と齟齬があるため、どちらも併記しておく) というわけで僕は彼に興味を持ち話を聞いた。彼は漫画編集者になるために辞表片手に上司を説得し移動してきたというのだ。良い! さらに僕に漫画編集を教えてほしいと、マギやモブサイコの打ち合わせに同席してきた。良い!僕は彼をとても気に入った。彼はCanCanで社会人として徹底的に鍛え上げられていて、ビジネスマナーや事務処理能力は完璧だった。ガッツがあった。漫画も沢山読んでいて、何よりサンデーの教育システムに染まっていなかったのが良かった。とても良い! 僕は彼を育て上げることに決めた。育てると言っても、何かを教えるわけではない。向上心がある人間は場を与えれば勝手に育つ。僕は自分の権限で、小林翔が自由に連載を立ち上げられる場を提供する事を約束した。繰り返すが僕はただの平社員だ。本当は権限はない。ただし編集長を動かす術を心得ていた。それにすでに僕は当時、編集部1.2位のヒット編集者になっていたので発言力は強い。僕は縄田編集長から、僕がA君と小林翔を指揮する権限を貰った。「これからは日本的ピラミッド組織ではなく、プロジェクトに応じて自由にチームを組み替えるプロジェクトチーム性が主流になるんですよ。Googleもそうしてますよ。試しに実験してみましょうよ」とか、適当なことを言って通した記憶がある。編集長の机にGoogleの組織論みたいな本があったからだ。編集長はいつも組織マネジメントに悩んでいるのだ。また、“実験で”というのは効果的だ。あくまでも実験なので失敗しても大丈夫なのだ。上司に物事を通すときに僕は実験を多用するようになっていた。 3【仲間】 ともかくこれで3人の人間が揃った。僕はこの時の経験で、3人チームがいかに強いか学んだ。あの新撰組も3人一組にして、敵と戦わせたと言う。3人は強い。意思疎通のスピードも速いし、全員が全力で動かなければ物事が動かないので誰もサボれないのだ。急ピッチでサイト作りは進んだ。開発会社の選定や、サーバーの管理などは元々クラブサンデーの運営を手伝っていたA君と相談して決めた。クラブサンデーの運営費は高過ぎる。あちこちで相見積もりをとった。様々な工夫で開発費、運営費はクラブサンデーの10分の1になった。僕は『モブサイコ100』『ゼクレアトル』を用意した。A君は『ヒトクイ』を。小林翔は『ケンガンアシュラ』と『ヒーロハーツ』を用意した。最後の2作品に少しふれよう。ケンガンアシュラは僕が読んでいた、格闘漫画『求道の拳』のサンドロビッチ・ヤバ子氏が原作の作品だ。『求道の拳』は面白い作品だったが絵に難があった。だが格闘漫画となると相当なレベルの作画者が必要だ。しかも格闘技に詳しくないと作画指示が出せない。ハードルが高いと小林翔と飲んでいる時に話をした。小林翔はすぐに自分が声をかけると言った。彼は総合格闘技をやっていて空手の達人でもあった。その日のうちにヤバ子氏に連絡をとりつけ、作画のだろめおん氏を見つけてきた。やる!僕は興奮した。すごい若手が仲間になった。さらに『ヒーローハーツ』の春原ロビンソン。ニコニコ動画で大人気だった彼は、僕は普通にファンだった。ただし漫画を描いているのは知らなかった。素晴らしい! 僕は小林翔だけを毎晩連れ回して話をした。ただ、今思えば3人体制でやることではなかった。開発の大変な所をA君に押し付ける形で組織が回り始めたのであった。いつか将来起きる組織崩壊の目はこの時から始まっていたのかもしれない。 3 裏サンデー 新サイトは新都社をモデルにしていたので最初から決めていた要素は3つだった。ランキング機能、コメント機能、漫画ビューアー無し。どれもクラブサンデーではできなかった要素だ。ランキングやコメント機能があるとそれが悪い作家さんが傷付くからというのが理由だった。僕はならば、それに耐えられ、むしろ楽しめる作家さんだけ集めれば良いと考えた。どちらも競争の場を作るためだ。戦うのは作家だけではない、僕と小林翔とA君で、己のプライドを賭けて戦うのだ。それが僕の教育スタイルだ。ビューアー当時は海賊版対策のためにどこも使っていた。僕はこれも無視した。どのみち海賊版は作られる。そもそも全話無料で読ませて単行本でマネタイズしようと思っていたので無視した。それに加えて搭載したのは曜日毎に押し出す作品が変わるシステムだ。今では多くの漫画アプリやサイトがこのシステムを使っているが裏サンデーが日本で初めてだった。これは毎日毎日、コンビニで立ち読みしていた僕の体験から発想したものだ。さまざまな週刊連載が毎日掲載されることによって、毎日毎日、読者が来る習慣が芽生えると考えたのだ。サイト名はかなり悩んだ。実は新サイトはクラブサンデーの別ページとして作るように言われていた。だからクラブサンデー+とか、クラブサンデー分室とか、そういうタイトルを付けろとクラブサンデーの責任者であるサンデーの副編集長から言われていた。冗談じゃないと内心思った。クラブサンデーがダサいから作るサイトなのだからクラブサンデーの子分みたいなタイトルは絶対に嫌だった。せめて対等な関係にしたかったので裏クラブサンデーと言うタイトルにした。…クラブもいらないような気がしてきた。裏サンデーがしっくりきた。A君も小林翔の顔も上気している。次にキャッチコピーをどうしようかという話になった。小林翔が『脱獄型WEB漫画サイト』と言った。「何から脱獄するんだよ?」僕はそう尋ねたら小林翔は答えた。「色々なものからですよ。」・・・分かる。週刊少年サンデー編集部は日本最古の漫画編集部の一つである。そこには輝かしい過去の業績と同時に、絡みつくような逃れられない何かがあった。それをどう表現して良いか分からない。僕が入るまで強固に存在したそれは、一部の人には誇りと自信を。一部の人には、粘りつくような気持ち悪さを与えていた。その逃れれられない檻のようなものから俺たちは脱出したいのだ。サンデーだけではない。漫画業界が持つしがらみや因習の檻、様々な人間の既得権益や思惑が作った【何か】が、クリエイターやそこに働く人間の自由な発想を奪っていると思ったのだ。俺たちはそんな檻から脱出して自由を手に入れる。裏サンデーの挑戦が始まった。

2023-09-09 14:30:24
石橋和章 | Zoo | 漫画編集者&原作者&経営者🎨 @mikunikko

ほぼ漫画業界コラム20 回想録第9章【黄金時代】 【裏サンデー始動】 2012年4月18日、ついに漫画サイト裏サンデーは立ち上がった。僕はマギの取材でイスラエルにいたが、日本でA君と小林翔が徹夜でサイトを見守っていた。ワンパンマンのサイトから沢山の読者が流れることで、裏サンデーは最初から大盛況だった。さらに僕はTwitterを使って色々煽ることで読者の流入を増やした。炎上しても気にしない。炎上商法の走りだった。読者数は毎日乗算的に伸びていった。月間ユーザ数は瞬く間に100万人を超えた。当時クラブサンデーが15万人ほどの月間ユーザー数だった。クラブサンデーの連載本数は40本を超えていた。それに対し裏サンデーはたった5本の連載でその7倍近くの数を確保したのだ。裏サンデーに関してはネットに今でも多く記録が残る。それも後で返信でまとめる。まあとにかく僕の編集者人生でも最も楽しい時代の一つと言える。ヤングガンガン創刊の時に感じた、俺たちは時代を創ってるという実感だ。 裏サンデーは目論見通り、大・大・大成功した。SNSを活用したプロモーションはバッチリハマった。またリリース記事を頻繁に出して世間の注目を集めた。一度は裏サンデーが潰れそうという記事も出した。今だから言えるが、あれは全くの嘘だ。裏サンデーはサンデー内のプロジェクトだ。印刷費もかかっていないし潰れるわけがない。世間は騙されて面白ろおかしく騒ぎ立てたが、それを見ているのが痛快だった。世論を操ってブームを作るという感覚があった。裏サンデーはあっという間に日本一のWEBコミックサイトになった。そしてサンデー編集部の生え抜き若手が次々と裏サンデーに興味を持ち出した。僕はそれらを受け入れて行った。そして様々なヒット作が生まれ始めた。『世界鬼』『HELCK』『猛禽ちゃん』などは、裏サンデーに興味を持って近づいてきたサンデー生え抜き1年目〜3年目の新人編集者達が立ち上げた作品だ。彼らに作品立ち上げと、ランキングにヒリ付く高揚感を与えた。それに成功体験も。若い生え抜き達にいかにこれまでの教育システムがおかしいかをオルグした。 【独立部隊】 編集部内編集部の誕生だ。モブサイコ100は重版を繰り返し、マギの外伝『シンドバッドの冒険』も裏サンデーで連載開始した。シンドバッドの単行本は1巻がすぐに50万部を超え、スピンオフとしては異例の数字を叩き出した。裏サンデーの作家さんやサンデーの若手を集めて毎月のように豪遊した。僕は裏サンデーの仕事を、仕事だと捉えていなかった。これまで僕は作家さんと友達のように遊ぶことはなかった。作家はビジネスパートナーであり、友達ではない。引き継いだら連絡も取らない。クールでドライな関係を心掛けていた。作品作りに甘えを持ち込みたくなかったのだ。 だがこの頃は漫画家さんと友達のように遊んだ。カラオケに行ったり、クラブに行ったり、合コンしたり、リアル脱出ゲームをしたり。編集部の方針も漫画家さんとディスカッションして決めた。漫画家と編集者が、対等な立場で共に作り上げる理想の媒体。それが裏サンデーの方針だった。ランキング競争は苛烈だがしっかりと休載もさせた。夏は本来稼ぎ時だが、裏サンデーは作品は平気で休載し小林翔などサンデーの若手と海外旅行に行ったり。33歳の夏。僕に遅く来た第2の青春だった。休載時の裏サンデーには海の画像を掲載した。画面には【漫画なんか読んでないで海行け海!】 【編集部改革】 このように、マギの仕事はやりつつ、独立部隊のリーダーもやっていたので編集部内で敵なしのような振る舞いだった。さらに僕の同期達もそれに乗っかり、編集部内の空気はガラリと変わった。よく言えば活気が出た。悪く言えばガラが悪くなった。管理された真面目な公立学校が、服装も髪も自由のアメリカンスクールになったような変化だ。それに対応出来ない、当時の中堅社員は随分僕の事を苦々しく思っていただろう。 若い子達が言うことを聞かなくなったのだ。クラブサンデーの仕事も増刊の仕事も雑用も、若い子達が嫌がるようになった。そりゃそうだ。裏サンデーならば社歴や編集部歴に関係なく自由に連載が起こせる。 サンデー編集部の雰囲気をスクエニ編集部のそれに変えていった。その頃、集英社、小学館、講談社、秋田書店などの古い大手出版社が出版不況で苦しんでいたが、スクエニの漫画事業部だけは急成長していた。そのモデルで動く裏サンデーが成長するのは当然だ。若い子達が次々と裏サンデーでヒットを出す。そしてヒットさせたやつが偉い。ヒット出せない編集者に価値はない。だからヒットを出せていない上司の命令は適当に聞けば良い。と僕は捲し立てた。 若い子達は目を輝かせた。毎日楽しそうだ。そしてこの秩序を破壊する僕の行動を当時の鳥光裕編集長は許してくれた。 鳥光さんは2012年から縄田編集長の跡を継ぎ、編集長になったお方だ。彼はとにかく若手に人気がある編集長だった。また青山剛昌先生の担当として長くコナンのミステリートリック制作を手伝っていた。そのせいか、非常に論理的思考で、全て言うことに説得力が会った。コナンのようだった。そして彼は僕を使うのが、これまでで一番上手い編集長だった。そう、彼は僕を使ってこれまでのサンデー編集部を変えようとしていたのだ。 【置き土産】 この頃になると僕も小林翔はサンデーの仕事を殆どしなくなっていた。僕はかろうじてマギだけやっていた。小林翔には僕がサンデーの仕事はしなくていいとさえ言った。注意されたっら揉めてよしとさえ言った。滅茶苦茶だ。彼は実際に命令する上司と揉めて僕が取りなした。ほとんどチンピラとヤ○ザの親分のコントのようだった。僕はまだギリギリ残っていた編集者教育システムや編集部の秩序を徹底的に破壊したかった。それ程、僕は既存のサンデーの教育システムを嫌悪していた。ただある日、当時3人いる副編集長の一人だった、天才編集・坪内さんから呼ばれた。当時の僕はもう編集長と坪内さんの言うことにしか従わなかった。僕にも小林にももう少しサンデーの仕事をして欲しいと頼まれた。 僕は小林翔と相談した。小林翔の力は全て裏サンデーに注いで欲しかったが、そうは行かなくなった。坪内さんの顔を立てなければならない。なので小林翔には最小の労力で、最大の結果を出してもらうしかない。小林翔にショートコメディの連載を起こすように指示した。1話6Pくらいの作品だ。それならば裏サンデーの仕事に支障がないのではないか。小林翔は育成中の新人を提案した。上手い。勿体無い。絶対に当たりそうだ。裏サンデーに欲しい。だが、坪内さんのいうことは無視できない。ヒットさせた奴が偉いのだ。サンデーの序列一位は坪内さんだった。そして小林翔はサンデー用の企画を作った。毎週たった6Pのショートコメディ。のちにアニメ化もされ大ヒットする『だがしかし』である。その作者コトヤマ先生はのちに『よふかしのうた』でもヒットし、サンデーの看板になる。僕も一本新連載をサンデーで起こした。サンデーの賞を受賞した作家なので、サンデーで連載させる事を条件に担当になったからだ。 ・・・こちらは大コケしてしまった。僕のリサーチ不足だった。また絶対にヒットを起こそうと言う心構えが足りなかった。その作者には申し訳ない事をした。オダトモヒト氏である。彼のデビュー作『デジコン』は僕の立ち上げだ。失敗させてごめんなさい。だが彼はすぐに『古見さんはコミュ障』ですを成功させ、やはりサンデーの看板作家になっていく。二人の作家は僕と小林翔のサンデーへの置き土産となった。そう、彼らの作品がサンデーに掲載される頃、僕たちの姿は既に少年サンデー編集部から消えていた・・・ 『デジコン』や『だがしかし』の企画が通った頃、2014年の夏、僕はサングラスの強面の部長に呼ばれた。経費の使い過ぎで怒られるのかと思ったがそうではななかった。部長は僕に提案をした。サンデーを出て編集長をやらないかと。 僕は絶対嫌だと言った。なぜ出なきゃならない? 僕には野望があった。 当然、サンデーの編集長になりたかったからだ。編集者の目標なんか所属媒体の編集長になることに決まっている。少なくとも僕はそうだった。僕の描いた絵はこうだった。まず副編集長になり、クラブサンデーの運用を自分に任せてもらうことだった。そして即座にクラブサンデーを解体しサンデーのWEBサイトは裏サンデーとする。その頃クラブサンデーは莫大な赤字を垂れ流していた。裏サンデーに負けるなと、僕と与しない編集者達は必死で作品を投入していた。さらに赤字が膨らんでいた。もし自分が副編集長になり、それを潰し裏サンデーにリソースを割けばサンデーに圧倒的な収益改善をもたらすことが出来る。さらにクラブサンデーにかけられていた運営費を、裏サンデーのプロモーション費に充てることするらできる。効率的に運営される裏サンデーは既に、本誌サンデーに負けない媒体力を身につけ始めていた。徐々に本誌サンデーに裏サンデーの作家を送り込もう。サンデーの表紙にモブやケンガンを載せて、さらにネットで煽ろう。紙とWEB媒体のコラボ。それが僕が考えていたサンデー復活の作戦だった。 例えばまず裏サンデーで連載を初めて人気がでれば、続きをサンデーだけに早く載せるとか。すると続きが読みたい人はサンデーを買ってくれるはずだ。今の待てば無料のようなシステムを当時の僕は考えていた。さらにサンデーに掲載されるには裏サンデーのランキングで上位を取り続けなければならないルールにし、それを目的に漫画家と担当編集達に競わせる。当然、サンデー本誌の漫画家達にもプレッシャーを与える。裏と表の戦いを演出し、世間に注目させる。その様子を当時現れ始めていたYOUTUBEにアップしてさらにバズらせる。英語に翻訳して裏サンデーを世界規模に成長させる。こんな感じの妄想をしていた。その裏サンデーを握っている限り、いつか本誌サンデーの編集長も僕にせざるを得ないはずだ。そして編集長になり次はマガジンに戦争を仕掛け、最終的にジャンプを倒す。夢物語に思えるだろう。だが、自分には出来る。当時はその確信があった。 なので部長にはそんなことより「僕を副編集長にしてくれ」と言った。 以下やりとり。 サングラス部長「お前、今年デスクになったばかりだろ。なれるわけないだろ?」 僕「なぜ?」 サングラス部長「そういう会社だからだよ」 僕「じゃあ出世しなくていいです。このまま裏サンデー大きくしていきます」 サングラス部長「あのなー、お前の今のやり方は鳥光(編集長)が見逃してくれるからだぞ?新しい編集長が来たら許してくれないぞ」 僕「大丈夫ですよ。僕がなりますから。」 サングラス部長「だーかーらー、そういう会社じゃねーんだよ。仮にお前がさんdねーの編集長になれるとしても、まだ何年も後だ。編集長になりたいなら自分の作った媒体でだけなんだよ」 僕「そういうものですか。」 サングラス部長「いいか、お前にとってもこれはチャンスだ。その年で小学館の編集長になれるなんてレア中のレアだ。まずは、そこで結果を出せと」 僕「・・・・・・・一晩考えさせてください」 僕は小林翔とA君を呼び出し相談した。出た場合のメリットとデメリットを相談し合った。売り上げ的には問題ないだろう。こっちは運営コストを最低限に落として、作ったサイト。既にヒット作もある。裏サンデーコミックスの売り上げは既にゲッサンやサンデーGXなどの、月刊誌編集部の売り上げをも超えていた。しかも雑誌は刷らないので固定費がかからない。大黒字が約束されている夢のような超優良編集部の誕生だ。あの時代、そんな編集部はどこにもなかった。問題は人員だった。サンデーの若手を自由に使って、作品を回していたのだ。多分部長が裂いてくれるのはこの3人が限界だろう。新しい編集部は大抵3人からスタートだ。数年前に作られたゲッサンも3人からスタートしてる。うーむそれだと大きなビジネスは出来ない。小学館は社員を増やすのが難しい。組合などの承認が必要で一年に1人か2人増やしていくのが限界だ。でも僕がやりたいことは無限にある。僕は病気だ。ワークアホリックなのだ。家庭を無くした時に、今後は無理しないと決めていたのに、すぐにまた仕事がしたくなってくる。頭の中にあるアイデアを実現しないと気が済まないのだ。それが出来る今のサンデー編集部の環境は最高だった。さらに前述したサンデー本誌復活のアイデアが惜しかった。今の機を逃せば、もう実現することはないだろう。各社裏サンデーのビジネスモデルを追随し、WEBコミックサイトが続々と増え始めた。真っ青だった海は、徐々に赤くなって来ている。さらに紙の時代はそろそろ終わる。もしサンデーがマガジンやジャンプを抜くとしたら今しかないのだ。 だが、無理なものは無理。そういう会社なのだ。 あと、世話になっている鳥光編集長の事が気がかりだった。僕たちが抜けると言うことは、サンデーの売り上げからごっそりと裏サンデーの売上がなくなる事になる。具体的には書かないがそれは相当な額だ。そして裏サンデーの後には、赤字マシーンクラブサンデーが残される。だが代わりになる媒体である裏サンデーがなくなれば、新人作家はやはりクラブサンデーに載せるしかない。するとさらにクラブサンデーの赤字は上がる。その赤字を今のサンデー編集部が吸収できるだろうか。その責任を鳥光さんが取らされる羽目になるのでは?さらに残される若手編集者達に思いを寄せた。せっかく脱獄させたのに、僕がいなくなる事で変な事にならないか心配だった。 そもそもなぜ今なのだろう。今上手くいっているこの状況を変える必要があるのかわからない。サングラス部長ではなぜ突然、こんな提案を。いや彼なのか? なぜかそれより上のもっと上の、僕が計り知れない抗えない何か大きな権力の存在を感じた。それが誰かはわからない。 翌日、部長に新設・裏サンデー編集部の編集長を引き受けることを知らせた。心にあったのは敗北感であった。

