どうして”食べ物を粗末にしてはいけない”のだろう

ファミリーマートで販売された「スライム肉まん」を使って遊んだ画像がアップされる話題に対して、”食べ物を粗末にしてはいけない”という感想を持つ人が少なからずいました。 そこから“食べ物を粗末にしてはいけない”という規範の意味について、@2atrass@takamattiの会話をまとめました。 参考 暇つぶしニュース : 【グロ】スライム肉まんで遊ぶ人が急増中!!!…これは酷すぎwwwwww 続きを読む
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ザトラス @2atrass

やはり私はキチガイだった。

2011-12-03 10:25:57
ザトラス @2atrass

私は哲学をしているのであって、ガキの屁理屈を言っているのではない。

2011-12-03 10:29:13
ザトラス @2atrass

@takamatti さぁ私の一連の疑問に答えなさい。

2011-12-03 10:07:00
おじ木 @Ozi_Ki

@2atrass 食べ物を粗末にしない< なんかもうナトラッシーが話した内容でほとんど説明されてるんじゃないの。以下の複数の理由により成り立つ規範。1.調理した者、もてなしへの礼儀。2.飽食を退け食料資源を節約する。3.無駄な殺生を避けるという生命倫理。

2011-12-04 04:36:44
おじ木 @Ozi_Ki

@2atrass ナトラッシーがトマトの用途について注目した所は面白くて、そこから思うに、トマトをただ食べるにしても・叩き潰すにしても・芸術品として展示するにしても、その行為が当人にとって何かしら有用である・価値があることが本規範の倫理的側面(3.)において重要な点ではないかと。

2011-12-04 04:46:38
おじ木 @Ozi_Ki

@2atrass 人がある対象を犠牲にするとき、「犠牲にされた対象の尊厳・価値と犠牲によって得られる有用性・価値が等しく感じられる」という心理があるとします(僕が直感的にそう思うだけですが)。

2011-12-04 05:08:42
おじ木 @Ozi_Ki

@2atrass このような心理により、犠牲にされるものの価値と犠牲による価値は初めは異なっていても、犠牲行為を繰り返すことでやがてそれらは等しくなります。トマトを毎日食べていれば、トマトによって得られる美味しさや栄養などの有用性とトマトの尊厳・価値は等しくなっている。

2011-12-04 05:13:09
おじ木 @Ozi_Ki

@2atrass ここで、毎日トマトを食べさらに叩き潰す人がいた場合を考えます。もしその人にとってトマトを叩き潰すことが食べることと同じ程度有用であれば問題ないですが、一切の価値のない無駄な行為であれば、それにつられてトマトを食べることの有用性とトマトの尊厳が減ります。

2011-12-04 05:18:20
おじ木 @Ozi_Ki

@2atrass トマトの有用性には栄養=生命維持も含まれているので、つまり、トマト叩き潰してたらその人自身の価値が減ってしまうことになります。人が生存のために食べるという犠牲行為を止められない以上、その犠牲となる食物を無闇に無駄にする有用性なく犠牲にすることは危険行為であると。

2011-12-04 05:30:24
おじ木 @Ozi_Ki

@2atrass 以上、"食べ物を粗末にしないこと”の倫理的側面について思うことです。

2011-12-04 05:33:48
ザトラス @2atrass

@takamatti その言い分でいくならば、確かにトマトを叩き潰す行為は無益であることになり、食べ物を粗末にするなということの根拠にはなり得るかもしれませんが、前提として「毎日」というのが入っているでしょう。これがネックだ。

2011-12-04 07:05:10
ザトラス @2atrass

@takamatti 毎日食べることと、毎日食べて同時に壊すという場合、有用性は前者で犠牲による損失を補うことは可能になり、後者では有用性と無用性が相殺し合って意味をなさなくなる、というのも解ります。けれど破壊が「一回限り」ならばどうでしょう?

2011-12-04 07:08:24
ザトラス @2atrass

@takamatti 一回限りの破壊(トマトを食べ物として扱わず素材として扱うような行為一般を指す)ならば、有用性と無用性の間柄はどうなっているのでしょう。効用を基にして考えた場合、それの判定基準は主観的なものなのか、客観的に基準が定立され得るのか?

2011-12-04 07:12:45
ザトラス @2atrass

@takamatti 一回の破壊が個人にとって有用ならば、「食べ物を粗末にする」ことにはならなくなり、無益ならば粗末にすることになる、というわけですか。しかしその際の判定基準が主観的だと、一回で1つのトマトを破壊する行為も、一回で1万のトマトを破壊する行為も同次元になりかねない。

2011-12-04 07:17:00
ザトラス @2atrass

@takamatti もっと極めて言うと、本人以外には誰にも理解され得えないトマトを使った芸術作品があるとします。本人はそれを「最高の芸術品」と主観的に認識しているが、他者は「食べ物を粗末にしている」としか認識しない。そして彼は一生に食べるトマトの数より多くをそれにつぎ込んだ。

2011-12-04 07:21:40
ザトラス @2atrass

@takamatti 有用性、無用性の判断が主観的である限りこの行為も悪いことにはならない気がします。本人がその大量のトマトの犠牲によって芸術家としての己の尊厳を限りなく上昇させることができたと思うのであれば、それでも食べ物を粗末にしていることにはなっていないのでしょうか? 完。

2011-12-04 07:26:55
おじ木 @Ozi_Ki

@2atrass 有用性は主観的に測られるものだと思います(そのなかには客観性の高い・多数の同意を得やすいものもあるでしょうが)。当人が食用相応に有用性を感じている限りは、トマトをどれだけの数どのように犠牲にしようとも(当人の心理において)まったく問題ないと思います。

2011-12-04 18:01:06
おじ木 @Ozi_Ki

@2atrass ただし、犠牲の等価性心理は自身の行為だけでなく他者の行為によっても働くため(その程度は人によりかなりばらつきがありそうですが)、だれかが大っぴらにトマトを無駄(に見えるような用途)にすればその点で”食べ物を粗末にする”問題行為として取り上げられることはあるかも。

2011-12-04 18:15:05

@2atrass談 「おそらくこんなの誰も読みません。」