【古代】兼任君による秦氏のおはなし【秦氏bot】
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さて今日は初午!残すところあと30分だけど、これからTLを秦氏ツイートでうめる努力をすることをここに宣言いたします(`・∀・´)進行は悪左府様の随身秦兼任が勤めさせていただきます。うるさいなと思った人は今だけ非表示プリーズ!【秦兼任】
2012-02-03 23:32:29今から日付変更まで秦氏の歴史についてすでにツイートしたことも含めてばばーっと喋るよ!日付変更まで何処の時代までおりれるかな!勿論質問も受け付けているよ!答えられないのはシカトするよ!
2012-02-03 23:34:40ちなみに当たり前のことを注意しておくと、これからしゃべるのはあくまで「諸説ある中の数例」だから決してこれは歴史的真実だとか思わないでほしい。気になったら自分で調べろ!!じゃあはじめるよ!
2012-02-03 23:36:14まず秦氏に付いて、みんなは何処まで知ってるかな?まず日本史の教科書に「渡来人」としてやってきた人々の中に漢氏(あやし)達と一緒に紹介されていると思う。そして「秦氏」と「弓月君」!テストで出たって人もいるんじゃない?ゆみつききみじゃないよゆづきのきみだよ!別の表記だと融通王!
2012-02-03 23:39:13彼については「秦氏の祖先」って認識をもってる人が多いと思う。秦氏もそう主張してるしね。ただ残念なことに 日本書紀には弓月君の末裔が秦氏である とは一言もかかれてない。山背皇子と同じだね、彼も聖徳太子の息子だなんて、かかれてないもんね。そうだろうっていわれてるだけ。
2012-02-03 23:41:15って自分ちのことなんだから一応弓月君が秦氏の祖先であるって主張しなきゃいけないんだけれども(笑) あ、信憑性はともかく弓月君が祖先とされている系図はいくつか存在するよ!だから日本書紀にかかれてないから嘘!なんて思わないでね。ただ慎重論は存在するよって話。
2012-02-03 23:43:08我々秦氏ですが、まず朝廷とは勿論関係ありますね。河勝と聖徳太子の主従はご存知ですね。では他の氏族とは?藤原は?源平は?中世の武士達とは?ええ勿論関係ありますよ!はいそこの!「古代史興味ないんで~」とかいってスルーしたそこの奈良・平安・源平・鎌倉・南北朝クラスタ!関係あるんだぞ!
2012-02-03 23:45:42まず藤原氏ですが婚姻関係あります!平家ともあります!源氏、勿論ありますとも!戦国武将とは流石に関係ないだろって?あるにきまってんだろ!!長宗我部も島津も秦氏の派生だよ!
2012-02-03 23:47:11藤原氏は、中臣氏だった中臣鎌足から。蘇我氏・葛城氏なども武内宿禰が祖。そんな感じで古代からの豪族や氏族には一人の祖先がいて、その人物の血統がその名前を冠することができる。みたいな感じだよね?秦氏もそれかというと、実はそうじゃないんだ。
2012-02-03 23:52:58秦氏の祖先が秦の始皇帝、っていう説も有名ですがこれについては肯定も否定もできないよコウテイだけに・・なんちゃってテヘペロ! あと秦氏のルーツについて色んな論がかもし出されているけどコレらについても決定的な決定も否定もできない!とここに言わせて貰うよ。
2012-02-03 23:50:05決定も否定もできない:×
肯定も否定もできない:○
弓月君が二十七県もの人々をつれて日本に来た ってことが日本書紀にあり、彼らが「ハタの民」と認識され、後に弓月君の孫と系図では残されている秦酒公が雄略天皇の勅命の下改めて集った人々の長となりここに「秦氏」が誕生した。 この流れをみればわかるだろうけど、一族じゃないよね?
2012-02-03 23:55:02修正:
二十七県もの人々×
百二十七県もの人々○
※百二十七県の民という記述は日本書紀ではなく
新撰姓氏録でした。間違えちゃったテヘペロ☆
日本書紀では百二十県!
【系図】
弓月君+百二十七県の人々渡来
おそらく弓月君は統率者というより
代表者みたいな立場だったんじゃないかな!