2023-09-10 09:29:00
石橋和章 | Zoo | 漫画編集者&原作者&経営者🎨 @mikunikko

ほぼ漫画業界コラム21 前回の回顧録で、調子に乗っている偉そうな若造に、読んでいる皆様は随分ヘイトを溜めた思います。大丈夫です。栄枯盛衰。この後しっかり【ざまぁ】がありますのでもう暫しお付き合いください。僕はしっかり地獄に落ちます。この回顧録は自分がもう一度、前を向いて働くために、自分の過去の失敗を正面から見つめるために書いております。もちろん多少の弊社の宣伝の意図もありますが、それは副次的なものです。それでは行きましょう。回顧録21【編集長】 1【不安の種】 僕とA君と小林翔の席はポツンと少年サンデー編集部の隣にあった。2014年、裏サンデー編集部がついに始動した。編集部員は原初の3人だけになってしまった。サンデー内部の人間にはもう手伝って貰うこと出来なくなった。僕は不安になった。突然編集長になったのだ。小学館は出世が遅く、普通、編集長になるのは最短でも40歳を超えてからだ。しかも副編集長を経験して、マネジメントを覚えてからゆっくりとなるものだ。だが、僕は33歳で編集長を通達された。最年少編集長と周りは持て囃したがとても不安だった。サイトはうまく行っていたが、3人しか人がいない編集部だ。作品数が少なすぎる。僕自身も担当を持たなければならない。実はマギ以来、担当編集者としての僕はポンコツだった。燃え尽き症候群が治らないのだ。『デジコン』を軌道に乗せられなかったのは、僕の商業漫画アレルギーが治っていなかった証拠である。あと『ゼクレアトル』もだ。モブサイコのような最初から純度100%のネームを持ってくる。そんな作品なら担当出来るのだが、作者と打ち合わせしながら作る作品は苦手になっていた。自分のアイデアと作者のアイデアのキメラみたいなネームを見ると商業漫画アレルギーが発動した。それならもう自分で、シナリオ全部書いてしまうしかないのだが、家庭を失った理由がそれだったのでそれは二度とやるまいと思っていた。それをやる時は会社を辞める時だ。それでもなんとか『勇者が死んだ』を立ち上げた。といっても1巻まで。立ち上げてはすぐに引き継ぐ、それが限界だった。唯一『懲役339年』という作品だけは、担当編集として頑張れた。圧倒的にすごい漫画が作れたと思ったのだが、当時は売れなかった。やはり何かが錆び付いている。小林翔は『たくのみ』や『灼熱カバディ』などのちにヒット作となる作品を立ち上げてくれた。だがA君も運営を頑張ってくれていた。だが不安で不安でたまらなかった。サンデーという巨大な壁に守られて調子に乗っていた僕は、編集長になる覚悟はまだなかったのだ。そんな僕に声をかけてくれたのが市原武法氏、ゲッサン編集長である。 2【エリート筆頭】 市原さんは、サンデー生え抜きエリートで多分唯一生まれたスター編集者だった。誤解がありそうなので言っておくが、僕が中途入社で入った時に彼は、決して僕に対して行われていたパワハラ行為などには加わらなかった。むしろ当時の編集部と冷ややかに見ており、距離を取っていた感じだった。ただ僕とも距離を取っていた感じがする。僕も彼とは距離を取っていた。野良犬と室内犬のように出自が違いすぎるからだ。ただ『結界師』を立ち上げた編集者だ。敬意はある。そんな市原さんと初めてご飯に行った。彼は編集部立ち上げ方から、会社組織でどう生き抜くかまで親切丁寧に教えてくれた。また彼はサンデーの教育システムは間違っていると言った。あのやり方では新人を育てることができないと。同意。ただ、実際、市原さんは編集者として生き残りヒット作を作り今ここにいるではないか。なぜですかと聞いた。市原さんは「サンデー愛」だと答えた。あだち充先生と高橋留美子先生を敬愛し、そのためならどんな地獄も耐えたという。サンデー編集部、最初の3年間の地獄。彼は上司から強制的に飲食を求められ深夜に大量に食べさせられた。残すことは許されなかったなど、震えるようなパワハラの歴史を語った。それで体重が100キロを越えたという。恐ろしい。そんな事をさせる上司は地獄に堕ちればいいと、話を聞いているだけで腹が立った。また、市原さんにここには書けないくらい悲しいことがあった時も、必死に耐えて会社に行ったという。全てはサンデー愛のためだと言う。お前もそうだろと言ってくれた。「そうです!」と答えたかった。そうすべきだったのかもしれない。だが無理だった。僕は沈黙した。僕が好きなのはジャンプだったからだ。ジャンプ編集部に入れるならそっちに入りたかった。僕がサンデーの編集長になりたかったのは、悔しいからサンデーの編集長として、大好きなジャンプ編集部に勝ちたかったからだ。もちろん僕もサンデーに好きな作品は沢山あった。だが、媒体としてあこがれるのは、生まれて初めて買ってもらった漫画が『キン肉マン』であり、初めて自分のお小遣いで買った漫画が『聖闘士星矢』であり、『ドラゴンボール』の毎週の展開に心を躍らせ、『スラムダンク』に涙し、パチスロ『北斗の拳』で万枚を出す興奮を覚えた、そんな子供時代や青春を送らせてくれたジャンプだった。彼と僕の考え方の明確な違い、それは「サンデー愛」があるかないかのそれだけだった気もする。ただ、それはとてつもなく大きな違いだった・・・ ともかく市原さんは僕に大切なアドバイスを二つくれた。まず一つは会社は社員を増やしてくれないので、自分で業務委託で働いてくれる編集者を探さなければならならないこと。そして自分を守ってくれる会社の偉い人を見つけることだった。市原さんは新入社員でパワハラに苦しんでいた頃、白井勝也氏に接触したという。白井勝也氏は元・スピリッツの編集長で小学館の最高権力者の一人だった。彼は市原さんを気に入り、何かと助けてくれるようになったと。要はお前もケツモチを作れと。確かに・・・僕にはない発想だった。僕は常に上司を敵と考えきたからだ。でも、それでは編集長はやれない。そりゃそうか。僕は市原さんの2つの教えを実行する事にした。 2【2つの教え】 まずは業務委託編集者。どうやって探そう。当てもなかった。市原さんは知り合いに紹介してもらったりして集めたという。途方に暮れている時に、思い当たった。その頃FaceBookでたまに漫画編集者志望の人が連絡をくれたからだ。当時も僕はTwitterwで炎上を繰り返していたし、それに興味を持ってくれる大学生がたまにいた。その中 の一人に僕は連絡をとった。その人は後に『プロミスシンデレラ』を立ち上げるヒット編集者に育つ。裏サンデー初の女性編集者だった。 だが、まだ全然足りない。編集長業務は何夜間やで忙しく、僕は担当作を増やすことが出来ない。小林翔も限界だ。A君もシステムの運用で手一杯。あとは新人の女の子。 だめだ。絶対的に苦しい。そんな時に、僕に会いたいと連絡を取って来た男がいた。その名は梅崎勇也。後に小林翔と並んで裏サンデーやマンガワンを支え、はるか未来に僕がサイコミで事業部長をする時、僕の隣で『明日、私は誰かのカノジョ』を立ち上げてサイコミを成功させてくれた男である。 彼とはヤングガンガンの飲み会で知り合った。この頃はまだ、たまにヤングガンガンの飲み会に参加していたのだ。梅崎氏は超薄給で働いていたが限界が来たという。僕が辞めた後のヤングガンガンは、すぐに全員、給料がとても上がったらしい、僕みたいな離脱者を出さないためだ。ただそれはあくまでも正社員に対してだ。梅崎氏はそれより後に入った業務委託社員だった。僕は少し話して、とても気に入った。少し話せば優秀か優秀じゃないかはわかる。グラビアの仕事をしながら、『ムルシエラゴ』を立ち上げヒットさせた実績もあった。僕はヤングガンガンで梅崎氏が貰っている報酬の倍額を提示した。優秀な編集者には価値がある。当たり前の話だ。 次にケツモチ探しだ。今更、白井さんに擦り寄っても相手にしてくれる気がしなかった。ならば社長?いやいやいや怖い。そこで僕が目をつけたのは役員だ。一番出世しそうな役員の人を考えた。一人浮かんだ。様々な場で発言するその役員の言葉が、全て僕には納得が行くものだった。役員は公人か?うーん微妙なのでZさんとしておく。 僕はZさんに、今後様々な事を相談したいと頼んだ。Zさんは快く受けて、しょっちゅう僕を飲みに誘ってくれるようになった。実際にZさんは、その後とても出世した。僕の目に狂いはなかった。 3【裏サンデー編集部】 これで5人。ようやくまともな編集部の形ができた。だが不安は尽きない。紙の単行本市場は以前下がり続けている。発足当時は珍しかった裏サンデーのビジネスモデルも追随者が増えまくり目新しく無くなってきた。スマホの普及で、皆スマホで漫画を読むようになった。裏サンデーは全話無料公開だが、本当にこの形でいいのか? スマホで漫画は読みやすい。裏サンデーは縦スクロールだ。すらすら読める。読者がスマホで漫画を読むのに慣れ切ったら単行本は売れなくなるのでは。ビジネスモデルに不安を抱えながら裏サンデーは様々な試みを試した。裏サンデーでビジネスパートナーを募集して、リアル脱出ゲームを主催したりしたり、シンドバッドの冒険のアニメ付き単行本を発売したり。だがいつも不安だった。もしシンドバッドやモブサイコ100が終わったら編集部を維持できるのかと。それまで強気だった僕は、常に将来を不安視していた。そんな時、あるスタートアップ企業が声をかけてきた。裏サンデーをマネタイズする、漫画アプリの提案だった。 ふー次を書くのがしんどい。しばらく時間が空くかもしれない。僕の人生で最悪最低の時期の話を書く。あの時の悪夢から、僕は完全に立ち直れていない。このコラムを書いているのは、あの傷と向かい合うためだ。今、僕の会社はとてつもない成長を遂げている。本来、こんなコラムを書いている暇があったら本業をやるべきだ。だが、あの過去を乗り越えなければ僕は、事業に本気になれない。だから、共同経営者にも許可を貰って書いている。もちろん別に誰かを傷付けるつもりもないし、誰かを批判するつもりない。ただ、淡々と語ろう。書けるだけの事実を語ろう。何度も・・・死ぬことさえ考えた、僕の地獄の日々を。敗北の話を。『マンガワン』 の話を。

