2月19日元春の尼子語りを臥薪嘗胆の思いで鹿残す

ついったーなりきり武将山中的まとめ! 雪辱を忘れんが為に元春くんの尼子潰しの語りを纏めました。 ………自分を貶める文章をでこれーしょんするのはなかなかな七難八苦ですね…
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吉川元春 @motoharu1530

閨|◇-)<明日の昼頃にしたいむらいんを拝借する。語りをさせて貰う故。

2012-02-19 01:53:11

翌日…

吉川元春 @motoharu1530

こんにちは。約束通り、語りをしに浮上だ。真面目な語りなので箱あいこんは一時下げさせてもらった

2012-02-19 13:50:03
吉川元春 @motoharu1530

たぐはいつも通り。…それから今回の話は、かなり「俺の主観」での話だ。人によっては不快に感ずる表現があるやも知れぬ。それについては先んじて詫びた上、りむーぶやぶろっくなどの対処をお願いしたい。 #雪梅譚

2012-02-19 13:56:43
吉川元春 @motoharu1530

今回語るのは尼子再興軍の興りから滅亡までだったな。それに先んじて立花の陣の事も話さねばならん。だが話の主軸はあくまで「尼子」故、立花の陣や後に話す中国攻めなどについては軽く触れる程度にするぞ。前回の話をついろぐにて追って貰えば尚一層分かりやすいかと思う。 #雪梅譚

2012-02-19 14:00:18
山中幸盛(鹿介) @yamanaka1578

|≡д≡)っ【12月27日・元春の語りを 参 考 !に鹿残す - Togetter http://t.co/UWieH4kDつぎゃ宣伝……ひっそり見てるですよ…ふふふ

2012-02-19 14:03:12
吉川元春 @motoharu1530

.o0(うわ、見てんのか。話しづらいな…まぁいい)

2012-02-19 14:05:47
吉川元春 @motoharu1530

仇敵、尼子を滅ぼした翌年の1567年。山陰山陽を平定した親父が次に目をつけたのは九州の地であった。九州は貿易の拠点でもある故、これを取れれば毛利の発展は更に盤石たるものとなると考えたのだろう。九州と言っても、筑前の方だがな。 #雪梅譚

2012-02-19 14:04:03
吉川元春 @motoharu1530

そんな折、九州の立花城を守る立花鑑載殿が毛利に誼を通じて来た。目の前に港を持つ立花城は一番の要の城と言っても過言ではない。当然大友も必死になる。内応が知れるや否や、大友宗麟殿戸次鑑連殿を立花城に差し向け、これを落とさせる。鑑載殿は自刃した。 #雪梅譚

2012-02-19 14:07:53
吉川元春 @motoharu1530

だがこちらとて奪られたままではおられまい。親父は龍造寺氏に働きかけるなどしてさせ、立花城を手薄にさせる。そして立花城の兵が薄い内に、俺と隆景は九州に出兵。直ちに立花城に近い三岳城を攻め落とし、立花城攻めの拠点とした。 #雪梅譚

2012-02-19 14:10:45
吉川元春 @motoharu1530

1569年。親父は老躯をおして長府まで出陣し、立花城攻めの指揮を執った。指示に従うがままに俺達は立花城を囲む。慌てた宗麟殿は揉めていた龍造寺氏と講和を結び、立花城へ兵を出す。それだけ立花城は、お互いに取って肝要な城だったのだ。 #雪梅譚

2012-02-19 14:13:48
吉川元春 @motoharu1530

特に先程の戸次鑑連殿の兵の士気は凄まじいものであったな。一時的とは言え、潰走せしめられるかと思った程だ…。とは言え、毛利は優勢であった。そして閏5月3日、遂に立花城は開城。中に篭っていた兵は宗麟殿の元へ返した。無駄な流血は無用故。 #雪梅譚

2012-02-19 14:16:26
山中幸盛(鹿介) @yamanaka1578

(てれびが鹿狩り…たいむらいんも鹿狩り…)

2012-02-19 14:17:50
吉川元春 @motoharu1530

城が落ちたと喜んだのも束の間…、信じ難い急報がもたらされた。まず、滅亡させた筈の尼子が再び息を吹き返し月山富田城を囲んだと言う事。そして大内の生き残りが山口にて挙兵したと言う事。我が耳を疑った。何故この時分に、とな。 #雪梅譚

2012-02-19 14:18:59
吉川元春 @motoharu1530

気付いた時には敵の策の中だったのだ。宗麟殿は各所に手回しをし、尼子、大内、宇喜多、福屋などに反旗を翻すよう触れ回っていたのだ。蜂起した連中を鎮める為に、立花城を退いて中国へと戻らねばならなくなった。折角落とした城を見捨てろ、と。 #雪梅譚

2012-02-19 14:21:42
山中幸盛(鹿介) @yamanaka1578

前にちょっと触れたし、元春くんも言ってるけど、大友とは内通して、この機に再興に立ち上がったんですよ! 淡々と隙を狙ってたのです(`・ω・´) 情報戦も大事!

2012-02-19 14:32:20
吉川元春 @motoharu1530

俺と隆景は一度は反対するも、結局渋々とそれに応じた。宗勝殿や坂元佑殿、桂元重殿は城に残り、万一の時は戦うと言ってくれた。毛利軍は俺達吉川軍を殿として退却。その様を見た鑑連殿「決死の思いでいる敵を追撃するのは智謀無き事」と言い、追撃を制止させたと言う。…有り難き事よ。 #雪梅譚

2012-02-19 14:23:52
小早川隆景 @takakage1533

|*´∀`]春兄がまたなんか語ってますが…あの時は本当に大変でしたね…。宗勝にも頑張ってもらいました

2012-02-19 14:25:57
吉川元春 @motoharu1530

無事帰りついた所で、俺達はまず大内の生き残りを掃討した。首謀者は大内輝弘殿。義隆様の叔父だな、ずっと宗麟殿に匿われていたらしい。この時、城主不在の高嶺城を攻められたのだが、城主の市川経好の妻が「女城主」として奮戦して持ち堪えてくれたお陰で落とされずに済んだのだ。 #雪梅譚

2012-02-19 14:26:17
吉川元春 @motoharu1530

さて、亡き者にした筈の尼子の蜂起だが。これも「あいつ」…鹿介の仕業だった。鹿介は京都の東福寺で僧侶となっていた孫四郎と言う男を担ぎ上げる。この孫四郎は尼子の新宮党であった尼子誠久殿の遺児であった。担ぎ上げるには格好の「象徴」であった訳だ。 #雪梅譚

2012-02-19 14:29:27
吉川元春 @motoharu1530

哀れ孫四郎は還俗し、勝久と名乗る。大人しく僧を続けておれば危機に身を晒す事もなかったろうにな?それに安芸には降伏してきた義久殿達もいた。己が挙兵する事で義久殿の身が危うくなる事を知っていて、挙兵したとなれば…不忠極まりない話だと思わんか。嘗ての主を見捨てたも同然だ。 #雪梅譚

2012-02-19 14:31:53
山中幸盛(鹿介) @yamanaka1578

(うわー、言い訳したい……そう思われるのもやむ無し、ですがね…義久様は山中の一番近しい主ですから……)

2012-02-19 14:39:14
小早川隆景 @takakage1533

|*´∀`)そういえば私といえば三原かもしれませんが伊予筑前なども治めてた時期があるんです。名島とか…

2012-02-19 14:33:18
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