「千客万来」が出来た、小池知事と故・山崎区長の”交換条件”
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豊洲の「千客万来」について、思うことを 誤解をおそれずに、さらに「ざっくり」と言えば、なのだが。 ざっくりと言えば、あの施設は、江東区の故山崎区長が提示した「交換条件」として誕生した。 その話をしたい。 築地にあった東京都中央卸売市場・築地市場は、移転が「待ったなし」となっていた。
2024-04-29 07:48:03築地市場は、なぜ移転しなければならなかったのか。 理由は、簡単だ。時代遅れの築地では、「物流革命」に対応できなくなっていたのだ。 生モノを扱う「魚河岸」では、鮮度が最優先される。 だから、江戸時代の魚河岸は、物流拠点として最も利便性のいい場所に開設された。 それが、日本橋だった。
2024-04-29 07:52:13「日本橋の魚河岸」は、古典落語「目黒のさんま」に登場する。 目黒の片田舎で生まれて初めてサンマを食べた殿様が、目黒こそサンマの本場と勘違い。日本橋の魚河岸で仕入れた極上のサンマに対し、「ああ、それでいかん。サンマは目黒に限る」というのがサゲだ。
2024-04-29 07:55:09江戸時代から明治初年にかけ、日本橋が日本の中心だった。 いまの三越本店と、三井記念美術館。あそこは、江戸時代から三井の地所だ。三越というのは、「三井越後屋」。江戸時代の三越から、明治維新後、三井銀行を中核とする三井財閥が生まれた。
2024-04-29 08:00:53さて。 先ほど、魚河岸では「1分1秒を争う」と書いた。 江戸の町は、ベニスなど問題にならない「水の都」だった。縦横に運河が掘り巡らされていた。 いまの首都高都心環状線(C1)は、64年東京五輪に間に合わせるよう、突貫工事で運河を埋め立てて建造された。
2024-04-29 08:03:28だから、いまもC1には、2車線道路の真ん中にかつての運河の橋脚が残っている場所が何カ所もある。 運河を使って海から船で魚を運んでいた。日本橋の運河が魚市場となったのだ。河岸にあったので、「魚河岸」という。
2024-04-29 08:05:271分1秒を争う魚河岸で生まれた味というのは、どれも、「早い、安い、うまい」だ。 日本橋の魚河岸で生まれたのが、吉野家。 長浜の市場では、さっと湯をくぐらせるだけの豚骨ラーメンが生まれた。 江戸時代から明治維新をへても、日本橋が物流拠点であり続けた。しかし、物流革命が起きた。
2024-04-29 08:06:29これまでの船による魚の輸送が時代遅れとなったのだ。 変わって登場したのが、列車だ。 日本橋では、鉄道輸送に対応できなくなってしまったのだ。江戸時代からの大商業地である日本橋に、貨物の操車場の確保などできない。 そこで明治末から移転が議論され続けたのだが、反対が根強く、頓挫していた。
2024-04-29 08:09:13そこを襲ったのが、大正末の関東大震災だ。日本橋の魚河岸は壊滅。こうして、貨物列車に対応できる築地市場が生まれた。 これは、ありし日の築地市場。奥の建物がカーブしているのが見えるだろうか。 列車の線路に沿って建てられていたのだ。 pic.twitter.com/Ph6IpudIG2
2024-04-29 08:13:09市場が移転すれば、「商圏」も変わる。 日本の商業の中心は、築地から「すぐそこ」の銀座に移った。 僕は以前、「眠れない寿司屋」の話を連ポスした。バズったので、ご記憶の方もいるかもしれない。 ただでさえ眠れないから、寿司屋は築地の近くに店を構えたがる。だから銀座に高級寿司店が多いのだ。
2024-04-29 08:16:01その築地市場。 市場は、東京都の特別会計で運営されている。その費用は、市場で商売している「仲卸」や「大卸」が負担している。仲卸や大卸は、魚を売るだけの商売だ。 しかし、寿司屋や天ぷら屋にとっては、それでは困る。寿司屋なら、極上の茶や割り箸、包丁や白衣も築地で買えたら便利だ。
2024-04-29 08:18:28こうして生まれたのが、築地の「場外市場」だ。 ★東京都の特別会計で運営される「市場」 と、 ★民間の商店が市場の隣で店を開いた「場外市場」 この両輪が、「築地」という街を作っていた。