2023-09-11 11:22:44
石橋和章 | Zoo | 漫画編集者&原作者&経営者🎨 @mikunikko

ほぼ漫画業界コラム21 前回の回顧録で、調子に乗っている偉そうな若造に、読んでいる皆様は随分ヘイトを溜めた思います。大丈夫です。栄枯盛衰。この後しっかり【ざまぁ】がありますのでもう暫しお付き合いください。僕はしっかり地獄に落ちます。この回顧録は自分がもう一度、前を向いて働くために、自分の過去の失敗を正面から見つめるために書いております。もちろん多少の弊社の宣伝の意図もありますが、それは副次的なものです。それでは行きましょう。回顧録10【編集長】 1【不安の種】 僕とA君と小林翔の席はポツンと少年サンデー編集部の隣にあった。2014年、裏サンデー編集部がついに始動した。編集部員は原初の3人だけになってしまった。サンデー内部の人間にはもう手伝って貰うこと出来なくなった。僕は不安になった。突然編集長になったのだ。小学館は出世が遅く、普通、編集長になるのは最短でも40歳を超えてからだ。しかも副編集長を経験して、マネジメントを覚えてからゆっくりとなるものだ。だが、僕は33歳で編集長を通達された。最年少編集長と周りは持て囃したがとても不安だった。サイトはうまく行っていたが、3人しか人がいない編集部だ。作品数が少なすぎる。僕自身も担当を持たなければならない。実はマギ以来、担当編集者としての僕はポンコツだった。燃え尽き症候群が治らないのだ。『デジコン』を軌道に乗せられなかったのは、僕の商業漫画アレルギーが治っていなかった証拠である。あと『ゼクレアトル』もだ。モブサイコのような最初から純度100%のネームを持ってくる。そんな作品なら担当出来るのだが、作者と打ち合わせしながら作る作品は苦手になっていた。自分のアイデアと作者のアイデアのキメラみたいなネームを見ると商業漫画アレルギーが発動した。それならもう自分で、シナリオ全部書いてしまうしかないのだが、家庭を失った理由がそれだったのでそれは二度とやるまいと思っていた。それをやる時は会社を辞める時だ。それでもなんとか『勇者が死んだ』を立ち上げた。といっても1巻まで。立ち上げてはすぐに引き継ぐ、それが限界だった。唯一『懲役339年』という作品だけは、担当編集として頑張れた。圧倒的にすごい漫画が作れたと思ったのだが、当時は売れなかった。やはり何かが錆び付いている。小林翔は『たくのみ』や『灼熱カバディ』などのちにヒット作となる作品を立ち上げてくれた。だがA君も運営を頑張ってくれていた。だが不安で不安でたまらなかった。サンデーという巨大な壁に守られて調子に乗っていた僕は、編集長になる覚悟はまだなかったのだ。そんな僕に声をかけてくれたのが市原武法氏、ゲッサン編集長である。 2【エリート筆頭】 市原さんは、サンデー生え抜きエリートで多分唯一生まれたスター編集者だった。誤解がありそうなので言っておくが、僕が中途入社で入った時に彼は、決して僕に対して行われていたパワハラ行為などには加わらなかった。むしろ当時の編集部と冷ややかに見ており、距離を取っていた感じだった。ただ僕とも距離を取っていた感じがする。僕も彼とは距離を取っていた。野良犬と室内犬のように出自が違いすぎるからだ。ただ『結界師』を立ち上げた編集者だ。敬意はある。そんな市原さんと初めてご飯に行った。彼は編集部立ち上げ方から、会社組織でどう生き抜くかまで親切丁寧に教えてくれた。また彼はサンデーの教育システムは間違っていると言った。あのやり方では新人を育てることができないと。同意。ただ、実際、市原さんは編集者として生き残りヒット作を作り今ここにいるではないか。なぜですかと聞いた。市原さんは「サンデー愛」だと答えた。あだち充先生と高橋留美子先生を敬愛し、そのためならどんな地獄も耐えたという。サンデー編集部、最初の3年間の地獄。彼は上司から強制的に飲食を求められ深夜に大量に食べさせられた。残すことは許されなかったなど、震えるようなパワハラの歴史を語った。それで体重が100キロを越えたという。恐ろしい。そんな事をさせる上司は地獄に堕ちればいいと、話を聞いているだけで腹が立った。また、市原さんにここには書けないくらい悲しいことがあった時も、必死に耐えて会社に行ったという。全てはサンデー愛のためだと言う。お前もそうだろと言ってくれた。「そうです!」と答えたかった。そうすべきだったのかもしれない。だが無理だった。僕は沈黙した。僕が好きなのはジャンプだったからだ。ジャンプ編集部に入れるならそっちに入りたかった。僕がサンデーの編集長になりたかったのは、悔しいからサンデーの編集長として、大好きなジャンプ編集部に勝ちたかったからだ。もちろん僕もサンデーに好きな作品は沢山あった。だが、媒体としてあこがれるのは、生まれて初めて買ってもらった漫画が『キン肉マン』であり、初めて自分のお小遣いで買った漫画が『聖闘士星矢』であり、『ドラゴンボール』の毎週の展開に心を躍らせ、『スラムダンク』に涙し、パチスロ『北斗の拳』で万枚を出す興奮を覚えた、そんな子供時代や青春を送らせてくれたジャンプだった。彼と僕の考え方の明確な違い、それは「サンデー愛」があるかないかのそれだけだった気もする。ただ、それはとてつもなく大きな違いだった・・・ ともかく市原さんは僕に大切なアドバイスを二つくれた。まず一つは会社は社員を増やしてくれないので、自分で業務委託で働いてくれる編集者を探さなければならならないこと。そして自分を守ってくれる会社の偉い人を見つけることだった。市原さんは新入社員でパワハラに苦しんでいた頃、白井勝也氏に接触したという。白井勝也氏は元・スピリッツの編集長で小学館の最高権力者の一人だった。彼は市原さんを気に入り、何かと助けてくれるようになったと。要はお前もケツモチを作れと。確かに・・・僕にはない発想だった。僕は常に上司を敵と考えきたからだ。でも、それでは編集長はやれない。そりゃそうか。僕は市原さんの2つの教えを実行する事にした。 2【2つの教え】 まずは業務委託編集者。どうやって探そう。当てもなかった。市原さんは知り合いに紹介してもらったりして集めたという。途方に暮れている時に、思い当たった。その頃FaceBookでたまに漫画編集者志望の人が連絡をくれたからだ。当時も僕はTwitterwで炎上を繰り返していたし、それに興味を持ってくれる大学生がたまにいた。その中 の一人に僕は連絡をとった。その人は後に『プロミスシンデレラ』を立ち上げるヒット編集者に育つ。裏サンデー初の女性編集者だった。 だが、まだ全然足りない。編集長業務は何夜間やで忙しく、僕は担当作を増やすことが出来ない。小林翔も限界だ。A君もシステムの運用で手一杯。あとは新人の女の子。 だめだ。絶対的に苦しい。そんな時に、僕に会いたいと連絡を取って来た男がいた。その名は梅崎勇也。後に小林翔と並んで裏サンデーやマンガワンを支え、はるか未来に僕がサイコミで事業部長をする時、僕の隣で『明日、私は誰かのカノジョ』を立ち上げてサイコミを成功させてくれた男である。 彼とはヤングガンガンの飲み会で知り合った。この頃はまだ、たまにヤングガンガンの飲み会に参加していたのだ。梅崎氏は超薄給で働いていたが限界が来たという。僕が辞めた後のヤングガンガンは、すぐに全員、給料がとても上がったらしい、僕みたいな離脱者を出さないためだ。ただそれはあくまでも正社員に対してだ。梅崎氏はそれより後に入った業務委託社員だった。僕は少し話して、とても気に入った。少し話せば優秀か優秀じゃないかはわかる。グラビアの仕事をしながら、『ムルシエラゴ』を立ち上げヒットさせた実績もあった。僕はヤングガンガンで梅崎氏が貰っている報酬の倍額を提示した。優秀な編集者には価値がある。当たり前の話だ。 次にケツモチ探しだ。今更、白井さんに擦り寄っても相手にしてくれる気がしなかった。ならば社長?いやいやいや怖い。そこで僕が目をつけたのは役員だ。一番出世しそうな役員の人を考えた。一人浮かんだ。様々な場で発言するその役員の言葉が、全て僕には納得が行くものだった。役員は公人か?うーん微妙なのでZさんとしておく。 僕はZさんに、今後様々な事を相談したいと頼んだ。Zさんは快く受けて、しょっちゅう僕を飲みに誘ってくれるようになった。実際にZさんは、その後とても出世した。僕の目に狂いはなかった。 3【裏サンデー編集部】 これで5人。ようやくまともな編集部の形ができた。だが不安は尽きない。紙の単行本市場は以前下がり続けている。発足当時は珍しかった裏サンデーのビジネスモデルも追随者が増えまくり目新しく無くなってきた。スマホの普及で、皆スマホで漫画を読むようになった。裏サンデーは全話無料公開だが、本当にこの形でいいのか? スマホで漫画は読みやすい。裏サンデーは縦スクロールだ。すらすら読める。読者がスマホで漫画を読むのに慣れ切ったら単行本は売れなくなるのでは。ビジネスモデルに不安を抱えながら裏サンデーは様々な試みを試した。裏サンデーでビジネスパートナーを募集して、リアル脱出ゲームを主催したりしたり、シンドバッドの冒険のアニメ付き単行本を発売したり。だがいつも不安だった。もしシンドバッドやモブサイコ100が終わったら編集部を維持できるのかと。それまで強気だった僕は、常に将来を不安視していた。そんな時、あるスタートアップ企業が声をかけてきた。裏サンデーをマネタイズする、漫画アプリの提案だった。 ふー次を書くのがしんどい。しばらく時間が空くかもしれない。僕の人生で最悪最低の時期の話を書く。あの時の悪夢から、僕は完全に立ち直れていない。このコラムを書いているのは、あの傷と向かい合うためだ。今、僕の会社はとてつもない成長を遂げている。本来、こんなコラムを書いている暇があったら本業をやるべきだ。だが、あの過去を乗り越えなければ僕は、事業に本気になれない。だから、共同経営者にも許可を貰って書いている。もちろん別に誰かを傷付けるつもりもないし、誰かを批判するつもりない。ただ、淡々と語ろう。書けるだけの事実を語ろう。何度も・・・死ぬことさえ考えた、僕の地獄の日々を。敗北の話を。『マンガワン』 の話を。

2023-09-11 11:25:50
石橋和章 | Zoo | 漫画編集者&原作者&経営者🎨 @mikunikko

ほぼ漫画業界コラム22 回顧録11【LINEマンガ】 【LinkーU】 そのスタートアップ企業はLink-Uと言った。今ではプライム上場もしている大きな会社だ。 当時の代表は三重野将大氏という若者だった。ちなみに僕はスタートアップ企業という存在を理解していなかった。要は生まれたての会社の事をそういうのだと思っていた。ベンチャー企業と同じだと思っていた。この誤解が僕の失敗の一要因だ。物を知らないと損をする。ググレカスとはよく言うものだ。その一手間を惜しみ何かを知った気になっている人間は愚かだ。それが僕であった。愚かな自分の失敗と向き合うために書いているのでよく話が脱線する。それを理解して読んで頂きたい。 社長の三重野くんは、イケメンで話が上手く、サッカーでプロ直前の経歴も持っていた。僕は一瞬で気に入ってしまった。ミレニアム世代ってすげえ、こんな若いのに自分よりも遥かに的確に物事を捉えている。彼は裏サンデーアプリ化の資料を持ってきていた。当時はまだマンガアプリは黎明期でマンガボックスとcomicoがリリースされた直後だった。どちらも課金システムはなく、僕はアプリには興味を示していなかった。だが、三重野氏が考案し持ってきたその資料には非常に魅力的な課金システムが書かれていた。話売りだ。それまで電子書籍は単行本単位で売るのが常識だった。だが、この若者は1話単位で作品を売る仕組みをプレゼンしたきた。うまく回れば莫大な収益が出せそうだ。こんなものを20代前半の若者が考えついたのか!? それ以前に堂々と、10歳上の人間にプレゼンできる度胸に痺れた。ミレニアム世代恐るべし。 彼らは学校で、教師から体罰などを受けていない。恐ろしいヤンキーもいない時代に生きてきた。ちなみに僕の時代は中学の教師が、彫刻刀で机に好きな男子の名前を書いているのを見てブチギレて女子生徒を髪を掴んで机に何度も叩きつけたり、ちょっと反抗的な男子生徒に対してブチギレた体育教師が、その生徒を鉄棒で首吊りにして失神させたりするような時代だった。僕も教師を怒らせて顔がアンパンマンみたいになるまで往復ビンタで100発ぐらい殴られた事もある。地元の年上ヤンキーも怖かった。とても書けないような事をする奴らがたまにいて、僕のような一般人は彼らを怒らせないように生きてきた。部活動では歳上に理不尽なシゴキをされ、就職すると徹底的なパワハラを受ける。なので年上や権力者を恐れ萎縮する癖みたいなものが付いているのが僕ら就職氷河期世代だ。だがミレニアム世代は違う。社会のモラルが上がり、そんな事をする教師もヤンキーも先輩も上司も(多分)いなくなっていた。だから彼らは物おじせずに年上に自分の意見やアイデアを自由に発言できるのだなあと思った。また話が逸れた。 ともかく三重野氏が持ってきたそのアイデアはとても魅力的だった。だが、同時に運用するのが大変そうだとも直感的に感じた。その時はまだ3人の部署だ。作品数が少なすぎるし、アプリにしても大した収益に繋がらない気もした。それに何より裏サンデーのコンセプトは好きな作品だけを、好きな作家とだけ自由に作る事だった。結果的に集客に成功し、単行本の売り上げが上がり、部署は独立させられたが、本来は収益よりも楽しさを求めていただけのサイトだったのだ。スマホゲームのように、読者に課金させる仕組みにも最初は抵抗感があった。 だが、裏サンデーは独立部所。自分達の給料は自分達で稼がねばならぬ。そう思って検討をはじめた。ちなみにこれも、僕が地獄に落ちた理由の一つだ。別にサラリーマンなのだから、自分で稼がなくてもいいのだ。年功序列、査定なしの環境でなぜこんな思考になったのか。編集長という肩書きが僕の頭をバグらはじめた。とにかく部署として稼がなきゃと追い込まれていた。しかも裏サンデーの影響であちこちの出版社が、WEBマンガサイトを作り始めている。ネットで話題を作って単行本を売ると言うビジネスモデルはすぐに飽和し崩壊すると思った。裏サンデーはサンデーと違って作品のアーカイブが少ない。コナンやメジャーが延々と稼いでくれるサンデー時代とは違うのだ。ただ、すぐに踏ん切りが付かなかった。アプリを作るにしても組むべきはこの会社なのか? 2014年7月末。僕は一旦返事を保留した。 【マンガアプリについて】 僕はマンガアプリを調べた。前年の2013年にマンガボックスをDeNAがリリースしていた。編集長は元マガジンの編集者で樹林伸氏だった。僕ら漫画編集者にとってレジェンドだ。僕も一度だけお会いした事があった。芸能人に会った時のように一緒に写真を撮ってもらうぐらい憧れていた。彼は自分でシナリオを書いて漫画家に渡すスタイルで有名な編集者で、かつて僕が目指していた一つの姿だった。彼が関わっていたのでしばらく注目していたが、そのビジネスモデルには勝機を見出せなかった。当時のマンガボックスは毎号、毎号の雑誌のようなスタイルで配信され、折角のアプリなのに、お目当ての作品にたどり着くのに沢山のスワイプが必要だった。紙の雑誌のように色んな作品を読ませるための施作なのだろうがナンセンスだ。紙の雑誌のビジネスモデルから脱却していないと注目するのをやめた。次にcomicoを調べた。なんとカラー縦読みで全話無料。ももクロを使ったプロモーションをしている。だがこれでどうやってマネタイズするつもりなのか。人はずいぶん集まっているようだが…すぐには脅威にならないだろうと一旦、無視した。そんな中、気になる存在があった。LINEマンガだ。2011年にサービスを開始したLINEは瞬く間に巨大なプラットフォームになった。そんなLINEが作るマンガアプリはそれだけで脅威だと思った。iOSアプリランキングで一位だった。アプリをやるならばここに勝たなければならない。そしてLINEマンガを調べた。そもそもLINEの親会社はどこなんだろう。検索をかけていくと…ってネイバーじゃん! その時、はるか昔の記憶が蘇った。ヤングガンガン時代に中野編集長が、韓国出張に行っていた。確かそこでマンガをネットで読ませるサービスを始めた会社を見学したと。確かその会社の名がネイバー。そこにキム・ジュング氏という編集者がいて、ヤングガンガンの同僚だったイ・ヒョンソク氏がお世話になっているという話を思い出した。その時はまだ小さなベンチャーだったはず。2004年ごろの話だ。その会社がたった10年で成長し、巨大プラットフォームを日本で形成するまでになったのだ。その運営会社が作るマンガアプリサービスが『LINEマンガ』。僕は2004年の頃の鮮明に思い出した。そもそも裏サンデーの発想も、その話を聞いた時から漠然と考え始めたのだ。検索をかけたらcomicoもネイバー系列の会社だった。僕はLINEマンガをダウンロードし見てみた。今のところ単なる電子書籍アプリだった。当時日本にも、コミックシーモアやめちゃコミックやまんが王国なんかが普及していた。まだ…大丈夫。そう思ったばかりの8月。お盆休みの手前で、当時のコミック局の役員が編集長会議で驚きの発言した。 【LINEマンガ】 編集長会議とは小学館の全漫画雑誌の編集長が集まる会議で、僕もその年から参加することになっていた。その内容はこうだった。LINEマンガが漫画作品の提供を求めていること、それらの漫画は単行本単位ではなく話単位で連載されると言うこと。各編集部は協力すれば、高額の協力金がもらえること。殆どの各編集長たちはポカンと聞いていた。運営の厳しい雑誌の編集長は協力金に興味を示していたが、僕は一人戦慄していた。やばい。危機感が走った。会った事もないキム・ジュンク氏の作戦がなぜか頭にダウンロードされた。そして彼のキャラクターシンキングを開始した。紙市場が滅びた韓国で必死にマンガを売ろうと考えているキムさん。そしてそれで会社が大きくなり、市場を日本に求めたキムさん。キムさんが作っているマンガは縦読みだ。すぐに日本では売れない。だから最初は電子書店サイトの形で日本のマンガを売る場所を作ろうと思うはずだ。そして電子書店アプリを作ったら、次に試すのが話売りだ。日本の名作漫画を韓国で作ったノウハウで販売し集客する。ついこの前三重野くんが持ってきたシステムとそっくりだった。間違いなくLINEマンガは成功する。莫大な収益を生むだろう。そして・・・読者が集まった後は、間違いなくキムさんは韓国本国で作っている作品を送り込むだろう。その頃も韓国ドラマが流行っていた。韓国のエンタメはレベルが高い。その作品が、日本の漫画を超えるレベルでヒットし出したら・・・昨年、僕はそのキム・ジュンク氏とお会いし話す機会があり、答え合わせをした。僕の当時の予想はバッチリ当たっていた。そして彼はまさしく、漫画に詳しく漫画好きの漫画編集者だった。いや漫画だけではない。経営も何もかもあらゆる事に詳しく天才的な頭脳を持つ漫画編集者だった。僕は世界一の漫画編集者は誰かと問わればはっきりと答えられる。キム・ジュンク氏だ。僕も【当時は】世界一の漫画編集者を目指していた。ロロノア・ゾロが鷹の目のミホークに挑むような気持ちになった。このままでは日本の漫画業界はネイバーが頂点に立つ。負けたくない。ただ今の僕の力だけでは勝てない。僕はサンデーの鳥光編集長とスピリッツの村山宏編集長に訴えた。LINEマンガは今は普通の電子書店だが彼らは、おそらくメディアになろうとしている。各編集部の人気作品で読者を集め、今に韓国本国で作っているオリジナル作品を売り出すだろうと。それがヒットし出したらもう勝ち目はない。いずれ紙の漫画雑誌が消滅し、プラットフォームが電子媒体だけになれば、僕たち出版社の編集者はその強力な電子媒体に作品を提供するしかなくなるだろう。そのプラットフォームを僕たち出版社が持っていられればいいが、そうじゃなければ僕たちはその電子媒体の下請けでしかなくなるだろう。だから、今僕たちは強い電子媒体を作らねばならない。もう、サンデーとかスピリッツとか言っている場合ではない。小学館の力を結集して最強の電子媒体を作らねばならないと力説した。いや、小学館だけではない。あらゆる日本の出版社が力を合わせるしかない。ただ、それには時間がかかるだろう。時間を稼がなければならない。だから今、LINEマンガに作品を提供してはならないと。二人の編集長はもっともだと理解してくれた。だが、当時の役員はすでに決定したことだと答えた。抗議する僕に対してこう答えた。小学館が乗らなくても、他社が乗る。ならば乗ったほうがいい。正論だった。事実、ほぼ全ての有名編集部がLINEマンガの提案に乗った。唯一ジャンプ編集部の作品は無かった。流石ジャンプだと思った。だが悔しかった。僕は組織への帰属意識が低い人間だ。小学館への帰属意識もサンデーへの帰属意識も低い。だが流石に日本漫画業界への帰属意識はあった。誰もこの危機に気付いていない。真に気付いているのは僕だけだ。僕が日本の漫画業界を守らなければと本気でそう思った。次号に続く。 【追記】 先にネタバレをしておきますが。2023年現在、戦いは完全に終わったと考えています。僕は圧倒的に破れ去り、現在の漫画市場でプラットフォームは電子ストアに移りました。『LINEマンガ』とそれに追随して現れた『ピッコマ』がアプリ市場では2強になりました。それぞれ月間売り上げが50億円前前後と60億円前後です。ただしLINEマンガは全世界に販売網を築いているので、それらが加算されるとどれほどなのか分からりません。さらにその売上の多くがオリジナルWEBTOONに置き換えられ始めています。ちなみにアプリ3位のジャンプ+、マガジンポケットはそれぞれ5億程度です。LINEやピッコマの10分の1程度でしかありません。マンガワンに至っては1億前後。ちなみにこれらの売上にアンドロイドの売り上げが加わるのですが、アンドロイドの売上は経験上せいぜいiOSの3分の1くらいです。あっ、今気づいたがマンガワンは今年に入って調子が良いですね。8月は1.8億!今年、編集長になった豆野文俊編集長の頑張りを讃えましょう。僕が一時期手がけていたサイコミも最盛期は1億ぐらいありましたが今はちょっと下がってしまいましたね・・・。ソースのサイトURLは返信ポストに貼ります。分析してみると面白いですよ。一方、アプリとは別にブラウザ版の電子書店サイトも元気があります。ブラウザのほうではNTTソルマーレの『コミックシーモア』が気炎をはいています。月間売り上げは100億程度と聞いています。アムタスの『めちゃコミック』も強く50億程度らしいですね。あと『EBOOK JAPAN』も強いそうです。ちょっと金額が思い出せません。ただし、こちらは『LINEマンガ』が買収しました。今後LINEマンガはブラウザでも強くなっていくでしょう。LINEマンガさん強すぎですね。そして国内のマンガプラットフォームはLINEマンガ、ピッコマ、コミック、シーモア、めちゃコミック、それにKindleを加えた5強になりました。この5強と6位以下のメディアはどんどん差が開くと僕は考えています。なぜなら最後は札束の打ち合いになるからです。例えば広告費。月間1億円で勝負できていた時代は終わりました。今は10億円でも足りません。あとコンテンツ。ここには出版社は若干の優位性がまだあります。漫画制作のノウハウがあるからです。ただ実際に漫画を作っているのは漫画家です。今後、次々と漫画家達は電子ストアと直取りを始めるでしょう。これまで出版社が得ていた利益の多くを、今後漫画家が直接得るでしょう。そして今後は、漫画家の億万長者が爆発的に増えるでしょう。その波は加速していくはずです。それが最初韓国で起き、今日本で起きつつあります。ちなみに僕には二人の娘がおりますが、将来の夢は漫画家だそうです。絵が描けるなら今、絶対に目指す職業は漫 画家だと断言します。僕も漫画編集者をほぼ引退し、漫画原作者になりました。時代が変わった以上、生きていくためには仕方がありません。ちなみに、2016年ごろ、かつてLINEマンガの背後であるランキング2位につけていたマンガアプリがありました。それがマンガワンです。最近、LINEマンガの当時の関係者と話していて、当時LINEマンガの運営者達も唯一マンガワンを脅威に思っていたそうです。ですが、突如マンガワンの成長は止まりました。それは僕の転落劇とリンクしています。それを次回から書いていきましょう。

