mizya125さんの東日本大震災回想(2012年3月9日)

▽2011年3月11日14時46分18秒、東日本大震災。震災後一年を前にした岩手県陸前高田市出身の @mizya125 さんの記憶。 ▽青森県むつ市で震災に遭遇。2011年3月31日朝、盛岡発の自動車学校(陸前高田ドライビングスクール)行きバスで陸前高田市へ。 続きを読む
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miz @mizyas125

私の実家は陸前高田です。でも、実家は高台にあったため無事で、両親も無事でした。そんな私がこんなこと言うなんて甘ったれな気もするけど、少し吐き出させてください。

2012-03-09 09:31:41

2011年3月11日(金)14時46分18秒:あの日

miz @mizyas125

あの日、地震が来たときは娘と息子と自宅アパートにいました。むつ市は震度4。揺れている最中に停電になり、とにかく2人の子を抱き寄せて揺れがおさまるのを待っていました。時系列はあやふやだけど、揺れがおさまってから旦那、自分の家族、旦那の家族にそれぞれメールを送りました。

2012-03-09 09:35:04
miz @mizyas125

その時点で携帯の電池が3分の2しかなかったので、迷いつつもワンセグ起動。混乱するTV放送、そのうち宮古や釜石に津波が押し寄せる映像が流れてきて…。何度も訪れたことがある町だから、なんとなくわかる。あそこであの位の津波ってことは、高田もダメかもって。

2012-03-09 09:38:13
miz @mizyas125

携帯の電池が心配になって、ワンセグを切った頃、旦那から電話。原発内で勤務中だった旦那、ひとまず無事。いつ帰れるかわかんない、ごめんね、うん大丈夫!という短い会話。そして妹2人と、旦那母からも無事の連絡が入る。高田の両親からは返信はない。

2012-03-09 09:41:34
miz @mizyas125

父は市内の高台にある工場勤務。だからわざわざ町に下りて行ってなければ無事なはず。母は勤務先の学校がきっと避難所になっているだろうから、その対応で忙しいから連絡は取れないだろうな…と思っていた。

2012-03-09 09:43:23
miz @mizyas125

旦那は帰宅許可が出て、18時過ぎには帰宅。それからどこかで電池式の携帯充電器が売ってないかと何件か店を回ったけど、既に売り切れ。そして両親と連絡が取れないまま夜になり、高田にいる親友にもメールしたけどやはり返信はなく…。

2012-03-09 09:47:52
miz @mizyas125

今考えると、ガソリンは満タンだったから車に行ってラジオを聴いたり、車でTVを見たりできたんだ。でも、真っ暗で余震も続く中、1人車に居るのは怖いし、何より子どもたちのそばに居たかった。暖房がなく寒いので、毛布を増やして皆で早めに布団に入った。

2012-03-09 09:50:09
miz @mizyas125

子どもたちはすぐに寝たけど、旦那と私は少し揺れる度に子どもを1人ずつ抱き寄せる。私はほとんど眠れず、携帯の電池が残りわずかになっても、mixiやTwitterで高田の情報を探し続けていた。そんな中、見つけた一枚の投稿写真。そこには…

2012-03-09 09:53:43
miz @mizyas125

「高田小の子どもたちは高寿園か希望ヶ丘病院にいます」という電信柱に貼られた紙!その写真を見て、勤務していた母も一緒に避難したかも!という気持ちと、高田小まで津波が来たの?どういうこと?と整理のできない思いがぐるぐる回っていました。

2012-03-09 09:57:06

2011年3月12日(土)

miz @mizyas125

翌朝6時。夜が明けてきたので急いで車に行って、TVをつける。寒さと恐怖で体の震えがおさまらない。夜中にネットで「陸前高田4町水没」という情報を目にしていたから少しは覚悟していたけど、ニュース映像は私の想像をはるかに超えていた。

2012-03-09 10:01:58
miz @mizyas125

そのうち「岩手県陸前高田市からの中継です」というアナウンス。そこに映っていたのは母校であり母の勤務先でもある小学校。校庭と校舎は3メートルくらいの高低差があるんだけれど校舎の中まで津波が押し寄せた形跡があり、校舎の周りにもがれきが…。

2012-03-09 10:04:51
miz @mizyas125

ここまで津波が来たなんて信じられない。と思っていたら、今度は別な場所から町の中心部を撮った映像が流れた。家がない。ホテルとか体育館とか市役所、3階建てのスーパー、病院。いくつかの大きな建物は残っているけれど、あったはずの町がない。

2012-03-09 10:07:50
miz @mizyas125

その映像を見て、事の重大さをやっと理解した気がする。映像を見るまでは、いや情報が交錯しているかもしれないし、高田が壊滅だなんてそんなはずは…と思ってた。でも、現実だった。そして母はダメかもしれないと初めて思った。

2012-03-09 10:09:56
miz @mizyas125

私も妹たちもなぜか「父は大丈夫だろう」と思っていた。なぜかは分からないけど、父は生きていると思っていた。でも母は…。小学校まで津波がきている。大勢の子どもたちや避難してきた地域の人たちが避難するのを見届けてから、最後に避難していたとしたら…悪い想像しかできなかった。

2012-03-09 10:12:42

2011年3月12日(土)

miz @mizyas125

12日の午前8時半過ぎ、アパートの電気が復旧して、そこからはTVにかじりついていた。携帯も充電器に繋ぎながら、前日にメールをくれた友人に返信したり、妹とこまめに連絡を取ったりしていた。地元を離れている高田の同級生と連絡を取り合い、どこどこのTVに高田が映ってたっけよ、と情報共有。

2012-03-09 10:16:11
miz @mizyas125

いつからかどの局も母校高田一中から中継するようになっていた。恩師がちらっと映ったときは、同級生で喜びあった。もしかして親が、知っている顔が映るかも?!とTVにかじりついていた。でも、12日も両親とは連絡が取れないまま夜になってしまった。

2012-03-09 10:19:18
miz @mizyas125

夜になって今日高田に行ってきたという同級生からの連絡が転送されてきた。「かなり厳しい状況だから覚悟したほうがいい」って。

2012-03-09 10:24:56

2011年3月13日(日)

miz @mizyas125

13日のお昼頃、同級生の1人がダメだったみたいだ、という連絡が入る。震災で初めての身近な犠牲者。「これからはこんな連絡が入ってくるだろうから、覚悟しておこう」という同級生男子の言葉。。

2012-03-09 10:31:43
miz @mizyas125

そして、実家の両親から連絡が来たとか衛星電話で連絡が入ったとか、無事の報告も入ってくるようになる。相変わらず、両親とは連絡が取れない。祈るしかない。

2012-03-09 10:34:34
miz @mizyas125

13日夕方、盛岡に住む伯父から妹に連絡。今日の岩手日報に母のコメントが載っていたよ!と。インタビューに答えている=生きているってこと!!よかった…本当によかった。そして、岩手内陸在住の妹夫婦が翌日高田入りして直接両親の安否確認をすることになった。

2012-03-09 10:37:50

2011年3月14日(月)