「時代の風:放射能トラウマとリスク」とウルリッヒ・ベックの「リスク社会論」
万人に等しくふりかかることになる。原発事故がそうであったように」 http://t.co/sUGKAmu4 。僕がとくに引っかかったのは「リスクは万人に等しくふりかかる」という部分だ。ある研究者は、違うように援用していた。つまり、富の配分が不平等であるように、
2012-01-23 18:11:25リスクの配分も不平等ではなく、リスクは人々に不平等にふりかかる(大意)と。僕自身、数年前、修士論文を書くために邦訳『危険社会』(法政大学出版)を読んだとき、非常に多くのことを学びながらも、最も気になったのは、その辺りのことである。ベックは、両方書いている。ある部分ではリスクは
2012-01-23 18:15:02「等しく=平等」にふりかかるという意味のことを述べ、別の部分ではリスクは不平等にふりかかるという意味のことを述べている。おそらくベックは両面を見ているのだろう。しかし彼が『リスク社会』(=『危険社会』)を出版した時点で、つまりチェルノブイリ事故が起きた年でもある1986年に
2012-01-23 18:17:23強調したのは、どうやら前者であるようだ。たとえば「危険社会では(階級社会とは異なり、危険とのさまざまなかかわりが客観的にみて同一のものとなってくる。極端にいえば、敵と味方、東洋と西洋、上と下の関係、都市と地方、黒人と白人、南と北などは、文明の中で増大している危険の圧力に
2012-01-23 18:22:54等しく曝されているのである。危険社会は決して階級社会と同じではない」(邦訳71頁、英訳47頁)。つまり斎藤氏の援用に問題はない。彼は標準的な解釈を取っている。僕が問題にしたいのは、むしろベック自身の立論だ。率直にいって間違っていないだろうか。僕がそう思うのは、いわゆる健康格差論、
2012-01-23 18:30:19健康の社会的決定因子論の知見は逆のことを示し続けているからであり、ベックの立論はあまりにもそれからかけ離れていると感じられるからである。そしてその印象は、東日本大震災をめぐる、ある研究者の真摯な考察を目にしてさらに強まった。蛇足ながら、ある事情で、昨年、ではなく、
2012-01-23 18:35:45一昨年の『防災白書』に目を通したときにも。しかし、それは後知恵、後出しジャンケンにすぎないかもしれない。ベックは『リスク社会』以降も論考を発表しつづけているが、僕はそれらを消化できていないということもある。つまらない後出しジャンケン、重箱の隅つつきよりも重要なことがたぶんある。
2012-01-23 18:38:42