2023-09-12 12:45:30
石橋和章 | Zoo | 漫画編集者&原作者&経営者🎨 @mikunikko

ほぼ漫画業界コラム23 回顧録12章【崩壊】 【完全版】 これまでこの回顧録は、漫画のように出来るだけエンタメとしても楽しめるようにドラマ性を重視して書いていてきましたが、もう時間がなさそうです。さくさく進めます。とにかく回顧録はラストまで書ききリます。 【第一の失敗】 裏サンデーは相変わらず絶好調だった。2014年の12月中旬、裏サンデー編集部の謝恩会が盛大に開かれた。各作家さんやLinkーUなどの取引相手が集まり、かなりの盛り上がりを見せた。ただし三重野社長がなんとなく元気がないように見えた。そして年末、事件が起きた。三重野社長とLinkーUの役員である松原祐樹氏が緊張した趣でやってきた。問題が起きたという。開発が出来なくなったというのだ。それは困る。こっちは大量の宣伝予算を組み、さらに広告代理店に広告費を振り込んでいるのだ。理由を聞くと要はエンジニアを纏めきれなくなった三重野氏が会社を辞めて、新社長になった松原祐樹氏が経営すると言うこと。さらに松原氏はLinkーUを知り合いの会社に売却したいというのだ。LinkーUは消滅するので契約は無効、開発は続けられないと言うことだった。要はLInkーUの仲間割れに巻き込まれたのだ。これがスタートアップの世界か。ちなみに僕はまだスタートアップ企業の意味を理解していなかった。ただ、怖いと思った。だが、ここで開発を停めるわけにはいかない。2014年12月25日。僕とA君と松原社長で長時間の交渉がなされた。上司を説得し当面、Link-Uが自前で経営できるように増額した開発予算を捻出し、それを支払う事で松原氏を説得し売却を断念させた。松原氏は納得してくれ、全てを撤回し共に戦うと言ってくれた。そして改めてパートナーとしてLinkーUとアプリ開発を始めた。だが、僕はこの一件で松原社長への苦手意識を持ってしまった。僕は三重野氏だから組んだつもりだったからだ。なので彼とのコミュニケーションを避けるようになってしまった。これから世界一を目指すのに、僕は共に戦う相棒を疑ったまま戦場に出てしまったのである。決定を覆してまで僕と組むと言ってくれたのである。だからもっと腹を割って、話し合うべきだった。人間は鏡だ。こちらが不信感を持って接すると、あちらも不信感を持って接する。これが僕の第一の失敗である。僕はスタートアップ企業というもののゴールがIPOかM&Aだということを事を知らなかった。だから僕はそれら動きに全く協力しなかった。松原祐樹社長に心から陳謝する。大変申し訳ありませんでした。まあ、そんな不安の種を抱えながらも日本一、いや世界一位の漫画プラットフォームを作ってみせるそう。強く思って2014年を終えた。そして2015年1月、いよいよ小学館初のマンガアプリ『マンガワン』はリリースされた。 【マンガワンの結果の話】 先に結果だけ書こう。僕の挑戦は失敗した。2015年のリリースから僕が編集長を退任する2017年の7月の間にはマンガワンは世界一にはなれなかった。もちろんマンガワンは現在でも存続している。だが、今後も世界一にはなれないだろう。 惜しいところまでは行った。リリースしてまもなく先行していたジャンプ+を瞬く間に抜き去った。さらに古参のマンガボックスを抜き、ついにはcomicoをもDAUで抜き去った。最盛期のマンガワンは目標であるLINEマンガに次ぐiOSランキング2位まで上り詰めたのである。その要因としては複数あると思うが、『メジャー』や『ウシジマくん』の全巻一気と呼ばれるサービスの存在が大きかった。それらが1日4話タダで読めるサービスだ。さらにそこで集めた読者達がケンガンアシュラやモブサイコ100の新規読者になり、毎日、マンガワンを閲覧する習慣が付くようになるのだ。さらに当時は広告規制が弱く、今では考えられない程、安い単価で読者を獲得する事ができた。僕はサングラスの部長と交渉して粗利の50%を広告予算にしてもらう事にしてもらっていた。広告を回せば回すほど売り上げが上がり、読者も増えていった。最盛期にはDAU120万、月間売上は3億を超えた。が、そこで打ち止めだった。ただ僕はこの2年半の記憶が殆どない。それは裏サンデーを運営していた3年間に比べて余りに過酷で、喜びが少ない日々だった。 【第二の失敗】 初月の売り上げは100万ほどだったはずだ。それが1年足らずで100倍の爆発的な成長をとげたのだ。出版ビジネスは薄利多売。小学館の歴史の中でも、これほど急速に成長した部署は殆ど無かった。ネットビジネスに疎い上層部は僕が怪しいビジネスを営んでいると噂した。さらに電子書店に対して営業をかけているデジタルマーケティング局が苦い顔をし始めた。当時は出版社が直接コンテンツを販売する発想はどこも持っていなかった。マンガアプリに単話課金システムを搭載したのは出版社系アプリではマンガワンだけだった。ジャンプ+もジャンプの定期購読はしていたが作品単位で課金させたりはしていなかった。当時は出版社は作品を作る、電子書店は作品を売る。そうやって棲み分ける不文律があったのだ。それをマンガワンは初めて破った事になる。その後、マンガワンに追随する形で各社アプリは課金機能を搭載し、電子書店もオリジナル作品を作るようになる。どうせそうなる事が僕には見えていた。だから僕はスピードを求めた。プラットフォーム構築は先行者が一番有利だ。業界の慣例など無視。速く、もっと速く!だた、当時の僕のこの考え方は電子書店と向き合っている社員たちには迷惑だったと思う。今でももっと話し合うべきだっと後悔している。僕は一編集部でなんとかしようとしてしまった。これが僕の第2の失敗である。 【第3の失敗】 マンガワン2016年中盤になるとマンガワンの成長は完全に止まった。大きな理由は一つ。マンガワンの広告費の抑制が始まった事。それまで売上に対して一定の比率で広告費を決めていたが、売上上昇が急過ぎて小学館の1年にかけられる宣伝費を超えてしまったからだ。広告費はその後、Appleなどの広告規制は強くなりそれによる獲得単価の上昇によって、DAUの上昇は止まってしまった。さらに僕は新たに編集長になった市原武法氏と対立してしまった。ある日、彼はマンガアプリの名前を『裏サンデー』ではなく『マンガワン』にした理由を尋ねてきた。彼は僕にサンデーブランドのデジタル面での強化を期待してくれていた。次の編集長はお前だよとも言ってくれた。だが、当時の僕には既に紙の雑誌のブランドはもうどうでもよかった。マンガワンなんですよ、スピリッツもサンデーもsho-comiも全部、マンガワンに載るんですから。全てのトップにマンガワンが立ち、サンデーはその中の一ブランドになれば良いじゃないですか。当時の僕は日本漫画業界を守るという使命感から、そういう人の感情とか誇りとかそういうものを無視するところがあったサンデーなんてちっぽけだとさえ思っていた。市原さんは「サンデー愛」の人だった。サンデーを愛し、サンデーブランドを守りたいそういう人だった。その人の誇りを僕は平気で傷つけてしまった。改めて市原武法氏にこの場で謝罪する。市原さん申し訳ありませんでした。 その後市原さんがサンデーを復活させるのは有名な話であり偉業だったと思う。だが一つだけ、確かに市原さんが編集長就任時サンデーは危機だった。ただその理由は明白だった。クラブサンデーである。クラブサンデーが生み出す巨大な赤字。それが第一要因だ。さらに裏サンデーを分離したこと。僕や小林翔やA君や、その後数人の優秀な生え抜きを異動させたこと。もし、裏サンデーがサンデーに残っていれば、勝手にクラブサンデーは消滅し、サンデー×裏サンデーの相乗効果で、新人は続々と集まりサンデーはトップブランドにもなれたはずだ。なぜ、あの2013年夏、上層部はまだマネジメントのマの字も知らないクソガキの若造を無理やり独立させたのか。若き日の心残りが消えない。 【第4の失敗】 そしてサンデーからの作品提供が止まった。サンデーはクラブサンデーを廃止し、独自のアプリを作るからだという。幸いスピリッツ編集部はマンガワンに好意的だった。天才・坪内崇編集長が新たな編集長になっていた。その頃は『闇金ウシジマくん』は引き続きマンガワンで連載させてもらえていたが『メジャー』や『神のみぞ知るセカイ』を引き上げられた。マギの外伝である『シンドバッドの冒険』を掲載しているのにも関わらず『マギ』の掲載もできなくなった。他社に作品提供を求めたが十分な作品数を集める事は出来なかった。仕方がないので僕は部署内に鞭を振るうしか無かった。今なら分かるがマンガワン規模のマンガアプリを運営するならば、15〜20人程度のスタッフは必要になる。だが当時の編集部は僕も含め社員5名だけ、あとは業務委託の編集者が二人いただけだ。それで365日1日も休まずに作品を更新するのだ。マンガワンは新人賞の応募が多く、描いてくれる作家さんは沢山いたが、編集者が足りなかった。彼らに週刊連載を5本も6本も担当させた。(とこれを書いている時にそう思っていたのだが、先日、小林翔に確認したところ彼の担当本数は13本だったという。鬼畜の所業だ。)僕はスーパーブラック編集部を作ってしまった。もちろん多くのヒット作を生み出したが、あっという間にみんなボロボロになっていった。彼らに報いるものは何も無かった。小学館は年功序列。働いても働かなくても報酬は上げられないのだ。飲みに連れて行って無理やり士気を上げおうとしたが無駄だった。僕は彼らの管理に疲れ果てていた。溜まらず上司に泣きつき、社員を増やしてくれと頼んだ。同期で遊び友達でもあった和田裕樹氏(後の三代目マンガワン編集長)を副編集長に招くことが決まった。さらに僕と同年代の同期を呼んだ。同期二人が下にいると心が楽になった。僕は常に和田くんに運営を相談するようになった。もう直接部下と接するのが辛くなってきた。それはそれまで文句も言わず、黙々と運営業務をやっていたA君の気持ちを全く考えていない行為だった。僕は編集部では小林翔と梅崎勇也の二人のヒット編集を、常に持て囃していた。だがそれ以外の地味でも、大変な仕事をしている編集者の気持ちを考えてやれなかった。A君、そのほかの皆ごめんなさい。僕はダメな編集長でした。 【組織崩壊】 そして、マンガワンは一度組織崩壊する。社内外に敵を作りすぎた結果、さらに僕はマンガワンの内部でも深刻な組織対立を起こしてしまった。言いたいことは沢山あるが、一言で言えば自分のマネジメント能力が足りなかった。すでに巨大なビジネスと化してしまったマンガワンは裏サンデーの時のような緩いサークル活動のノリで運営できるものではなくなっていた。社内政治も必要だった。なんども僕を編集長からおろそうとする動きが感じられた。僕は会社も信用できなくなった。現場から突然、編集長になった僕には巨大ビジネスを取り仕切れるマネジメントスキルは無かった。社内外の様々なトラブルによって僕はもうマンガワンの編集長を続ける事は出来ない状況に追い込まれた。だが、ここでマンガワンを崩壊させるわけいかない。既に沢山の作家さんや編集者を抱えていたし、自分自身としても自分の漫画編集者人生の集大成だと考えていたからだ。そこでいつもマンガワンを応援し、作品を提供し続けてくれていた元スピリッツの編集長である村山宏氏に、1年だけでいいから僕の代わりに編集長をやって欲しいと頼んだ。村山氏は幾多の修羅場を潜った僕より10歳近く上の編集者だ。温和さとタフさを併せ持つ人で、この人しかマンガワンを立て直せないと思った。編集部は新体制となり村山編集長、和田副編集長、僕の3人でガタガタになった組織を立て直した。が、簡単ではなかった。僕は怪文書をばら撒かれたり、社内外の作家や会社の人々に、悪評をばら撒かれた。僕はメンタルを完全に壊し僕は会社に行けなくなった。唯一続けていたマギの打ち合わせ参加もできなくなった。マギのラスト半年くらいに僕は関われなかった。人生で初めて抗不安薬と睡眠薬の世話になりながら毎日、暗いベッドの上で泣いて暮らした。睡眠薬を酒を同時に飲んだりしてた。死ねないかなあと考えていた。だが死にもしないし眠れもしなかった。だが、唯一の救いだったのが小林翔や梅崎勇也や同期の人や、それでも僕を慕ってくれる数人の部下が毎日、毎日家のマンションの下まで来て僕を外に連れ出してくれた事だ。また僕のその頃からのパートナーでもあり、当時を支えてくれた現在、コミックルームの共同代表でもある宮口理沙にも感謝を述べたい。いつもありがとう。ただ、小林翔はやはりすごかった。組織対立の時に突き上げられたのは僕だけではない。小林翔もだった。だが本人はケロリとした顔で毎日、会社に行き平然と仕事をしていた。心が鉄で出来ているんだな。辛くないんだなと思っていた。だが、僕が小学館を退社する今年の2月、沢山の人が来てくれた送別会で彼は初めて当時の本音を話した。「辛かったに決まってるじゃないですか。でも俺まで倒れたら僕たちが作ったもの全部なくなってしまうじゃないですか。だから必死だっただけです。」彼は泣いていた。僕も泣いた。翔くんごめんね。 その後、僕はなんとか復職した。抗不安薬と不摂生で体重が10キロも増え、見た目も半年で10歳は老けた。確かにマンガワンを無くすわけにいかない。そして必死に組織を立て直した。ちなみにこのころの僕の役職名はエキスパートエディターとされた。この役職名は僕のためにわざわざ会社が作った役職だ。同時に後にcomicoの社長になる武者正昭氏もエクスパートエディターになった。『うしおととら』を始め数々のヒット作を立ち上げた武者氏は一時期マンガワンに在籍した。部下としては恐れ多くて扱えないので、レジェンド編集者として若手の教育をしてもらっていた。レジェンド編集と同格とは光栄の限りである。しかし、エキスパートエディターか。編集の達人。いいと思った。僕は次にそれを目指そうと思った。 【2次落ち会】 部下の管理から解放された僕は再び現場に戻ってコンテンツを作ろうか考えてみた。とはいえ長い編集長業務の間、僕は自分の担当作家を全て手放していた。どうしようか。当時は『マンガワン新人トーナメント』と言う新人賞があった。投稿者は連載1話目を投稿し、それが読者投票によって篩い落とされる、2回戦に第2話、3回戦で第3話と言う形で3話目掲載時点で得票1位をとった作者がそのまま連載になるという、裏サンデー時代から続く名物新人賞だった。丁度3回戦真っ最中だったので、僕は2回戦で落ちた作家さんの原稿をみた。僕は3人の作家さんを選んだ。基準は一つだけ、表情が描けている事。漫画ビジネスは読者に絵で感情体験させるビジネスだ。表情が何よりも大切だ。僕は3人に連絡しLINEグループを作った。そしてそのグループを【2次落ち会】と名づけ、彼らを会社に呼び週に一度の漫画制作セミナーを開いた。目標は週に一度のセミナーで3ヶ月後には新連載ネーム3話分が完成する事だ。僕のこれまでの打ち合わせの経験をもとに始めたこのセミナーで結果として3人のうち2人がデビューする事になる。一人はエンジニアの方で本業が忙しく途中でリタイヤしたが二人デビューさせる事に成功させた。その時生まれた作品が『ヒマチの女王』と『3インチ』である。どちらもマンガワンで長期連載する人気作となる。僕はこの時、自分の連載立ち上げ術が確度が高い事を確信した。漫画歴が浅い作家でも、メソッドをしっかり教え込めば3か月で人気作家に育てられるのだ。僕は編集の達人になれるかもしれない。そして2018年の年が始まった時に村山編集長に辞表を提出した。マンガワンは立ち直った。自分がすべき事はここにはもう無いと感じた。僕はある人物にLINEをした。 【渡邊耕一氏】 その人物と知り合ったのは2016年の末ごろである。サンデー時代の同僚から、一人の人物を紹介されたのだ。株式会社Cygames社長の渡邊耕一氏である。当時(今も)Cygamesは飛ぶ鳥落とす勢いで成長していた。これまで書いてこなかったが、マンガワン編集部はゲームも作っていた。『モブサイコ100』や『ケンガンアシュラ』のゲームアプリに編集部予算から出資して作っていたのだ。マンガワンの成長に限界を感じていた僕は、もう一つ収益の柱を作ろうとしていたのだった。丁度良い、ゲームアプリの作り方を教えてもらおうと。六本木のある店で、対面した彼は僕がこれまで会っていた人間と全く違う人種だった。もの静かで饒舌ではないが、ピンポイントで物事の本質を射抜くそんなタイプだった。彼は2010年に立ち上げたCygamesをわずか8年足らずで社員3000人の巨大企業に育て上げていた。裏サンデーを立ち上げたのは2011年。マンガワンとして大きくなったとは言えスケールが違うレベルで組織を巨大化させた渡邉社長に僕は興味を持ち交流を続けた。その後、僕はマンガワンでの組織崩壊を招き、その事を渡邊氏に相談していた。僕はマネジメントに悩んでいた。ドラッカーを始め様々なマネジメント学の本を読み漁り、逆に分からなくなっていた。渡邊氏は言った「石橋さん、それより横山光輝先生の『三国志』を読めば良いんですよ。」・・・渡邊社長の下で組織マネジメントを勉強しようと思った。