2024-04-29 08:19:48事情が変わったのは90年ごろだろうか。 築地市場のマグロのセリが、外国人観光客のひそかな人気スポットとなった。 僕の親類にアメリカ人がいたのだが、92年ごろ、「こんどピッツバーグの家族が日本に来る。築地を楽しみにしている」と話していた。 外国人に人気の築地は日本人にも人気となった。
2024-04-29 08:23:00それまでの築地場外市場は、飲食のプロたちのために進化を遂げていた。 極上の海苔。竹を削って作ったつまようじ。日本刀のような包丁……。そして、食のプロたちが仕入れ後の朝食をかき込む場として、飲食店が生まれた。 ところが、観光客が増えたことで、「海鮮の店」が場外市場を席巻した。
2024-04-29 08:26:23そんなタイミングで築地移転が話題になった。 ところで、ポルシェ911ターボという車をご存じだろうか。1970年代に生まれたスーパーカーで、いまも「911ターボ」の名前だけは残っている。 「湾岸ミッドナイト」という漫画に登城する「黒い怪鳥・ブラックバード」が911ターボだ。
2024-04-29 08:30:56こちらが、ネットで拾った911ターボ(型式は930ターボ) 後輪が大きく張り出し、羽がついたこのクルマには、圧倒的な「獣感」があった。 後輪のフェンダーに張られた黒い物体は、前輪が巻き上げる小石で傷つかないようにするためのカバー。それだけ後輪が張り出していた。 pic.twitter.com/BqsBqWlUnS
2024-04-29 08:43:32ヒトラーの命でワーゲン・ビートルを開発したポルシェ博士は、戦後、自分の名前である「ポルシェ」を冠したクルマ開発を進めた。 設計思想が、戦前に大成功をおさめたビートルと同じ「RRレイアウト」だった。路線バスと同じように、エンジンを一番後ろに積む。トランクはフロントボンネットの下だ。
2024-04-29 08:46:15しかし、RRはスタートダッシュこそ利点があるが、それ以外はネガティブ要素満載だ。雨の降り始めのカーブでアクセルをガバッと開けようものなら、すぐにスピンしようとする。 だが、ポルシェはRRを捨てなかった。時代遅れとなったレイアウトなのに、「いやこれが正しいんだ」といわんばかりに。
2024-04-29 08:48:44改良に次ぐ改良。ポルシェ911ターボの基本設計は70年代だが、それを毎年改良し続けることで1989年まで生産し続け、猛烈な勢いで進化し続ける世界のスーパーカーと互角に渡り合った。 巨大なターボパワーを受け止めるように履かせた極太のタイヤ。スピンしないよう後輪を張り出させる。
2024-04-29 08:50:42高速時に浮き上がろうとする車体を路面に押さえつけるための巨大なウィング。 「形ありき」ではなく機能が形を作り上げたポルシェ911ターボには、圧倒的な獣感があった。 僕はいま、築地市場の話をしている。 開場から90年進化し続けた築地市場には、ポルシェ911ターボに似た獣感があった。
2024-04-29 08:54:02ポルシェ911はタイプ930から、1989年に964となり、993、996と進化した。 だが、個人的な感想だが、僕は993でポルシェへの興味がゼロになった。993S4に乗ったことがあるのだが、リアをふくらませるデザインを「作る」ために、リアタイヤにスペーサーを入れていた。
2024-04-29 09:07:47機能が形を作ったかつてのポルシェと、形のためにスペーサーを入れるという「改造車レベル」のセッティングに堕落したポルシェと。 築地の場外市場は、機能が形を作っていた。かつてのポルシェのように。あの場外市場の「獣感」は、機能が形を作ったからではないだろうか。
2024-04-29 09:09:27冒頭に記したように、豊洲の千客万来は、江東区の故山崎区長が提示した「交換条件」で生まれた。 どういうことか。 「東京都中央卸売市場」などという施設は、地元にとっては迷惑施設以外の何物でもないのだ。 深夜から早朝までひっきりなしに走る大型トラック。そして大渋滞。
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