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普洞王(系図では弓月君の息子)
彼の代に仁徳天皇からハタという名前を貰い
ハタの民という名称が生まれたわけだが
代表者一族の統率力が足りなかったのか
各地に離散、各々豪族に仕えることに。
弓月君の一族に仕えていた人々もこれで
だいぶ減ったとか、暗黒時代だね(by日本書紀)
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酒公+小子部雷(栖軽)が集めたハタの民
普洞王の息子とされているのは秦酒公。
彼が雄略天皇に仕え、彼を寵愛する雄略天皇が
勅命:秦氏だよ!全員集合を唱えた。
ここから秦氏スタート!
秦酒公が実質的に秦氏初代族長になった。
二十七県なんて言い方、まず一民族や部族には使わない。しかもそこからバラバラになって、数十年後の孫の代に再結集されている。ここでわかるのは「血縁関係が薄い集団」だったってことじゃないかな?現代で言う、町や村、仕事場ごと移住したみたいなね。しかもたっくさん。
2012-02-03 23:57:12そんだけ多くの人が移動したのに、彼ら全員が一人の人物の末裔とはいえない。しかも渡来人には波があってね、数十年、数百年ごとに波になってきてるんだ。「秦氏」は朝廷がそんな彼らに一応の名札としてつけた。そんな説が通説になってきてる。
2012-02-03 23:58:52つまり秦氏には色んな出身地の人がいっぱいいたんだ!農耕が得意だった人は日本に来てから治水土木をはじめて開拓を、職人だった人は職人に、商売人はそんな職人や鉱山に住み着いた彼らの糧を街へ運ぶ商いを始めた。秦氏はそうやって色んな所で、色んな職業をもった人が集った【技術集団】だったんだ。
2012-02-04 00:00:36だから歴史の本でも秦氏を「渡来人の技術集団」とかいたりするのはその辺のせい。ある所で腕が立つ建築職人は立派な寺をたてて「秦氏ってのは色んな寺を建てるんだね」といわれたり、ある所では鉱山で沢山のものをほりだして「秦氏ってのは鉱山に強いんだね」なんていわれた。
2012-02-04 00:02:20だから現代でも秦氏の正体に対して諸説あるのはその辺の影響だったりしてね!がんばっちゃったら正体あやふやになっちゃったテヘペロ!・・・とかいってるあいだに日付かわってるよーーー!まだいいたいことの一部もはなせてないよー!ちょっともー!
2012-02-04 00:03:35(´・ω・)そんなわけで初午が終わっちゃった。せめてお稲荷さんのところまで話したかったけど駄目だね。次の記念日に持ち越ししよう。・・・ん?次の記念日っていつだ???
2012-02-04 00:04:42あ、最後に言わせて貰うと秦酒公の末裔が山背に秦氏の族長として存在したっていう説が強いです!その族長についても色々うつりかわりがあるんだけど・・・。最初に朝廷から贔屓された秦酒公の一族が今後も山背で宗家として全国散らばる秦氏の中でもそれなりの地位をもっていた、っていう認識でいいかな
2012-02-04 00:08:42勿論歴史書に出てくる山背出身の秦氏全員が河勝さんと親戚ってわけはないからね(笑) でも血がつながってなくても、同じ秦氏同士ってことで連携はけっこうあったんだよ?同じ苗字や出身地とか遠い先祖が同じだった~ってそういう話もってる人同士だと親近感わくでしょ?それに真偽は関係ないっ!
2012-02-04 00:11:09ちなみに某系図だと河勝の直系の子孫に左府様お気に入りの公春殿がいらっしゃるよ!うらやま!じつにうらやま!! それでは皆さんこの続きは次の機会に!大河ドラマで出番がほしい!宇治左府随身秦兼任でした~!
2012-02-04 00:13:14あっという間の三十分。がんばったら平家の公達からごほうびもらえたよ!
ウオオオオオオオお稲荷さんだいすきいいいいうおおおおお!もぐもぐうう【秦兼任】 RT @sukemori_t: hatashi_bot お疲れ様でした。つ【いなり&辛子いなり、畑菜とお揚げさんの辛子和え、ついでの恵方巻き】 http://t.co/pdv6cedO
2012-02-04 00:18:16