2023-09-13 13:34:31
石橋和章 | Zoo | 漫画編集者&原作者&経営者🎨 @mikunikko

ほぼ漫画業界コラム23 回顧録12章【崩壊】 これまでこの回顧録は、漫画のように出来るだけエンタメとしても楽しめるようにドラマ性を重視して書いていてきましたが、もう時間がなさそうです。さくさく進めます。とにかく回顧録はラストまで書ききリます。 【第一の失敗】 裏サンデーは相変わらず絶好調だった。2014年の12月中旬、裏サンデー編集部の謝恩会が盛大に開かれた。各作家さんやLinkーUなどの取引相手が集まり、かなりの盛り上がりを見せた。ただし三重野社長がなんとなく元気がないように見えた。そして年末、事件が起きた。三重野社長とLinkーUの役員である松原祐樹氏が緊張した趣でやってきた。問題が起きたという。開発が出来なくなったというのだ。それは困る。こっちは大量の宣伝予算を組み、さらに広告代理店に広告費を振り込んでいるのだ。理由を聞くと要はエンジニアを纏めきれなくなった三重野氏が会社を辞めて、新社長になった松原祐樹氏が経営すると言うこと。さらに松原氏はLinkーUを知り合いの会社に売却したいというのだ。LinkーUは消滅するので契約は無効、開発は続けられないと言うことだった。要はLInkーUの仲間割れに巻き込まれたのだ。これがスタートアップの世界か。ちなみに僕はまだスタートアップ企業の意味を理解していなかった。ただ、怖いと思った。だが、ここで開発を停めるわけにはいかない。2014年12月25日。僕とA君と松原社長で長時間の交渉がなされた。上司を説得し当面、Link-Uが自前で経営できるように増額した開発予算を捻出し、それを支払う事で松原氏を説得し売却を断念させた。松原氏は納得してくれ、全てを撤回し共に戦うと言ってくれた。そして改めてパートナーとしてLinkーUとアプリ開発を始めた。だが、僕はこの一件で松原社長への苦手意識を持ってしまった。僕は三重野氏だから組んだつもりだったからだ。なので彼とのコミュニケーションを避けるようになってしまった。これから世界一を目指すのに、僕は共に戦う相棒を疑ったまま戦場に出てしまったのである。決定を覆してまで僕と組むと言ってくれたのである。だからもっと腹を割って、話し合うべきだった。人間は鏡だ。こちらが不信感を持って接すると、あちらも不信感を持って接する。これが僕の第一の失敗である。僕はスタートアップ企業というもののゴールがIPOかM&Aだということを事を知らなかった。だから僕はそれら動きに全く協力しなかった。松原祐樹社長に心から陳謝する。大変申し訳ありませんでした。まあ、そんな不安の種を抱えながらも日本一、いや世界一位の漫画プラットフォームを作ってみせるそう。強く思って2014年を終えた。そして2015年1月、いよいよ小学館初のマンガアプリ『マンガワン』はリリースされた。 【マンガワンの結果の話】 先に結果だけ書こう。僕の挑戦は失敗した。2015年のリリースから僕が編集長を退任する2017年の7月の間にはマンガワンは世界一にはなれなかった。もちろんマンガワンは現在でも存続している。だが、今後も世界一にはなれないだろう。 惜しいところまでは行った。リリースしてまもなく先行していたジャンプ+を瞬く間に抜き去った。さらに古参のマンガボックスを抜き、ついにはcomicoをもDAUで抜き去った。最盛期のマンガワンは目標であるLINEマンガに次ぐiOSランキング2位まで上り詰めたのである。その要因としては複数あると思うが、『メジャー』や『ウシジマくん』の全巻一気と呼ばれるサービスの存在が大きかった。それらが1日4話タダで読めるサービスだ。さらにそこで集めた読者達がケンガンアシュラやモブサイコ100の新規読者になり、毎日、マンガワンを閲覧する習慣が付くようになるのだ。さらに当時は広告規制が弱く、今では考えられない程、安い単価で読者を獲得する事ができた。僕はサングラスの部長と交渉して粗利の50%を広告予算にしてもらう事にしてもらっていた。広告を回せば回すほど売り上げが上がり、読者も増えていった。最盛期にはDAU120万、月間売上は3億を超えた。が、そこで打ち止めだった。ただ僕はこの2年半の記憶が殆どない。それは裏サンデーを運営していた3年間に比べて余りに過酷で、喜びが少ない日々だった。 【第二の失敗】 初月の売り上げは100万ほどだったはずだ。それが1年足らずで100倍の爆発的な成長をとげたのだ。出版ビジネスは薄利多売。小学館の歴史の中でも、これほど急速に成長した部署は殆ど無かった。ネットビジネスに疎い上層部は僕が怪しいビジネスを営んでいると噂した。さらに電子書店に対して営業をかけているデジタルマーケティング局が苦い顔をし始めた。当時は出版社が直接コンテンツを販売する発想はどこも持っていなかった。マンガアプリに単話課金システムを搭載したのは出版社系アプリではマンガワンだけだった。ジャンプ+もジャンプの定期購読はしていたが作品単位で課金させたりはしていなかった。当時は出版社は作品を作る、電子書店は作品を売る。そうやって棲み分ける不文律があったのだ。それをマンガワンは初めて破った事になる。その後、マンガワンに追随する形で各社アプリは課金機能を搭載し、電子書店もオリジナル作品を作るようになる。どうせそうなる事が僕には見えていた。だから僕はスピードを求めた。プラットフォーム構築は先行者が一番有利だ。業界の慣例など無視。速く、もっと速く!だた、当時の僕のこの考え方は電子書店と向き合っている社員たちには迷惑だったと思う。今でももっと話し合うべきだっと後悔している。僕は一編集部でなんとかしようとしてしまった。これが僕の第2の失敗である。 【第3の失敗】 マンガワン2016年中盤になるとマンガワンの成長は完全に止まった。大きな理由は一つ。マンガワンの広告費の抑制が始まった事。それまで売上に対して一定の比率で広告費を決めていたが、売上上昇が急過ぎて小学館の1年にかけられる宣伝費を超えてしまったからだ。広告費はその後、Appleなどの広告規制は強くなりそれによる獲得単価の上昇によって、DAUの上昇は止まってしまった。さらに僕は新たに編集長になった市原武法氏と対立してしまった。ある日、彼はマンガアプリの名前を『裏サンデー』ではなく『マンガワン』にした理由を尋ねてきた。彼は僕にサンデーブランドのデジタル面での強化を期待してくれていた。次の編集長はお前だよとも言ってくれた。だが、当時の僕には既に紙の雑誌のブランドはもうどうでもよかった。マンガワンなんですよ、スピリッツもサンデーもsho-comiも全部、マンガワンに載るんですから。全てのトップにマンガワンが立ち、サンデーはその中の一ブランドになれば良いじゃないですか。当時の僕は日本漫画業界を守るという使命感から、そういう人の感情とか誇りとかそういうものを無視するところがあったサンデーなんてちっぽけだとさえ思っていた。市原さんは「サンデー愛」の人だった。サンデーを愛し、サンデーブランドを守りたいそういう人だった。その人の誇りを僕は平気で傷つけてしまった。改めて市原武法氏にこの場で謝罪する。市原さん申し訳ありませんでした。 その後市原さんがサンデーを復活させるのは有名な話であり偉業だったと思う。だが一つだけ、確かに市原さんが編集長就任時サンデーは危機だった。ただその理由は明白だった。クラブサンデーである。クラブサンデーが生み出す巨大な赤字。それが第一要因だ。さらに裏サンデーを分離したこと。僕や小林翔やA君や、その後数人の優秀な生え抜きを異動させたこと。もし、裏サンデーがサンデーに残っていれば、勝手にクラブサンデーは消滅し、サンデー×裏サンデーの相乗効果で、新人は続々と集まりサンデーはトップブランドにもなれたはずだ。なぜ、あの2013年夏、上層部はまだマネジメントのマの字も知らないクソガキの若造を無理やり独立させたのか。若き日の心残りが消えない。 【第4の失敗】 そしてサンデーからの作品提供が止まった。サンデーはクラブサンデーを廃止し、独自のアプリを作るからだという。幸いスピリッツ編集部はマンガワンに好意的だった。天才・坪内崇編集長が新たな編集長になっていた。その頃は『闇金ウシジマくん』は引き続きマンガワンで連載させてもらえていたが『メジャー』や『神のみぞ知るセカイ』を引き上げられた。マギの外伝である『シンドバッドの冒険』を掲載しているのにも関わらず『マギ』の掲載もできなくなった。他社に作品提供を求めたが十分な作品数を集める事は出来なかった。仕方がないので僕は部署内に鞭を振るうしか無かった。今なら分かるがマンガワン規模のマンガアプリを運営するならば、15〜20人程度のスタッフは必要になる。だが当時の編集部は僕も含め社員5名だけ、あとは業務委託の編集者が二人いただけだ。それで365日1日も休まずに作品を更新するのだ。マンガワンは新人賞の応募が多く、描いてくれる作家さんは沢山いたが、編集者が足りなかった。彼らに週刊連載を5本も6本も担当させた。(とこれを書いている時にそう思っていたのだが、先日、小林翔に確認したところ彼の担当本数は13本だったという。鬼畜の所業だ。)僕はスーパーブラック編集部を作ってしまった。もちろん多くのヒット作を生み出したが、あっという間にみんなボロボロになっていった。彼らに報いるものは何も無かった。小学館は年功序列。働いても働かなくても報酬は上げられないのだ。飲みに連れて行って無理やり士気を上げおうとしたが無駄だった。僕は彼らの管理に疲れ果てていた。溜まらず上司に泣きつき、社員を増やしてくれと頼んだ。同期で遊び友達でもあった和田裕樹氏(後の三代目マンガワン編集長)を副編集長に招くことが決まった。さらに僕と同年代の同期を呼んだ。同期二人が下にいると心が楽になった。僕は常に和田くんに運営を相談するようになった。もう直接部下と接するのが辛くなってきた。それはそれまで文句も言わず、黙々と運営業務をやっていたA君の気持ちを全く考えていない行為だった。僕は編集部では小林翔と梅崎勇也の二人のヒット編集を、常に持て囃していた。だがそれ以外の地味でも、大変な仕事をしている編集者の気持ちを考えてやれなかった。A君、そのほかの皆ごめんなさい。僕はダメな編集長でした。 【組織崩壊】 そして、マンガワンは一度組織崩壊する。社内外に敵を作りすぎた結果、さらに僕はマンガワンの内部でも深刻な組織対立を起こしてしまった。言いたいことは沢山あるが、一言で言えば自分のマネジメント能力が足りなかった。すでに巨大なビジネスと化してしまったマンガワンは裏サンデーの時のような緩いサークル活動のノリで運営できるものではなくなっていた。社内政治も必要だった。なんども僕を編集長からおろそうとする動きが感じられた。僕は会社も信用できなくなった。現場から突然、編集長になった僕には巨大ビジネスを取り仕切れるマネジメントスキルは無かった。社内外の様々なトラブルによって僕はもうマンガワンの編集長を続ける事は出来ない状況に追い込まれた。だが、ここでマンガワンを崩壊させるわけいかない。既に沢山の作家さんや編集者を抱えていたし、自分自身としても自分の漫画編集者人生の集大成だと考えていたからだ。そこでいつもマンガワンを応援し、作品を提供し続けてくれていた元スピリッツの編集長である村山宏氏に、1年だけでいいから僕の代わりに編集長をやって欲しいと頼んだ。村山氏は幾多の修羅場を潜った僕より10歳近く上の編集者だ。温和さとタフさを併せ持つ人で、この人しかマンガワンを立て直せないと思った。編集部は新体制となり村山編集長、和田副編集長、僕の3人でガタガタになった組織を立て直した。が、簡単ではなかった。僕は怪文書をばら撒かれたり、社内外の作家や会社の人々に、悪評をばら撒かれた。僕はメンタルを完全に壊し僕は会社に行けなくなった。唯一続けていたマギの打ち合わせ参加もできなくなった。マギのラスト半年くらいに僕は関われなかった。人生で初めて抗不安薬と睡眠薬の世話になりながら毎日、暗いベッドの上で泣いて暮らした。睡眠薬を酒を同時に飲んだりしてた。死ねないかなあと考えていた。だが死にもしないし眠れもしなかった。だが、唯一の救いだったのが小林翔や梅崎勇也や同期の人や、それでも僕を慕ってくれる数人の部下が毎日、毎日家のマンションの下まで来て僕を外に連れ出してくれた事だ。また僕のその頃からのパートナーでもあり、当時を支えてくれた現在、コミックルームの共同代表でもある宮口理沙にも感謝を述べたい。いつもありがとう。ただ、小林翔はやはりすごかった。組織対立の時に突き上げられたのは僕だけではない。小林翔もだった。だが本人はケロリとした顔で毎日、会社に行き平然と仕事をしていた。心が鉄で出来ているんだな。辛くないんだなと思っていた。だが、僕が小学館を退社する今年の2月、沢山の人が来てくれた送別会で彼は初めて当時の本音を話した。「辛かったに決まってるじゃないですか。でも俺まで倒れたら僕たちが作ったもの全部なくなってしまうじゃないですか。だから必死だっただけです。」彼は泣いていた。僕も泣いた。翔くんごめんね。 その後、僕はなんとか復職した。抗不安薬と不摂生で体重が10キロも増え、見た目も半年で10歳は老けた。確かにマンガワンを無くすわけにいかない。そして必死に組織を立て直した。ちなみにこのころの僕の役職名はエキスパートエディターとされた。この役職名は僕のためにわざわざ会社が作った役職だ。同時に後にcomicoの社長になる武者正昭氏もエクスパートエディターになった。『うしおととら』を始め数々のヒット作を立ち上げた武者氏は一時期マンガワンに在籍した。部下としては恐れ多くて扱えないので、レジェンド編集者として若手の教育をしてもらっていた。レジェンド編集と同格とは光栄の限りである。しかし、エキスパートエディターか。編集の達人。いいと思った。僕は次にそれを目指そうと思った。 【2次落ち会】 部下の管理から解放された僕は再び現場に戻ってコンテンツを作ろうか考えてみた。とはいえ長い編集長業務の間、僕は自分の担当作家を全て手放していた。どうしようか。当時は『マンガワン新人トーナメント』と言う新人賞があった。投稿者は連載1話目を投稿し、それが読者投票によって篩い落とされる、2回戦に第2話、3回戦で第3話と言う形で3話目掲載時点で得票1位をとった作者がそのまま連載になるという、裏サンデー時代から続く名物新人賞だった。丁度3回戦真っ最中だったので、僕は2回戦で落ちた作家さんの原稿をみた。僕は3人の作家さんを選んだ。基準は一つだけ、表情が描けている事。漫画ビジネスは読者に絵で感情体験させるビジネスだ。表情が何よりも大切だ。僕は3人に連絡しLINEグループを作った。そしてそのグループを【2次落ち会】と名づけ、彼らを会社に呼び週に一度の漫画制作セミナーを開いた。目標は週に一度のセミナーで3ヶ月後には新連載ネーム3話分が完成する事だ。僕のこれまでの打ち合わせの経験をもとに始めたこのセミナーで結果として3人のうち2人がデビューする事になる。一人はエンジニアの方で本業が忙しく途中でリタイヤしたが二人デビューさせる事に成功させた。その時生まれた作品が『ヒマチの女王』と『3インチ』である。どちらもマンガワンで長期連載する人気作となる。僕はこの時、自分の連載立ち上げ術が確度が高い事を確信した。漫画歴が浅い作家でも、メソッドをしっかり教え込めば3か月で人気作家に育てられるのだ。僕は編集の達人になれるかもしれない。そして2018年の年が始まった時に村山編集長に辞表を提出した。マンガワンは立ち直った。自分がすべき事はここにはもう無いと感じた。僕はある人物にLINEをした。 【渡邊耕一氏】 その人物と知り合ったのは2016年の末ごろである。サンデー時代の同僚から、一人の人物を紹介されたのだ。株式会社Cygames社長の渡邊耕一氏である。当時(今も)Cygamesは飛ぶ鳥落とす勢いで成長していた。これまで書いてこなかったが、マンガワン編集部はゲームも作っていた。『モブサイコ100』や『ケンガンアシュラ』のゲームアプリに編集部予算から出資して作っていたのだ。マンガワンの成長に限界を感じていた僕は、もう一つ収益の柱を作ろうとしていたのだった。丁度良い、ゲームアプリの作り方を教えてもらおうと。六本木のある店で、対面した彼は僕がこれまで会っていた人間と全く違う人種だった。もの静かで饒舌ではないが、ピンポイントで物事の本質を射抜くそんなタイプだった。彼は2010年に立ち上げたCygamesをわずか8年足らずで社員3000人の巨大企業に育て上げていた。裏サンデーを立ち上げたのは2011年。マンガワンとして大きくなったとは言えスケールが違うレベルで組織を巨大化させた渡邉社長に僕は興味を持ち交流を続けた。その後、僕はマンガワンでの組織崩壊を招き、その事を渡邊氏に相談していた。僕はマネジメントに悩んでいた。ドラッカーを始め様々なマネジメント学の本を読み漁り、逆に分からなくなっていた。渡邊氏は言った「石橋さん、それより横山光輝先生の『三国志』を読めば良いんですよ。」・・・渡邊社長の下で組織マネジメントを勉強しようと思った。

2023-09-13 13:34:45
石橋和章 | Zoo | 漫画編集者&原作者&経営者🎨 @mikunikko

ほぼ漫画業界コラム23 回顧録12章【崩壊】 これまでこの回顧録は、漫画のように出来るだけエンタメとしても楽しめるようにドラマ性を重視して書いていてきましたが、もう時間がなさそうです。さくさく進めます。とにかく回顧録はラストまで書ききリます。 【第一の失敗】 裏サンデーは相変わらず絶好調だった。2014年の12月中旬、裏サンデー編集部の謝恩会が盛大に開かれた。各作家さんやLinkーUなどの取引相手が集まり、かなりの盛り上がりを見せた。ただし三重野社長がなんとなく元気がないように見えた。そして年末、事件が起きた。三重野社長とLinkーUの役員である松原祐樹氏が緊張した趣でやってきた。問題が起きたという。開発が出来なくなったというのだ。それは困る。こっちは大量の宣伝予算を組み、さらに広告代理店に広告費を振り込んでいるのだ。理由を聞くと要はエンジニアを纏めきれなくなった三重野氏が会社を辞めて、新社長になった松原祐樹氏が経営すると言うこと。さらに松原氏はLinkーUを知り合いの会社に売却したいというのだ。LinkーUは消滅するので契約は無効、開発は続けられないと言うことだった。要はLInkーUの仲間割れに巻き込まれたのだ。これがスタートアップの世界か。ちなみに僕はまだスタートアップ企業の意味を理解していなかった。ただ、怖いと思った。だが、ここで開発を停めるわけにはいかない。2014年12月25日。僕とA君と松原社長で長時間の交渉がなされた。上司を説得し当面、Link-Uが自前で経営できるように増額した開発予算を捻出し、それを支払う事で松原氏を説得し売却を断念させた。松原氏は納得してくれ、全てを撤回し共に戦うと言ってくれた。そして改めてパートナーとしてLinkーUとアプリ開発を始めた。だが、僕はこの一件で松原社長への苦手意識を持ってしまった。僕は三重野氏だから組んだつもりだったからだ。なので彼とのコミュニケーションを避けるようになってしまった。これから世界一を目指すのに、僕は共に戦う相棒を疑ったまま戦場に出てしまったのである。決定を覆してまで僕と組むと言ってくれたのである。だからもっと腹を割って、話し合うべきだった。人間は鏡だ。こちらが不信感を持って接すると、あちらも不信感を持って接する。これが僕の第一の失敗である。僕はスタートアップ企業というもののゴールがIPOかM&Aだということを事を知らなかった。だから僕はそれら動きに全く協力しなかった。松原祐樹社長に心から陳謝する。大変申し訳ありませんでした。まあ、そんな不安の種を抱えながらも日本一、いや世界一位の漫画プラットフォームを作ってみせるそう。強く思って2014年を終えた。そして2015年1月、いよいよ小学館初のマンガアプリ『マンガワン』はリリースされた。 【マンガワンの結果の話】 先に結果だけ書こう。僕の挑戦は失敗した。2015年のリリースから僕が編集長を退任する2017年の7月の間にはマンガワンは世界一にはなれなかった。もちろんマンガワンは現在でも存続している。だが、今後も世界一にはなれないだろう。 惜しいところまでは行った。リリースしてまもなく先行していたジャンプ+を瞬く間に抜き去った。さらに古参のマンガボックスを抜き、ついにはcomicoをもDAUで抜き去った。最盛期のマンガワンは目標であるLINEマンガに次ぐiOSランキング2位まで上り詰めたのである。その要因としては複数あると思うが、『メジャー』や『ウシジマくん』の全巻一気と呼ばれるサービスの存在が大きかった。それらが1日4話タダで読めるサービスだ。さらにそこで集めた読者達がケンガンアシュラやモブサイコ100の新規読者になり、毎日、マンガワンを閲覧する習慣が付くようになるのだ。さらに当時は広告規制が弱く、今では考えられない程、安い単価で読者を獲得する事ができた。僕はサングラスの部長と交渉して粗利の50%を広告予算にしてもらう事にしてもらっていた。広告を回せば回すほど売り上げが上がり、読者も増えていった。最盛期にはDAU120万、月間売上は3億を超えた。が、そこで打ち止めだった。ただ僕はこの2年半の記憶が殆どない。それは裏サンデーを運営していた3年間に比べて余りに過酷で、喜びが少ない日々だった。 【第二の失敗】 初月の売り上げは100万ほどだったはずだ。それが1年足らずで100倍の爆発的な成長をとげたのだ。出版ビジネスは薄利多売。小学館の歴史の中でも、これほど急速に成長した部署は殆ど無かった。ネットビジネスに疎い上層部は僕が怪しいビジネスを営んでいると噂した。さらに電子書店に対して営業をかけているデジタルマーケティング局が苦い顔をし始めた。当時は出版社が直接コンテンツを販売する発想はどこも持っていなかった。マンガアプリに単話課金システムを搭載したのは出版社系アプリではマンガワンだけだった。ジャンプ+もジャンプの定期購読はしていたが作品単位で課金させたりはしていなかった。当時は出版社は作品を作る、電子書店は作品を売る。そうやって棲み分ける不文律があったのだ。それをマンガワンは初めて破った事になる。その後、マンガワンに追随する形で各社アプリは課金機能を搭載し、電子書店もオリジナル作品を作るようになる。どうせそうなる事が僕には見えていた。だから僕はスピードを求めた。プラットフォーム構築は先行者が一番有利だ。業界の慣例など無視。速く、もっと速く!だた、当時の僕のこの考え方は電子書店と向き合っている社員たちには迷惑だったと思う。今でももっと話し合うべきだっと後悔している。僕は一編集部でなんとかしようとしてしまった。これが僕の第2の失敗である。 【第3の失敗】 マンガワン2016年中盤になるとマンガワンの成長は完全に止まった。大きな理由は一つ。マンガワンの広告費の抑制が始まった事。それまで売上に対して一定の比率で広告費を決めていたが、売上上昇が急過ぎて小学館の1年にかけられる宣伝費を超えてしまったからだ。広告費はその後、Appleなどの広告規制は強くなりそれによる獲得単価の上昇によって、DAUの上昇は止まってしまった。さらに僕は新たに編集長になった市原武法氏と対立してしまった。ある日、彼はマンガアプリの名前を『裏サンデー』ではなく『マンガワン』にした理由を尋ねてきた。彼は僕にサンデーブランドのデジタル面での強化を期待してくれていた。次の編集長はお前だよとも言ってくれた。だが、当時の僕には既に紙の雑誌のブランドはもうどうでもよかった。マンガワンなんですよ、スピリッツもサンデーもsho-comiも全部、マンガワンに載るんですから。全てのトップにマンガワンが立ち、サンデーはその中の一ブランドになれば良いじゃないですか。当時の僕は日本漫画業界を守るという使命感から、そういう人の感情とか誇りとかそういうものを無視するところがあったサンデーなんてちっぽけだとさえ思っていた。市原さんは「サンデー愛」の人だった。サンデーを愛し、サンデーブランドを守りたいそういう人だった。その人の誇りを僕は平気で傷つけてしまった。改めて市原武法氏にこの場で謝罪する。市原さん申し訳ありませんでした。 その後市原さんがサンデーを復活させるのは有名な話であり偉業だったと思う。だが一つだけ、確かに市原さんが編集長就任時サンデーは危機だった。ただその理由は明白だった。クラブサンデーである。クラブサンデーが生み出す巨大な赤字。それが第一要因だ。さらに裏サンデーを分離したこと。僕や小林翔やA君や、その後数人の優秀な生え抜きを異動させたこと。もし、裏サンデーがサンデーに残っていれば、勝手にクラブサンデーは消滅し、サンデー×裏サンデーの相乗効果で、新人は続々と集まりサンデーはトップブランドにもなれたはずだ。なぜ、あの2013年夏、上層部はまだマネジメントのマの字も知らないクソガキの若造を無理やり独立させたのか。若き日の心残りが消えない。 【第4の失敗】 そしてサンデーからの作品提供が止まった。サンデーはクラブサンデーを廃止し、独自のアプリを作るからだという。幸いスピリッツ編集部はマンガワンに好意的だった。天才・坪内崇編集長が新たな編集長になっていた。その頃は『闇金ウシジマくん』は引き続きマンガワンで連載させてもらえていたが『メジャー』や『神のみぞ知るセカイ』を引き上げられた。マギの外伝である『シンドバッドの冒険』を掲載しているのにも関わらず『マギ』の掲載もできなくなった。他社に作品提供を求めたが十分な作品数を集める事は出来なかった。仕方がないので僕は部署内に鞭を振るうしか無かった。今なら分かるがマンガワン規模のマンガアプリを運営するならば、15〜20人程度のスタッフは必要になる。だが当時の編集部は僕も含め社員5名だけ、あとは業務委託の編集者が二人いただけだ。それで365日1日も休まずに作品を更新するのだ。マンガワンは新人賞の応募が多く、描いてくれる作家さんは沢山いたが、編集者が足りなかった。彼らに週刊連載を5本も6本も担当させた。(とこれを書いている時にそう思っていたのだが、先日、小林翔に確認したところ彼の担当本数は13本だったという。鬼畜の所業だ。)僕はスーパーブラック編集部を作ってしまった。もちろん多くのヒット作を生み出したが、あっという間にみんなボロボロになっていった。彼らに報いるものは何も無かった。小学館は年功序列。働いても働かなくても報酬は上げられないのだ。飲みに連れて行って無理やり士気を上げおうとしたが無駄だった。僕は彼らの管理に疲れ果てていた。溜まらず上司に泣きつき、社員を増やしてくれと頼んだ。同期で遊び友達でもあった和田裕樹氏(後の三代目マンガワン編集長)を副編集長に招くことが決まった。さらに僕と同年代の同期を呼んだ。同期二人が下にいると心が楽になった。僕は常に和田くんに運営を相談するようになった。もう直接部下と接するのが辛くなってきた。それはそれまで文句も言わず、黙々と運営業務をやっていたA君の気持ちを全く考えていない行為だった。僕は編集部では小林翔と梅崎勇也の二人のヒット編集を、常に持て囃していた。だがそれ以外の地味でも、大変な仕事をしている編集者の気持ちを考えてやれなかった。A君、そのほかの皆ごめんなさい。僕はダメな編集長でした。 【組織崩壊】 そして、マンガワンは一度組織崩壊する。社内外に敵を作りすぎた結果、さらに僕はマンガワンの内部でも深刻な組織対立を起こしてしまった。言いたいことは沢山あるが、一言で言えば自分のマネジメント能力が足りなかった。すでに巨大なビジネスと化してしまったマンガワンは裏サンデーの時のような緩いサークル活動のノリで運営できるものではなくなっていた。社内政治も必要だった。なんども僕を編集長からおろそうとする動きが感じられた。僕は会社も信用できなくなった。現場から突然、編集長になった僕には巨大ビジネスを取り仕切れるマネジメントスキルは無かった。社内外の様々なトラブルによって僕はもうマンガワンの編集長を続ける事は出来ない状況に追い込まれた。だが、ここでマンガワンを崩壊させるわけいかない。既に沢山の作家さんや編集者を抱えていたし、自分自身としても自分の漫画編集者人生の集大成だと考えていたからだ。そこでいつもマンガワンを応援し、作品を提供し続けてくれていた元スピリッツの編集長である村山広氏に、1年だけでいいから僕の代わりに編集長をやって欲しいと頼んだ。村山氏は幾多の修羅場を潜った僕より10歳近く上の編集者だ。温和さとタフさを併せ持つ人で、この人しかマンガワンを立て直せないと思った。編集部は新体制となり村山編集長、和田副編集長、僕の3人でガタガタになった組織を立て直した。が、簡単ではなかった。僕は怪文書をばら撒かれたり、社内外の作家や会社の人々に、悪評をばら撒かれた。僕はメンタルを完全に壊し僕は会社に行けなくなった。唯一続けていたマギの打ち合わせ参加もできなくなった。マギのラスト半年くらいに僕は関われなかった。人生で初めて抗不安薬と睡眠薬の世話になりながら毎日、暗いベッドの上で泣いて暮らした。睡眠薬を酒を同時に飲んだりしてた。死ねないかなあと考えていた。だが死にもしないし眠れもしなかった。だが、唯一の救いだったのが小林翔や梅崎勇也や同期の人や、それでも僕を慕ってくれる数人の部下が毎日、毎日家のマンションの下まで来て僕を外に連れ出してくれた事だ。また僕のその頃からのパートナーでもあり、当時を支えてくれた現在、コミックルームの共同代表でもある宮口理沙にも感謝を述べたい。いつもありがとう。ただ、小林翔はやはりすごかった。組織対立の時に突き上げられたのは僕だけではない。小林翔もだった。だが本人はケロリとした顔で毎日、会社に行き平然と仕事をしていた。心が鉄で出来ているんだな。辛くないんだなと思っていた。だが、僕が小学館を退社する今年の2月、沢山の人が来てくれた送別会で彼は初めて当時の本音を話した。「辛かったに決まってるじゃないですか。でも俺まで倒れたら僕たちが作ったもの全部なくなってしまうじゃないですか。だから必死だっただけです。」彼は泣いていた。僕も泣いた。翔くんごめんね。 その後、僕はなんとか復職した。抗不安薬と不摂生で体重が10キロも増え、見た目も半年で10歳は老けた。確かにマンガワンを無くすわけにいかない。そして必死に組織を立て直した。ちなみにこのころの僕の役職名はエキスパートエディターとされた。この役職名は僕のためにわざわざ会社が作った役職だ。同時に後にcomicoの社長になる武者正昭氏もエクスパートエディターになった。『うしおととら』を始め数々のヒット作を立ち上げた武者氏は一時期マンガワンに在籍した。部下としては恐れ多くて扱えないので、レジェンド編集者として若手の教育をしてもらっていた。レジェンド編集と同格とは光栄の限りである。しかし、エキスパートエディターか。編集の達人。いいと思った。僕は次にそれを目指そうと思った。 【2次落ち会】 部下の管理から解放された僕は再び現場に戻ってコンテンツを作ろうか考えてみた。とはいえ長い編集長業務の間、僕は自分の担当作家を全て手放していた。どうしようか。当時は『マンガワン新人トーナメント』と言う新人賞があった。投稿者は連載1話目を投稿し、それが読者投票によって篩い落とされる、2回戦に第2話、3回戦で第3話と言う形で3話目掲載時点で得票1位をとった作者がそのまま連載になるという、裏サンデー時代から続く名物新人賞だった。丁度3回戦真っ最中だったので、僕は2回戦で落ちた作家さんの原稿をみた。僕は3人の作家さんを選んだ。基準は一つだけ、表情が描けている事。漫画ビジネスは読者に絵で感情体験させるビジネスだ。表情が何よりも大切だ。僕は3人に連絡しLINEグループを作った。そしてそのグループを【2次落ち会】と名づけ、彼らを会社に呼び週に一度の漫画制作セミナーを開いた。目標は週に一度のセミナーで3ヶ月後には新連載ネーム3話分が完成する事だ。僕のこれまでの打ち合わせの経験をもとに始めたこのセミナーで結果として3人のうち2人がデビューする事になる。一人はエンジニアの方で本業が忙しく途中でリタイヤしたが二人デビューさせる事に成功させた。その時生まれた作品が『ヒマチの女王』と『3インチ』である。どちらもマンガワンで長期連載する人気作となる。僕はこの時、自分の連載立ち上げ術が確度が高い事を確信した。漫画歴が浅い作家でも、メソッドをしっかり教え込めば3か月で人気作家に育てられるのだ。僕は編集の達人になれるかもしれない。そして2018年の年が始まった時に村山編集長に辞表を提出した。マンガワンは立ち直った。自分がすべき事はここにはもう無いと感じた。僕はある人物にLINEをした。 【渡邊耕一氏】 その人物と知り合ったのは2016年の末ごろである。サンデー時代の同僚から、一人の人物を紹介されたのだ。株式会社Cygames社長の渡邊耕一氏である。当時(今も)Cygamesは飛ぶ鳥落とす勢いで成長していた。これまで書いてこなかったが、マンガワン編集部はゲームも作っていた。『モブサイコ100』や『ケンガンアシュラ』のゲームアプリに編集部予算から出資して作っていたのだ。マンガワンの成長に限界を感じていた僕は、もう一つ収益の柱を作ろうとしていたのだった。丁度良い、ゲームアプリの作り方を教えてもらおうと。六本木のある店で、対面した彼は僕がこれまで会っていた人間と全く違う人種だった。もの静かで饒舌ではないが、ピンポイントで物事の本質を射抜くそんなタイプだった。彼は2010年に立ち上げたCygamesをわずか8年足らずで社員3000人の巨大企業に育て上げていた。裏サンデーを立ち上げたのは2011年。マンガワンとして大きくなったとは言えスケールが違うレベルで組織を巨大化させた渡邉社長に僕は興味を持ち交流を続けた。その後、僕はマンガワンでの組織崩壊を招き、その事を渡邊氏に相談していた。僕はマネジメントに悩んでいた。ドラッカーを始め様々なマネジメント学の本を読み漁り、逆に分からなくなっていた。渡邊氏は言った「石橋さん、それより横山光輝先生の『三国志』を読めば良いんですよ。」・・・渡邊社長の下で組織マネジメントを勉強しようと思った。

2023-09-13 13:46:22
石橋和章 | Zoo | 漫画編集者&原作者&経営者🎨 @mikunikko

ほぼ漫画業界コラム第24 回顧録13【サイコミ】 【出向社員】 2018年。僕は40歳になっていた。そしてその頃、僕は頻繁にCygamesの渡邊社長に会いに出入りしていた。Cygemesは漫画事業にも進出していた。その名はサイコミ。『グランブルーファンタジー』や『アイドルマスターシンデレラガールズ』などの自社ゲームのコミカライズを中心に展開している漫画アプリだ。渡邊さんはそこの漫画事業部の事業部長を探していたのだ。そして僕は小学館を辞め、それをやろうとしていた。事業部長…つまりはCygameの漫画事業部の完全な責任者だ。当時の漫画事業部は約100人。僕がマンガワンで組織崩壊を招いたときの最終的な人数は14人。小数で躓いてしまった僕がそんな数の人をまとめていくことが出来るのか? 大丈夫に感じた。僕は『三国志』を読み終わっていたからだ。もちろん初読ではない。だが、組織マネジメントの観点から全冊読み直すと、新たな発見があった。人は感情で動く生き物だ。そしてそれは組織も同じだ。理だけで動くわけではない。ホモサピエンスという種の、ある種の行動パターンが理解できた気がしていた。そのような経緯があり僕は、マンガワンの村山編集長に辞表を出した。が、ありがたいことに様々な人から粘り強く慰留された。僕はサイゲームスに行く理由をこう答えた。「自分はマンガワンを組織崩壊させた人間です。なのでCygamesを急速に成長させた渡邊社長から組織マネジメントを学びたいのですと。すると、当時の役員は言った。「出向して学んで来れば良い。」そんな訳で僕は小学館社員のままCygemesの事業部長になった。何の資本関係もない会社へ事業部長として出向とは前代未聞の人事劇だ。僕は安定したエスタブリッシュカンパニーの小学館社員という立場で、Cygamesという超成長企業で働けるのだ。このような特例処置をしてくれた小学館と受け入れてくれたCygamesにはとても感謝している。しかも今後の仕事の事を考えると小学館との事業提携はとても重要だ。僕には小学館アライアンス事業室の室長と言う肩書きが与えられ、同時にCygamesの漫画事業部の部長となった。 【マネージャー】 2018年4月。僕はCygamesでの僕のミッションは組織改革だ。あまり上手くいっていない漫画事業部を再生するという使命を与えられていた。僕は信用出来る部下を二人連れいく事にした。一人は僕がマンガワンの時に契約していた業務委託編集者、梅崎勇也氏だ。梅崎氏には小林翔に並びマンガワンのエースを張ってもらっていた。膨大な編集業務を完璧にこなしながら彼は文句ひとつ言わかった。当時は彼に大して報いてやれなかった。社員にもしてやれなかった。だが、今回は部長として高待遇を提示することが出来た。彼は後に『明日、私は誰かのカノジョ』などを超ヒットさせる。優秀な編集者には価値がある。そしてそれらを纏める編集長にはもっと価値がある。よく、新規事業で漫画ビジネスを始める会社がわかっていないのはそれだ。失敗しているところは、総じて編集者の給与が低い。編集長も低い。ヒット編集や編集長には必ず報いるのをお勧めする。そうしなければ彼らは作家を連れて出ていく。僕が何度も見て来た光景だ。 更にもう一人連れて行った。戸塚たくす氏だ。裏サンデー発足時の奇作『ゼクレアトル〜神マンガ戦記〜』の原作者である。彼はゼクレアトル終了後、なんと引きこもりになってしまった。僕の責任だ。僕はその彼をなんとか社会復帰させたくて、当時、マンガワンのゲームを作ってたいた会社に就職させたりと、親戚の叔父さんみたいな気持ちで見守っていた。実際共に働くと彼は仕事が出来た。僕の周りにあまりいない理系の優秀な人間だった。そこで彼を僕の参謀としてCygamesに連れて行く事にした。 そして勤務開始。通常の社員と同様に机が与えられ名刺が配られ挨拶をした。一番驚いたのは組織構造だ。僕は漫画編集部しか知らない人間だ。出版社の漫画編集部の組織構造はたった一つ。編集長とその下に漫画編集者がいるだけだ。副編集長やデスクなどの肩書きは存在するが、明確に役割が違うのは編集長だけけである。出版社の編集長の権限は実は大きい。ポジション的には課長だが、それ以上の権限がある。所謂、ヒト、モノ、カネの管理であるマネージャーとしての権限と、自分が管理する媒体のコンテンツを決めるディレクターの権限。その両方を兼ね備えているのである。だがディレクターとしての職能とマネージャーとしての職能は別物なので両方を兼ね備えるのはとても難しい。僕は明らかにディレクター側の編集長だった。だが、なんとサイコミには編集長とは別にマネージャーが存在したのだ。慧眼を得た。そうか役割を分ければよかったのか。マネージャーと編集長。分けることで事で編集長はヒトモノカネの管理から解き放たれ、ディレクションに集中できる。最高の環境ではないか。サイコミには長谷川太介氏という大手書店のホールマネージャーも務めた優秀なマネージャーがいた。 【編集長】 サイコミの編集長は葛西歩氏と言った。コミックメテオで『ブレイクブレイド』など複数のヒット作を立ち上げた経験がある優秀な編集者だった。だが、サイコミでは苦労しているようだった。面談を重ねるうちにその苦労の原因が分かってきた。彼は自分が行けると思う作品をサイコミに掲載できていなかった。現場の編集者の意見に耳を傾け、ゲーム部門の実力者たちの要望に応え作品を掲載していた。これはダメだ。編集長は絶対者であるべきなのだ。作品の掲載権は全て編集長が握る。そこにはいかなる干渉も発生させてはいけない。全作品の掲載権を握る代わりに、全作品の責任を背負う。出版社や新聞社ではこの権利を“編集権”という。編集長の編集権には社長と言えども口を出せない。マスメディアが表現の自由を守るために作りあげた不思議な概念、それを僕はサイコミに導入した。編集長が掲載作品に責任を持っていなければ、そのメディアが伸びるわけがないからだ。僕は葛西編集長に強力な編集権を付与することを徹底した。まずやるべき事は打ち切りだった。彼がサイコミに必要でないと思う作品は、全て打ち切れるような環境を作った。それは部長の僕の関わる作品だろうが、社長の関わる作品だろうがという意味だ。一才の忖度は必要ないと言い続けた。 結果、サイコミ編集部に戦慄が走った。それまでは皆が平等で、皆が思い思いの好きな作品を載せていた。そこに突然、独裁制を敷いたのだ。人気ゲームのコミカライズも終わった。独創的な実験作も次々と終わっていった。牧歌的な漫画編集者生活を楽しんでいた編集者たちは次々と去っていった。そして葛西編集長、梅崎副編集長を中心に新しい編集部を組織した。更に葛西編集長には部下と距離を取ることを勧めた。葛西編集長は孤独になったと思う。それを僕と長谷川マネージャーで支える体制を作った。近年『識学』と呼ばれるマネジメント論が評価されているが、そのファーストステップはこれだ【部下と距離を取れ】。僕がマンガワンで出来なかった事だ。僕は部下と友人のように飲みに行き情で編集部をコントロールしてきた。裏サンデーのような5、6人の組織ならそれで充分機能する。だがマンガワンのような大きなビジネスになるとそれは無理だ。結果組織崩壊を招いた。もうあんな事態を招くわけにはいかない。 そして、大分編集部の整理は出来た。あとは簡単だ。ヨーイドンで残った編集者に平等な場所で戦う競争の場を与えてやればいい。そのためサイコミのリニューアルを決めた。それだけで媒体は伸びる。裏サンデーで使った手法を使おうと思った。だが、僕はある日、渡邊社長に呼ばれた。 【石橋さんも作品作って、力を見せてくださいよ。】 えー、嫌だなあ。もう現場やりたくないなぁ。それが僕の本音だった。僕はもう随分長く現場をやっていなかった。もう41だ。漫画編集者としてのピークはとっくに過ぎている。漫画編集者に必要な能力を、僕は感・理・伝の3つで考えている。つまり感じる力、理論化する力、伝える力。後者2つは経験と努力で、伸ばせるが、最初の【感】が難しい。感性は年齢とともに鈍くなる。当時のマギを読み返すと分かる。僕の感性のピークは30代前半のあの頃だ。世の中の様々な事に、様々な影響を受け、それが作品に反映される。もう、あんな作品は作れない。その状態で、今漫画編集者として絶頂期にある梅崎とかと競争したくないなぁと思った。・・・が、またふと気付いた。組めばいいのだ。僕は事業部長だ。部下を使ってもいい。若くて有能な漫画家や編集者と組めばいいのだ。そんな中、事業部の隅っこで奇妙な人間を見つけた。朝、談話室に行くと珍妙な動きをしている若い男がいる。その男は・・・丸山恭右というなの若き漫画家だった。 【TSUYOSHI〜誰も勝てないアイツには〜】 丸山恭右…丸山さんはCygamesで業務委託で働いている漫画家だった。信じられない事に、当時の漫画事業部には沢山の漫画家がいた。いや漫画家だけではない。シナリオライターもいた。なんとサイコミは漫画スタジオを作ろうとしていたのだ。ただ、厳しいと思った。漫画はローコストで作るエンタメだ。こんなに人件費をかけて作ったら勝ち目はない。 僕は漫画スタジオを縮小させるつもりだった。まあ、そんなスタジオに所属している丸山 さんを僕はすぐに気に入った。彼はなんと太極拳を習っていた。先程、談話室で見た珍妙な動きはそれだった。彼は映画『イップマン』を見て影響を受け、太極拳を習っているという。か、変わっているなあ。僕は彼の画を見た。上手い。派手ではないがデッサンがしっかりしているし、何より表情がかけている。ちゃんとやれば当たるだろう。 僕は彼の担当をする事にした。打ち合わせを開始し、共にストーリーを組み立てていった。太極拳を使う眼鏡の男が無双するアクション漫画だ。主人公は共感を呼びやすいコンビニ店員とした。ストーリーは最初は話し合って作っていたが、徐々に自分でシナリオを書くようになった。僕はマギの12巻ぐらい以降、自分がシナリオを書く事はなかった。僕は作者ではない。著作権も貰えない作品でもうシナリオなんか書きたくなかった。だが、自分の力を見せるためにはそんな事を言ってられない。僕は再びシナリオを書くように戻っていた。いや、正直に言おう。当時、既に僕はいずれ独立する事を決めていた。僕は小学館でもう出世する事はないだろう。僕は社内政治が苦手だ。理ではなく、それぞれの感情で動くそれを僕は嫌悪した。だが、サラリーマンをやる以上、それが出来なければ話にならない。ならば仕方ない、フリーになるしかない。そしていずれ起業する。その時僕を支えるのは漫画原作の著作権だ。僕は膨大な漫画原作を抱える会社、現在のコミックルームを既にぼんやりと想像していた。 丸山さんは、僕が独立する時に著作権を分けてくれる事を約束してくれた。これには本当に感謝している。彼はコミックルーム立ち上げの最大の恩人の一人だ。僕はまず漫画原作者になることにした。だが、それは僕がクリエイター側に立つ事になる。ならば担当編集は別に必要だ。僕は編集部をぐるりと見回した。若くて元気で感性が豊かな編集者を求めた。そして一人の青年を見つけた。その名は鍵谷亮、後ににコミックルームで大ヒット漫画を立ち上げまくる漫画編集者である。マギが大好きだという彼を僕は気に入り、原作が僕、作画が丸山さん、担当が僕が鍵谷君になった。 【連載漫画セミナー】 もちろん、本業は事業部長だ。マネージャーと編集長と僕の3人で連携を組み、Cygamesの漫画事業部をスケールするための挑戦が始まった。やはり3人は強い。圧倒的なスピードで物事が決まっていく。裏サンデーで学んだ手法で、僕は仕事を進めていった。編集部でも同様の手法で作品を作っていった。葛西編集長と僕と梅崎副編集長の3人で協力し合い、新連載企画を作り続けた。僕も5本現場を手がけた。だが、まだまだ数が足りない。そこで僕はマンガワンで試した連載マンガセミナーを復活させた。会議室に一同に作家と担当編集を集め、企画の立て方、物語の作り方、などの講義をした。週一の講義で生まれた作品は22本。既に40歳を超えて僕は年間週刊連載を30本近く立ち上げるという過去最高の立ちあげ本数をこなした。 さらにさらに僕はサイコミのシステム開発の方にも入り込んだ。マンガワン時代は開発会社に丸投げしていた部分だ。だがサイコミは内部に開発を抱えている。学ぶチャンスだった。僕はサーバーエンジニアとクライアントエンジニアのリーダーと、こちらも3人で打ち合わせを重ね、新しい課金システムを設計していった。出版社はエンジニアやプログラマーを内部に抱えない。さらに広告出稿の方法や、プロモーション、事業部長として全ての会議に出席し、マンガワンで得たノウハウを伝えていった。そう、後発アプリのサイコミでマンガワンを抜くのが目標であった。そして僕がサイコミにやってきてから約半年後の11月29日新しいサイコミが再創刊した。サイコミはあっという間に登録者数を伸ばした。まずは男性読者を『TSUYOSH』が引っ張って登録者数は50万人に迫った。さらに『明日カノ』の超ヒットによってそこに女性読者が流入し、2020年になるとiOSランキングで日によってはマンガワンを抜くようになった。葛西編集長は逞しい編集長に成長し、新しい編集者が育ち始めヒットを生み出すようになっていた。僕は役目を終えたと感じた。僕は事業部長を降りて、独立の準備をするために小学館に戻った。苦手だった組織マネジメントにも自信が持てるようになっていた。マンガワンで失った自己肯定感を僕はようやく取り返すことができたのであった。ただ。それよりも漫画業界に新たな異変を感じていた。ついにWEBTOONが流行り始めたのである。

2023-09-14 07:20:00
石橋和章 | Zoo | 漫画編集者&原作者&経営者🎨 @mikunikko

ほぼ漫画業界コラム第25 回顧録14【WEBTOONスタジオ】 1【WEBTOON】 前回の2020年から、2年程に坂戻る。僕はサイコミの事業部長と同時に、もう一つの事業に挑戦していた。WEBTOONスタジオの立ち上げである。2018年。既に電子書籍の市場規模は4000億円に迫り、紙の倍以上になった。利益は率その数倍であろう。それまで再販制度に守られ、さらに流通に大株主として影響力を持っている大手出版社の優位性は失われ始めていた。そしてこの辺りから電子書店の優劣がはっきりしてきた。2014年に予言していたLINEマンガに加え、同じく韓国資本のピッコマが台頭してきた。国内の電子書店はKindle、LINEマンガ、ピッコマ、コミックシーモア、めちゃコミックが5強になった。そしてLINEマンガとピッコマは主力商品を縦読みカラーマンガWEBTOONに移し始めていた。ついに市場の激変が始まったと感じた。僕は2014年に感じていた危機感を思い出した。LINEマンガはインフラと日本の漫画のコンテンツを使い、電子書籍市場のシェアを急速に伸ばすであろう。そして一定の市場を確保した後は、自国で作ったコンテンツを流通させるに違いないと思っていた。それがはじまった。さらに市場にピッコマが加わった。両者が激しく競争する事でシェアを急速に伸ばした。それでもまだ時間はかかると思っていた。まだ、それほどすごいと思える作品はないと感じていた。だがLINEマンガに『喧嘩独学』や『女神降臨』が掲載され、ピッコマに『六本木クラス』が現れ潮目が変わってきたと思った。 2【二人の社長】 当時、サイコミに出向中とは言え、僕は小学館の社員である。小学館社員としての仕事もこなしていた。その一つがサイコミのコミックスのデジタル出版である。サイコミで僕がブロデュースした作品は全て小学館から発売される。そういう仕組みを作っていた。そしてその際に、頻繁にやり取りにするようになった小学館の人物が2人いた。一人は、当時・デジタルマーケティン局の課長、飯田剛弘氏である。彼は小学館の電子書籍営業の窓口であり、サイコミの電子出版をも取り次いでもらっていた。彼は元々はアンチマンガワンだった。電子書店と向き合う立場上、小学館が自社コンテンツを発売する事に否定的であった。それも知っていたので僕とは距離があった。だがサイコミの件で共に仕事をするうちに彼のデジタル出版への広い知見に驚かされる事が増えてきた。サイコミの電子販売についてちょくちょく相談することが増えてきたのである。そしてもう一人、現在の小学館・社長であり当時は専務であった相賀信宏氏である。相賀氏は僕より5歳下だが、これまた僕は距離をとっていた。集英社や小学館、白泉社と言った名だたる出版社のオーナーであり、様々な事業を営む一ツ橋グループ。その未来の総帥が彼であった。中途半端に接する事で嫌われたりでもしたら将来が終わる。そう思って、距離をとっていたのだ。だが、僕の遺留に努め、Cygamesへの出向を進めてくれたのが相賀専務だと聞き勇気を出して、向かい合うことにした。恐れ多くて近づけない存在だと思っていた相賀さんは、ちゃんと話を聞いてくれる上司だった。そして彼に対して僕はWEBTOONスタジオの設立を提案した。WEBTOONスタジオの立ち上げノウハウは分かっていた。初期のサイコミは内部に漫画家やアシスタントを抱え、チームでの漫画制作を行なっていたからだ。ただ、制作コストが高すぎた。そこで僕はコストを下げる方法を思いついた。シェアードワールドである。一つの世界観で漫画を作りストーリーの制作スピードを上げる。また共通の世界観を持つ事で背景素材を共有し、作画コストを下げるというものだ。世界観はどうしよう。当時、アベンジャーズが流行っていて、実験的に複数のヒーローが同じ地域で活躍する仕組みを考えた。今から思えば安易だが、当時はそれ以外思いつかなかったので仕方が無い。マーケットを研究していなかった。ほろばいさ子氏、ASIWIN氏、大寺義史氏、坂本裕次郎氏、笠居秀樹氏、戸塚たくす氏、大いうサイコミやマンガワンで出会った6人の作家が参加してくれた。そして彼らと世界観を練り上げ『PROJECT MASKMEN』というSF企画を立ち上げた。制作費はCygamesにお願いし、販売は小学館を使うという仕組みだ。相賀専務に社長をお願いし、僕は制作を、飯田氏には販売をお願いした。そして株式会社スタジオシードが設立された。僕の初めての会社設立経験である。この時期の僕は恵まれすぎている。Cygamesでは渡邊社長の元で、成長企業の経営を学び、相賀社長の元でエスタブリッシュ企業の経営を学ぶ。これで成長できないバカはいないだろう。 【PROJECT MASKME】 とはいえ、いきなりWEBTOONを作るつもりはなかった。まずはチームで漫画を作るノウハウを手に入れる。そのためシェアードワールドに挑戦した。同じ世界観で戦うヒーロー物だ。少年漫画風の『シャドウニュート』少女漫画風『シャーリー』青年漫画風の『ジャックフォックス』の3作品を作り続けた。世界観も時間軸もつながっているそれは、チームでしか作れない。これを発展させていずれWEBTOONを作ろうと思っていた。順調に作成は進みそれぞれ10話くらい出来た頃であろうか。僕はピッコマの『俺だけレベルアップな件』を知った。衝撃を超える衝撃が駆け抜けた。面白いだけでなく作画、演出、更新頻度がヤバい。僕は悠長に考えていた。まだこんな作品生まれないと思っていた。なんだよコレ、こんなのどう作るんだよ。製作:REDICE STUDIOと書いてある。聞き覚えがあった。前年、スクエニ時代からの友人・イ・ヒョンソク氏が合同会社エルセブンという会社を立ち上げていた。旧知の中である僕と『明日カノ』担当の梅崎達也氏の3人で創業祝いをした事がった。その時の話を思い出した。エルセブンはWEBTOON制作をするスタジオ業務とREDICE作品の日本展開業務を手掛ける・・ヒョンソク氏に電話した。すぐに韓国に飛んだ。ヒョンソク氏の紹介でREDICEのオーナーと合わせてもらった。彼はWEBTOONの未来を語った。うむ、すごい。全てのゴールが見えているようだった。確信した。WEBTOONの時代が来る。(ちなみに彼に『PROJECT MASKMEN』のネームを見せた。彼はWEBTOONではSFは絶対に当たらない、辞めたほうがいいと言った。ガーン、もう作っちゃってるし・・・) ともかく時代はとてつもないスピードで動いていた。それだけは確かだった。 僕はまずチームで通常の漫画制作をして、ノウハウがたまったところでWEBTOONに挑戦しようと考えていた。だが、悠長なことは言ってられない。韓国のスタジオは日本の遙か先を行っている。今すぐにWEBTOONを作らなければ。僕は無理矢理『PROJECT MASKMEN』全作品をWEBTOON化することを提案した。 4【苦闘】 WEBTOON化は困難を極めた。作り方を教えてくれる人も教材もない。今でこそWEBTOONの視線誘導はある程度方法論が確立しているが、2018〜2019年当時は全く分からなかった。だから毎週、みんなで集まり試行錯誤しながら作っていく。サイコミの事業部長をしながら、同時にスタジオシードのディレクター業務をこなした。作家さんと一緒に作品を作るスタジオで仕事は楽しかった。作者と担当という立場ではなく、同じクリエイターとして作品を作るのだ。特に僕は坂本裕次郎氏と密接に接した。元少年ジャンプで連載していた元・漫画家だった。元…である。かれは腰痛を悪化させ、長時間の作画が出来ない身体になっていた。なのでネームまでをお願いしていた。坂本さんはとんでもないネーム力を持っていた。それ以降、僕と彼は組んで様々な作品を作るようになる。僕がシナリオを書いて、坂本さんがネームを書いて、そのネームを作画者さんに渡す。僕は『シャドウニュート』や『レッドマスク』のシナリオを書いた。ちなみに現在コミックルームで作ってる『黒魔無双』もその一つだ。そうして『PROJECT MASKMEN』は完成しサイコミにて公開された。ただ公開されたそれの評判は残念ながら良くなかった。内容の批判もあったが、ダントツにかったのは「読みにくい」だった。自分たちでは読みやすいように作ってきたつもりだ。だが確かに公開されたそれを読むと、なぜか目が滑る。目が疲れる。内容が頭に入ってこない。難しかった。だが、連載を続けていくうちに徐々に作り方が分かってきた。要は視線誘導と情報量。慣れれば日本の漫画よりは簡単だった。なんとかそれぞれ目安となる30話がサイコミに掲載された。いよいよこれらの作品を電子書店に卸すのだ。だがここからが問題だった。その時は何も分からずとり会えずWEBROONが掲載可能な全ストアで同時に公開した。どこのストアでも作品を押してくれなかった。作品はただ単にサイコミで2022年まで淡々と掲載された。一定のファンは付いてくれたが、コンテンツとしては無風で終わった。後に関係者から言われた。「同時に公開しちゃダメですよ。どこかのストアとガッツリ組んで仕掛けないと。WEBTOONは、独占先行配信が基本。そもそもLINEとピッコマはライバルなんですよ。同時に公開したらダメじゃないですか。どっちも押してくれなくなる。」 なるほど・・・だが十分だ。リサーチは終わった。経験も積んだ。そして起業の覚悟を決めた。当初はスタジオシードを譲ってもらうなり、小学館の資本で新しくWEBTOONスタジオを作る形も考えたがそれはやめた。当面WEBTOONは作らない。一色の普通の漫画を作ろう。ならば全額自己資本で作ろう。自分でシナリオを書いて漫画家さんに作画してもらい、電子書店に直接売りこもう。そんなビジネスモデルを作った。2020年コロナでリモートワークになるなか、僕はただひたすらひたすらシナリオを書き始めた。 次号回顧録最終回です。その後、後書きを書いて回顧録は終わりです。

2023-09-15 15:13:50
石橋和章 | Zoo | 漫画編集者&原作者&経営者🎨 @mikunikko

ほぼ漫画業界コラム第26 回顧録・最終話【株式会社コミックルーム】 【相棒】 2020年からコロナの真っ最中、僕はひたすらシナリオを書き始めた。僕だけはない。パートナーの宮口理沙にもシナリオを書いてもらった。宮口には編集経験もクリエイターとしての経験もなかった。ただ映画や漫画や小説にどっぷり浸かっていて引き出しがたっぷりあった。感受性も人並み以上に強かった。僕のシナリオノウハウを教えればすぐに書けるはず。そう考えて彼女に向けて僕の例の漫画制作セミナーを開いた。  物語の作り方やシナリオの書き方、漫画演出のイロハを教えた。3ヶ月も経たずに宮口も漫画原作がかけるようになった。今年TVドラマ化された『あなたは私におとされたい。』は宮口の漫画原作者デビュー作だ。最初は二人で、朝から深夜まで土日も正月もお盆も関係なくひたすら新作のシナリオを書き続けた。  当たっても当たらなくて良い。まずは数だ。既に宮口に僕の『TSUYSHI』や『あっ、次の仕事はバケモノ退治です。』の原作権が所属する会社を宮口に作ってもらっていた。そこに宮口の原作著作権も所属させた。宮口には漫画編集者としての仕事も教えた。宮口にサイコミの仕事を紹介し入稿作業を覚えてもらったのだ。さらに作家をネットで探す方法も教えた。彼女は『結婚できないにはワケがある』の邑咲奇先生を見つけて声をかけた。邑咲奇先生はネーム上げてきた。 『まさかな恋になりました。』の1話だった。お、面白い。宮口の編集者としてのセンスに驚いた。小林翔並みの成長速度だ。天才なのか?僕の教え方が良いのか?両方だろう(笑) いや、いつの日だったか小林翔と宮口と3人で飲んだ時に、小林翔が言っていた。「宮口さんには編集者の才能がとんでもなくありますよ」と。 元・証券会社のトップ営業マンだった宮口は編集者として必要な素養、「感・理・伝」のうち既に「伝」が圧倒的に鍛え上げられたいた。当然「感」は持っている。あとは「理」を教えればいいだけだったのだ。僕は「理」を持っている。それを伝授しよう。簡単だ。宮口はほんの数ヶ月でスーパー編集者に成長した。まさかこんな所に最強の相棒がいたとは。灯台下暗しである。次々と宮口は作家に声をかけ彼らは宮口と仕事をすることを約束した。その作家さん達に向けて、僕と宮口は大量の企画書やシナリオを渡して行った。 【置き土産】 もちろん、この時期も小学館の仕事はちゃんとやっていた。僕の一人部署コミックアライアンス室にはなんと、あの天才・坪内崇氏が入ってきた。そして突然、僕の上司になったのだ。ビッグコミックスピリッツ編集部の編集長として、あっという間に業績を急上昇させ、小学館トップの編集部に変えた坪内さんの次の目的はなんと・・・WEBTOONスタジオ! 運命かよ。この時、小学館にWEBTOONスタジオのノウハウを持っているのは僕だけだった。 いいとも教えよう。ついに天才と組める日が来た。坪内さんには僕が手に入れたWEBTOONのノウハウを全て伝えていった。ここには書けないが超ビッグWEBTOON企画を僕と坪内さんと後輩の松ちゃんで手がけることになった。松ちゃんはマンガワン時代に、僕が採用した中途社員だ。あの事件で僕が泣き暮らしていた時に、助けてくれた後輩でもある。彼はアライアンス室を兼務するようになっていた。毎週、坪内さんと松ちゃんと作家さんで打ち合わせを重ねた。ただここで面白いことが起きた。松ちゃんが編集者として驚く程の、スピードで成長し出したのだ。まあ、僕と坪内さんとの火の出るような打ち合わせ三時間を毎週体験したからであろうか。その後、彼が出す企画はどれも面白いものになった。それらの作品はこれから世に出るだろうが、おそらくその多くがヒットすることを予言しておく。僕はもう小学館をやめる。WEBTOONスタジオと優秀な編集者、これが僕の小学館への置き土産になった。 【内部留保】 僕が独立する準備は整い始めた。あとは金だ。融資を受けるつもりはなかった。出資も受けるつもりはなかった。こっちは漫画原作者だ。シナリオだけで稼げる。作品を売って稼げば良い。小学館の仕事時間以外全てを、シナリオ制作に当てた。書いた。書きまくった。「TSUYOSHI」や「あなたは私におとされたい。」「あっ次の仕事はバケモノ退治です。」がヒットし出した。宮口の会社にはガンガン印税が振り込まれるようになった。僕は給料は貰わない。そしてガンガン税金を払い、ガンガン内部留保を溜め込んだ。月に振り込まれる額が小学館の年収を超えた時、一瞬引退も考えた。どこか田舎で暮らすか。いわゆるFIREしようかと。だが、僕は仕事が好きだ。物欲もない。金は仕事をするために使うのだ。生活レベルを変える必要はない。その金で人を雇おう。僕は宮口にサイコミ時代の担当編集、鍵谷亮を紹介した。大手出版社レベルの年収を提示した。優秀な編集者には価値がある。当然だ。鍵谷はサイコミを辞めて一迅社に転職し、ヒット作を出しまくっていた。鍵谷に僕の会社のビジネスモデルを話した。彼は驚いたが、逆に彼は違うビジネスモデルを提案してきた。今度は僕が驚いた。こいつはやはりすごい。鍵谷の行流が決まった。 そして・・・彼にも、漫画原作の書き方を教えた。最初は僕が書いた1話目のシナリオを渡して、続きを書いてもらうというスタイルをとった。すぐに書けるようになった。 更に僕にはもう一人どうしても、欲しい人材がいた。元ジャンプ作家の坂本裕次郎氏である。彼とWEBTOONを作って以来、僕は坂本さんをずっと口説いていた。彼は漫画家には珍しい経営者視点を持っている人間だった。考え方や感性も近い。今後、僕に病気や事故など何かあった時、僕の代わりになってくれるだろう。ただ彼は自分の会社も経営していた。ずっと漫画一本で食ってきた人間だ。サラリーマンになるのには抵抗があったと思う。だが、僕の必死のリクルートに根負けしたのか、ついに坂本さんの合流が決まった。自分の会社も畳んでくれた。そして僕・宮口・鍵谷・坂本、・・・僕が考えうる最強のメンバーが揃った。更にサイコミ時代のかわいい後輩、大島君も合流した。5人。もう完全な会社だ。そして、いよいよその日が来た。 会社の銀行口座に目標金額の内部留保が貯まったのだ。 【株式会社コミックルーム]】 昨年の2022年。その会社の名前を株式会社コミックルームと名称変更した。そして僕は小学館に退職願を出し受理された。小学館に行く必要がなくなり、僕は全ての時間を自分の会社に注ぐ事ができた。まずは編集プロダクションとしてのスタートだ。出版社むけに作品を卸した。すぐに作品はヒットし出した。「売れられた辺境伯令嬢は隣国の王太子に溺愛される」「恋と地獄」などは出した途端爆発的にヒットした。コミックルームの全作品は、全てシナリオやネームまで僕・宮口・鍵谷・坂本の全員が納得するまで作り込む。一才の妥協は許さない。  (たまーにしてしまって、全員で反省する事もある。何事にも例外はある) そして出来た原作を漫画家さんに渡すというスタイルだ。ヒット率が異常に高いのは当然なのだ。各電子ストアに原作・コミックルームの作品が増え出した。HPを作り作家募集をした。そこには原作者名は別だが「TSUYOSH I]や「あなおと」の名前もある。それらも実はコミックルームの原作だとわかる。更に今年になって「あなおと」「バツイチがモテるなんて聞いてません」が連続でTVドラマのオファーがきた。行ける!予感は確信に変わった。HPに作画希望の漫画家が集まり出したのだ。 もっとシナリオを作らなければならない。新たに人員を採用しよう。僕は専門学校「デジタルアーツ東京」に優秀な人材の紹介を頼んだ。大島くんの出身校だ。また坂本さんにも、社員になってくれそうな漫画家を探してもらった。新たに人を5人雇った。彼ら全員に僕のノウハウと理論を教えた。ノウハウの流出は怖くない。マンガワンとサイコミで大量の作品を見ていた僕だから身についた特殊技能だからだ。 もちろん、永久にこのままではスケールしないので、いずれ幹部たちにはこの技術を身につけてもらわなければならない。最近、僕自身はシナリオを書く量を減らしている。時間をマニュアル作成に当てるべきだからだ。プレイヤーとしての僕はそろそろ終わりにしよう。 今、コミックルーム社員達のシナリオ作成スキルと編集者スキル、ネーム作成スキルは光の速度で成長している。最近の幹部達のシナリオは僕のそれより上だと感じる事が増えて来た。宮口や鍵谷のシナリオに涙したり爆笑したりが増えてきた。最近は坂本さんまで、書き出してどんどん上手くなっている。坂本さんは40代前半、おじさんだってまだまだ成長できるんだ。昔だったら悔しかっただろう。今はなぜか悔しくはない。仲間の成長が何よりも嬉しい。今年僕は46歳になった。人生の後半戦ってこんな心境なのね。 【直取】 2023年。今年になった。小学館を完全に退社した僕の次なる目標は、電子書店との直取だ。LINEマンガ、コミックシーモア、ピッコマ、めちゃコミック。どこで勝負しよう。僕はこの4つの電子書店をすでに、昔の当時のジャンプ、マガジン、サンデー、チャンピオンのようなメディアだと考えている。シーモアで勝負することに決めた。シーモアはWEBTOONよりも漫画に力を入れているし、既に 出版社を通じて出した僕たちの作品もシーモアランキングに常時ランクインしていた。そして今年8月ついに株式会社コミックルームのシーモア直取り作品が4作品公開された。それらの全ての作品は連日TOP10にランキングインし続けている。小さな僕たちの会社が大手出版社の作品と互角以上に戦えている。これは奇跡に思えるかもしれない。だが、奇跡ではない。こういう時代なのだ。    今から23年前、2000年、僕がまだ大学生だった頃、漫画雑誌がプラットフォームだった。漫画雑誌で漫画家達はランキングを競い合った。そこには新人もベテランも関係なかった。売れる漫画を載せた方が勝つ場所だった。その構図が今、電子書店と出版社の関係に置き換わった。 大きな出版社の作品も小さな出版社の作品も関係ない、編プロや漫画家自身が直接取引で載せる場合もある。そして売れる漫画を作れる方が勝つのだ。もちろん、出版社の存在意義は相変わらず高い。日本中に書籍は流通している。紙の本がなくなることはないだろう。今、北米では紙の漫画単行本がバカ売れしている。僕も紙の本が好きだ。紙の本を出す場合は出版社と協業するし、ともにIPを育てるという意義がある。要は多様性だ。  ただ、大きい出版社は今後不利になるかもしれない。変革期においては、ビジネスモデルをスピーディーに変えて行く必要がある。組織が大きれば大きいほど動きは遅くなる。隕石が落ちて恐竜は滅んだ。だが昆虫や小さな哺乳類は生き残った。そんな感じだ・・・ 【終わり】 本コラムで2000年から2023年の僕の編集者人生を書いてきた。ついに、今に時代は追いついた。ここで話を終わるとしよう。約四半世紀。本当に浮き沈みの激しい人生だ。また酷い事が起きるかもしれない。病気になるかもしれないし。酒減らさないとね。  それに漫画業界は激変中だ。今勝っていても、明日負けるかもしれない。漫画業界だけはない。この四半世紀で日本はすっかり国際競争力を失い、日本は老人ばかりの国になってしまった。もう何もかも昔とは変わってしまった。ただ相変わらず面白い漫画は面白いし、面白いゲームは面白い。今年はゼルダに死ぬ程ハマった。ゼルダの世界的ヒットは日本人として素直に嬉しい。  地球環境の変動も深刻だ。今年の夏はやばかった。太陽光戦がこれまでと質が変わった気がする。こんな調子で暑くなって行ったら10年足らずで人類滅ぶんじゃないのかと不安になる。僕はいい。もう十分生きた。ただ僕には高校生の子供がいる。19歳の社員も採用した。彼らの将来を思うと胸が痛い。だが、それらは僕にはどうしようもない。僕はひたすら世の中に面白い漫画を送り続けるだけだ。いや、あえて言おう。 【俺たちの戦いは始まったばかりだ】 回顧録・完 明日は後書き。大学時代の先輩の話とかを書きます

2023-09-16 11:43:23